第56話 ベルの仕立屋
ルークの誘いに、私は怯えて身を固くした。
「外に、出るの……? 人が沢山いるのではないかしら……」
私が掠れた声で言うと、ルークは少し困った顔をして、私の頭を撫でた。
「うん、まあね。外はまあまあ賑わっているかな……何しろ、花冠の祭りを控えているからね。国中どころか近隣諸国からも、多くの人々が王都にやってきている。……どうする? きみが本当に嫌ならば、出かけなくてもいい。でも」
「でも?」
ルークはそこで言葉を切り、私の顔を両手でそっと包み込んだ。美しい灰色の瞳が、私を見下ろしている。とても真剣で……優しい光を湛えて。
「クレア。きみは今まで、自分を恐れ、他者を恐れ、狭い世界で孤独に生きて来ただろう? だが、もうその日々は終わったんだ。きみは僕の妻となり、新しい世界に足を踏み出した。きみはもう、『引きこもりのモーガンの娘』じゃない。今、きみの目の前には、世界がどこまでも広がっている。僕はきみに、この広い世界に出て、胸を張って幸せに暮らして欲しいんだ。……大丈夫。僕が、きみの隣にずっといるよ」
優しい声。私は返す言葉が思いつかずに、ルークの瞳を見つめた。温かな言葉が、春の優しい雨のように、私の体のすみずみに沁み通っていく。ルークは少し照れたように、そっと私の頬から手を離し、肩をすくめた。
「……なーんて。偉そうなことを言った割には、僕は、きみの夫として、きみの隣にいることは出来ないんだけどね。僕は、きみも知っての通り、この素顔も名前も、世間に晒すわけにはいかない。だから、僕が仮面無しできみと共にいる時には、『魔術師の弟子ルカ』ってことになっちゃうけど。……どうだろう、嫌かな?」
申し訳なさそうに言うルークに、私はゆっくり首を振った。
「……いいえ。そんなこと、ないわ」
他に言いたいことが沢山あるのに、うまく言葉に出来ない。言葉が感情を捉えられない。私は何を言うべきか、必死に探して目を伏せる。ルークの怪訝な声がした。
「クレア? ……すまない。やっぱり出かけたくないのなら、ここで……」
「私、あなたと一緒に行くわ」
ルークの言葉を遮って言うと、彼は少し目を見開いた。私は、ルークの首にするりと腕を回して、その首筋に顔を埋めた。自分でも、どうしてそうしたのか、よく分からない。ただ、突然、この人に触れたくなったのだ。ルークの首筋に顔を摺り寄せると、彼の体の熱と香りが私の中に流れ込んできた。私はとても幸せな気分で、ルークの耳元で囁く。
「ありがとう、ルーク。ごめんなさい。私、本当はもっとあなたに言いたいことがあるのだけれど……上手く言えないわ。ただ、これだけは言わせてくれる? 私は、あなたのことがとても好きで……あなたと一緒なら、どこにでも行くわ、って」
思いを正確に伝えるには、不十分かもしれない。けれどきっとルークなら、笑って頭を撫でてくれるはず。そう思ってじっと待っていたが、なぜか彼は身動き一つしない。私がそっとその顔を見上げると、彼は突然、盛大なため息をつき天を仰いだ。
「ああー、もう! きみって、ちょっとそういうところあるよね!! いきなりそういうことしちゃダメだろ、クレア!!」
「えっ?! ど、どういうことかしら」
「首とか、ちょっと僕、弱いんだよね?! 分かってやったわけ?! ああー、もう!! これから出かけるってのに、すっかりその気になっちゃったじゃないか!!」
「ち、違うわ!! 私、そんなつもりじゃ……」
ルークは「ああー、もう!」と何度も叫びながら、私から身を離した。
「くそっ、駄目だ! クレアのそばにいると、うっかり素の自分が出てしまう! うん、外では絶対に、ある一定のラインからきみには近づかないようにしよう……落ち着け、お楽しみは、夜にとっておくんだ……」
ルークはブツブツ言いながら、手にしていた薄絹のケープを私の肩に羽織らせる。
「いい? クレア。僕は今から、魔術師の弟子ルカ、だからね。いくら僕のことが好きだからって、間違っても人前で僕にくっついてきたり、キスしたりしたらいけないよ。僕は、きみの夫の弟子と言う立場なんだから!」
「当たり前でしょう?! 私、もしあなたがルカのふりをしていなくたって、ひ、人前でそんなこと、するはずがないわ!!」
「はあ。全く、まだ出かけてもいないってのに、もう帰りたくなってくるよ。ねえ、クレア。早く用事を済ませて帰ろうね!」
ルークの笑顔に、私は、寝室を別にして欲しい、という言葉を飲み込み、曖昧に頷いた。ルークは私をぎゅっと一度抱きしめてから、部屋の扉を大きく開ける。身を隠すことなく出る、初めての王都の夜。春の夜風に乗って、遠く、人々のざわめきが聞こえる。
