第55話 女中頭ノラ

 ルークが慌ただしく魔術院に出かけてすぐ、ニコがやって来た。ニコはその華奢な白い背に、私の分厚いマントを載せている。私はニコに抱きついた。


「ニコ! ありがとう、助かったわ! 昨夜、広間にマントを置いて来てしまったから、どうやって廊下に出ようかと思っていたの」


「さっきご主人様に、クレアに届けてって頼まれたんだ。でも、なんで? クレア、辺境の屋敷ではマントなんて着てなかったのに」


「……ここでは、色々と不都合があるのよ。人間って、結構大変なんだから」


 ニコは「ふうん?」と言って首を傾げた。マントを羽織った私は、ピクリと両耳を動かす。怒ったような女性の声。恐らく階下の話し声だ。


『テオさん! 一体なぜ、あたしらを奥様に会わせてくれないんです?! 奥様も、慣れない屋敷でお困りでしょうよ。あたしらがお手伝い致しますから』


『ご主人様の仰せだ。奥様はとても繊細なお方で、身の回りのことを人に任せるのを好まないそうだ。というわけだから、暫く奥の部屋には行かなくていい。表の方の管理を頼む。ご主人様がいずれ、奥様がご実家で懇意にしていた女中をここに連れて来るそうだから、奥様のお世話はその者にやってもらえばいいだろう』


『んまああ!! なんて言い草ですか!! あたしらが信用できないとでも仰るんですかね、ご主人様は!! 奥様も奥様です! あたしらに、お顔くらいお見せ下すってもいいのに!! あたしら女中は、奥様がいらっしゃるのを、それはそれは楽しみに待っていたんですよ!』


 私はびくりと肩を揺らし、忙しなく耳を動かした。この女性の言葉が、胸に刺さる。きっと彼女達があの部屋やドレスの準備をしてくれただろうに、御礼の一つも伝えていないのだ、私は。私が動揺に両手を握りしめていると、彼女は急に声を落として言った。


『……テオさん。ご主人様……坊ちゃんも大きな秘密を抱えてますが、もしや奥様にも何かあるんですか? でも、どんな秘密があるにせよ、このあたしには気遣い無用ってもんです。あたしは、坊ちゃんがデイヴィスの家にいた頃からの付き合いなんだ。坊ちゃんの周りのどんな秘密でも、墓場まで持っていく自信がありますよ。え、どうなんですか、テオさん? あたしにだけは、なぜ奥様に会わせてくれないのか、こっそり教えちゃくれませんかね? もちろん、誰にも絶対に言いやしませんよ。あんただって知ってるでしょう、あたしが、どんなに仕事熱心で誠実な人間か。あたしら北部ダリの民は、田舎者で突っけんどんだって馬鹿にされることも多いがね、口が堅くて家族思いなのだけは、このロマ国内のどこの奴らにも負けないんだからね』


 この屋敷の使用人は、ルークが特に信頼している人物3名……テオと女中頭と、ルークの身体全般の管理をしてくれる医術師……しかルークの素顔を知らないらしい。他の者は皆、彼らの主である魔術師と、『ルカ』と名乗る弟子が同一人物だとは知らないそうだ。昨夜ルークからその話を聞いて、私は彼の徹底ぶりに驚いた。ルークはある面ではびっくりするくらい適当だが、ある面では恐ろしく用心深い。


 テオの、ため息交じりの声が聞こえる。


『……そりゃあ、私だってお前の人柄はよく知っているよ、ノラ。共にデイヴィス家にお仕えして、もう四十年以上の付き合いだからな。だが、私も本当に知らないんだ。いいか、本当にここだけの話だぞ。奥様には、確かに何か大きな秘密がある。だがそれは、この私にすら、坊ちゃんは明かして下さらなかった。だから私も、詮索しない。奥様にどんな秘密があろうとも、我らは坊ちゃんの忠実なる従者、ただ黙して従うのみだ』


 ノラと呼ばれた女性のため息が聞こえる。


『……全く、あんたの堅物ぶりも、あたしに劣らず相当さね! 分かりましたよ……あんたが嘘を言っているようには見えないし、じゃああたしも、あんた同様、余計なことは聞かないようにしようじゃないか。でもね、やっぱり奥様も、慣れない屋敷で色んな不便があると思うんだよ。女性なんだし、坊ちゃんや、あんたには言えない困りごともあるかもしれないじゃないか。だから、せめて奥様に伝えて欲しいんですよ。あたしで良けりゃ、なんかお手伝いしますから、ってね……』


 私はいたたまれずに、廊下に出ていた。革の特製靴のおかげで、大理石の廊下にも足音が響かないことにホッとする。昼間の私の足では、ニコのひづめよりもずっと大きく不気味な足音を立ててしまうに違いなかったから。ニコが背後から不思議そうに言った。


「どこ行くの? クレア」


「下よ。少し……挨拶をして来ようと思って。一緒に行く?」


「うん。ボク、広間の毛糸玉で遊ぶんだ」


 声の在りを辿って、ニコと共に広い階段を下りて行った。この屋敷はとても複雑な造りになっているが、昼間の私には、何の問題も無い。この方向感覚と聴力があれば、彼らの話している場所は手に取るように分かった。それはニコも同じで、一角獣は、数ある獣の種族の中でも、非常に鋭敏な感覚を持っていることで知られている。彼らは外敵との長い闘いの歴史の中で、そう進化したのかもしれなかった。