屋敷の正面玄関に出ると、そこで待っていたテオとノラ、そして幾人かの使用人が、私に
顔を上げたテオが、いつも通り淡々と言った。
「奥様。王都へようこそお越し下さいました。現在王宮にて執務に当たっていらっしゃるご主人様より、ご伝言を承っております。ご主人様は多忙のため、暫くは王宮及び魔術院を出られない、とのこと。代わりに、ご主人様の弟子であるこちらのルカが、奥様をご案内させて頂きます。何かございましたら、このルカに遠慮なくお申し付け下さいませ」
「ええ、分かったわ。ありがとう」
ルカに扮したルークが、羽根帽子を手に恭しく礼をする。私はぎこちなく会釈した。ノラが相変わらず無遠慮に私を見ているので、私はその視線を逃れるように馬車に乗り込む。ルークが私の隣に座り、御者席に飛び乗ったテオが馬にむちをくれると、馬車は
「どこへ行くの?」
「着いてからのお楽しみですよ。さあ、奥様。どうぞごゆっくり、初めての王都見物をお楽しみ下さい」
ルークは悪戯っぽくそう言って、それきり窓外に目を向けて黙ってしまった。
結婚式の夜と違って、屋根のある馬車だ。王都の夜はかなりの賑わいで、私は青ざめる。だが、同じような馬車が何台も行き交い、こちらに注目している者など誰もいない。私はほっと息を吐き、握りしめていた両手を緩めた。こんな賑やかな場所に出るなど、人生で初めてのことだ。私は次第に、身を乗り出すようにして辺りを眺めていた。
私が飽きずに辺りを眺めている中、馬車は賑わった通りを抜け一本の路地に入った。薄暗いその路地の一角でテオは馬車を止める。小さな四角いランプがドアの上で灯るだけの、石造りの長屋の一軒。よく見ると、木のドアの上に、真鍮の看板がかかっている。ルークが先に馬車を下り、私に手を差し出した。私は看板を見上げる。
「『ベルの仕立屋』……?」
ルークは羽根帽子の下で微笑み、木のドアを開けて私を通した。ランプの灯りがいくつか灯った、しんと静まった隠れ家のような空間。奥に雑多な裁縫用具が積まれた、古い木のカウンターがある。そこで本を読んでいた店番らしき小柄な少女が目を上げた。濃緑色のまっすぐな髪を耳の下で切り揃えた、透けるように色の白い少女だ。大きな瞳は海の青で、髪にはキラキラ光る銀色の蝶の髪飾りを付けている。彼女は、私の背後でドアを閉めていたルークに明るい声をかけた。
「らっしゃい、ルカ。待ってたよ。じゃあ、こちらが、魔術師殿の奥方か?」
彼女は青い瞳を私に向けた。私はびくりと肩を揺らす。ルークが羽根帽子を取りながら言った。
「そうだよ、こちらがクレア奥様だ。……奥様、彼女はこの店の女主人、仕立屋のベルでございます。まるで子供みたいですが、これで二百歳は優に超えていますからね。くれぐれも無礼のないよう」
「おい! 年齢は非公表だって言っただろ? 相変わらず無礼な男め……へえ、クレアさんね。うん、いい魂をしている。魔術師殿も、いい奥方に巡り会えたじゃないか」
ベルはカウンターを潜ってこちらに出てきて、私を楽しそうに見上げた。華奢な手足に、成熟しているとは言い難い細身の体。やはりどう見ても、子供にしか見えない。彼女は、私の挨拶を待つこともなく、さっさとカウンターの奥に戻って高い椅子に腰かけた。ルークがカウンターに肘をかけて言う。
「お師匠様の手紙は読んだよな? 用意しておいてくれたか?」
「当然だろ? 魔術師殿の頼みを断るわけにはいかないよ。恩人だからな。ちょっと待って……今出してやるから」
ベルはルークに視線も移さず高い椅子を飛び降りると、カウンターの中にある棚の前を行ったり来たりしている。ロール状の布地が詰め込まれた木製の棚は、天井まで届く高さだ。子供のような彼女にとても届くとは思えなかったのだが、心配は無用だった。暫く棚の前を行き来していた彼女は「よし、あれだな!」と言って、背中に差していた細い杖を振る。すると、いくつかの布地の束が、ひとりでにカウンターに下りて来た。私は思わず目を見開く。
「すごいわ! 今のは……魔法?」
「まあそうだね。私はこれでも、ロマ国内一の、魔法衣の仕立屋だからね!」
ベルはそう言って胸を張り、カウンターに肘をつき、キラキラ光る青い瞳で私を見上げた。
「クレアさん。あなたの夫である魔術師殿のご依頼で、私ベルが、あなたのドレスを仕立てさせてもらいますよ。王宮の舞踏会で着る、この世にまたとない素晴らしいドレスをね!」
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