 一階に下りて迷路のような廊下を歩いていくと、やがて見覚えのある場所に出た。この先に、昨夜お茶を飲んだ広間とエントランスがあるはず。そちらに続く廊下の隅に、テオと、ノラと呼ばれていた女性の姿があった。こちらを向いて話していたノラが私に気付く。テオが、その視線につられるように後ろを振り向いた。彼は眉を寄せて言った。


「……クレア奥様?」


「ええ。おはよう、テオ。それと……」


 驚いたように目を見開いていたノラが、ハッとして頭を下げた。


「おはようございます、奥様。あたしはノラ。この屋敷の女中頭です。奥様におかれましては、ご機嫌宜しゅう」


 と言って、こんな晴れた朝から、しかも邸内で、分厚いマントを頭から被っている私をじろじろと見回した。私はそっと頭を下げた、肌と髪が出ないように、細心の注意を払いながら。


「初めまして、ノラ。私はクレア。こんな姿でごめんなさい。私は……とても肌が弱くて、陽の光を浴びることが出来ないの。だから、昼間の外出はとても難しいのよ。ご挨拶が遅れてしまったこと、お詫びするわ」


 私が言うと、黒い女中服を着ているノラは首を振った。四角く骨ばって日焼けした顔に、小柄だが筋肉質な体。白髪をきっちりと束ねたこの老女性は、笑み一つ浮かべず、キッと唇を引き結んでいる。話し方は朴訥ぼくとつだが勤勉そうで、ルークの言う通り、確かに信頼のおける人物と言う感じがした。ふくよかでニコニコしていたメアリとはまた違うタイプの、頼りになりそうな女性だ。ノラは言った。


「いいえ、滅相もない。そういうことでしたら、余計に、慣れない場所での生活は大変でしょう。あたしらで良ければ、お手伝いしますから。なんなりと御申しつけ下さい、奥様」


「ええ、ありがとう。そうさせてもらうわ。大丈夫、今のところは困っていないから……と言うのも、あのお部屋にあのドレス。あなた達が用意してくれたのでしょう? ありがとう、助かったわ。こんなに急にここにお邪魔することになったのだもの、準備も大変だったわよね。ごめんなさい、手間をかけてしまって」


 ノラは、じろじろと私を見つめながら首を振った。悪気はないのだろうが、その無遠慮な視線に、私は内心苦笑してしまう。ノラは胸を張って言った。


「いいえ。あれしきのこと、手間のうちにも入りません。ご主人様はいつも、もっと無謀な要求でも平気な顔で押し付けて来ますからね。奥様には、さぞかしご心労も多い事かとお察ししますよ」


「おい、ノラ。奥様に滅多なことを言うもんじゃない。……奥様。申し訳ありません、このノラは、正直すぎるのが玉にきずで」


 テオの言葉に、私はふふ、と笑って静かに首を振った。ルークの傍若無人には、使用人も振り回されているようだ。


「いいえ、いいのよ。いつも夫の面倒を見てくれてありがとう。……じゃあ、私はこれで。夕暮れまで、奥の部屋でゆっくりさせてもらうわ」


「奥様、お食事はどうしましょう? あたしで良ければ、部屋にお持ちしますがね」


「……ええ、そうね。ではお願い出来るかしら。私は料理も出来るのだけれど……あのお部屋には、かまどはないものね」


「奥様に作らせるなんて、とんでもない! あたしの味がお口に合うかは分かりませんけどね、まあ結構評判はいいんですから。楽しみにしてて下さいよ」


「ええ、そうね。ありがとう、ノラ」


 私は彼らに挨拶をして、ニコと別れ、奥の部屋に向かう。テオとノラが、その場を去った私について何か話すかもしれないから、私は意識して、耳を折り畳んだ。こうしておけば、余計な音を拾わずに済む。自分の噂を盗み聞きするのは、あまり気分の良いものではない。


 部屋に戻ってほっと息を吐く。やはり、慣れない人の前に出るのは、とても緊張する。マントを脱いだ私の額には、うっすらと冷たい汗が浮かんでいた。


「……マントを着ていてもこの有様なのに、王宮の舞踏会だなんて。私は、知らない人となんて、ほとんど話したことがないのに。3日後の夜が、今から憂鬱ね……。ルークは、ずっと一緒にいてくれるのかしら……」


 ノラが届けてくれた昼食は、白身魚のソテーと野菜の煮込み、それに丸パンだった。ノラは食事ワゴンを部屋の外に置いて「お食事です」とだけ言い残して去って行った。私は彼女の気遣いに感謝して有難く頂く。素朴な味で、とても美味しかった。私は、自分の勝手な都合で、実家のメアリを呼び寄せようとしていたことを恥じた。ノラにだって、この屋敷の女中頭としてのプライドがあるはずだ。


 陽が沈んで少しして、ルークが私の部屋にやって来た。思ったより早い彼の帰宅に、私は驚いて立ち上がる。しかも、彼は今朝出て行った時の仮面の魔術師姿ではない。シャツにズボン、丈の短い緑のマント。頭には、昨日と同じ羽根帽子を被っている。私は笑顔のルークに問いかけた。


「ど、どうしたの? 随分早かったのね。今日は忙しそうだったから、てっきり、帰りは夜になるものとばかり」


「へへん! そうだろ? 今日はさ、デズの奴とずっと一緒だったんだけど、クレアが昨夜ここに来たこと言ったら、じゃあ早く帰ってやれーって。僕も、ちょっときみを連れて行きたいところがあったからね。今すぐ出られる? 大丈夫、もう陽は沈んでるよ!」

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