第54話 別邸の夜

 私は、白い月明かりの差し込む廊下を、ニコの後について歩く。邸内に人影は無い。長い廊下には、ただ壁掛けランプだけが点々と灯っている。ニコが大理石の廊下をトコトコ歩きながら私を見上げた。宝石のように青い瞳だ。


「あのね、クレア。ボクが人の言葉を話せることは、ここでは秘密だよ。テオがね、危ないから、って。ご主人様には来客が多いし、その中には悪い人もいるかもしれないから、目立たないようにしていなさい、って言われたんだよ」


 ニコは、ただでさえ絶滅の危機に瀕している一角獣だ。その上、人語を理解しているとあれば、どんな悪人に狙われないとも限らない。私はニコの首筋を撫でてやりながら、神妙に頷いた。


「ええ、分かったわ。……ねえ、ニコ。もしもルークがいない時に何か怖いことがあったら、すぐに私のところに来るのよ。私が、絶対にあなたを守ってあげる」


「うん……えへへ。ありがと。クレア、大好き!」


 ニコは私に身を摺り寄せてから、嬉しそうに飛び跳ねた。大理石の床がひづめですごい音を立てるので、思わず二人でぎょっとし、それから笑った。ニコはそのまま廊下を跳ねて行き、「ここだよ!」と大きな扉の前で私を呼んだ。


 扉を開けると、ここもやはり辺境の屋敷と違って、美しい調度品の並ぶ豪華な部屋だった。木製棚には繊細な彫刻が施され、壁にかかった大きなタペストリーには、鮮やかな鳥や植物が刺繍で描かれている。どこか異国情緒漂う空間だ。ニコが鼻面でワードローブの扉をつついた。


「クレアの服はここだよ! 昨日ご主人様が転移魔法でクレアのところに行っちゃったから、テオが急いで用意させたんだ。女中のおばさん、今朝テオに怒ってた。『奥様がいらっしゃるのはもっと先だったのではないですか?! いきなり言われても十分な用意は出来ませんよ!』だってさ」


 大輪の花が彫刻された黒檀こくたんのワードローブの中には、急に用意したとは思えない上等なドレスが何着か、綺麗に吊るされていた。私はワードローブの扉を閉め、申し訳ない思いでため息をつく。


「そうよね……このお屋敷の皆さんには悪いことをしたわ……」


 するとニコは、心底不思議そうに私を見上げた。


「えっ、なんで? 女中のおばさん、ご主人様のことプリプリ怒ってたよ。『全く、ご主人様は何度言っても聞かないんですから! いい加減、思い付きで行動するのはやめるように、テオさんからもきつく言って下さいよっ。いつも強引過ぎるんですよ、あの方は!』って。クレアのことは、なんにも言ってなかったけど」


「そ、そう……それなら、良かった……のかしら?」


 私が、思いのほか上手なニコの物真似に噴き出しそうになっていると、コンコン、と軽いノックの音と共にルークが入って来た。彼は晴れやかな笑顔でこちらに歩いて来る。


「クレア、お待たせ! お風呂の準備が出来たから呼びに来たよ……って、ねえねえ、どう?! この部屋、気に入った? この部屋の家具は全部、南方から取り寄せた珍しいものなんだ。元は来客用の寝室だったんだけど、クレアの部屋に作り替えようと思ってさ! 結構いい部屋だろ? 急な話でまだ何もいじってないから、気に入らないところがあったら遠慮なく言ってね。出来るだけきみの希望に沿うようにするからさ! あ、ちなみに、そのベッドはもう古いから処分するつもり。新しいベッドは置かないでいいよね? 僕達新婚だし、僕の部屋で一緒に寝ればいいもんね!」


 ルークは笑顔で言い切った。私はちょっと躊躇ちゅうちょしたものの、ひとまず頷く。ルークはにこにこと私の手を取って窓辺へと案内してくれる。


「それと、この窓の向こうは、きみ専用の庭に作り替えるつもりだよ。今はまだ、ただの裏庭で荒れてるけどね。大丈夫、その先は崖になっていて、誰もこちらの中を覗き見ることはできないし、ほら見て! あの向こうに見える、尖塔せんとうのある建物あるだろ? 王宮のすぐ横の。あれが、僕のいる魔術院なんだ。ここからならよく見えるから、クレアも寂しくないかな、と思って。あの最上階が僕の部屋だから、僕もきみが近くに感じられて嬉しいしね。まあ、僕の視力じゃあ、とてもこの距離は見通せないけど……もしかしたら、昼間のきみなら、僕の姿が見えるかもしれないよ」


 ルークが開け放した大きな窓の向こうに、白い月光を受けて輝く巨大な王宮と、その横に佇む尖塔のある石造りの建物が見える。あれが、魔術院なのか。ルークは夜風に髪をなびかせ、私を見下ろした。


「……ね、綺麗だろ? 僕、ここから見る魔術院、結構好きなんだ。きみも、気に入ってくれるといいけど」


 ルークは月の光を受けて、誇らしげに微笑んだ。この人は、魔術のこと、そしてミラー師匠のことになると、急にいつもと別人になったかのように真摯しんしな顔をする。私は、そんな彼に思わず見惚れながら、そっと頷いた。


「……ええ、とても素敵ね。私は王都に来たことが無かったから、初めて見たわ」


 すると突然、ルークは目を見開いて喚いた。


「あーっ!! ねえ、クレア! もしかして今きみ、僕のこと好きって思った? ねえ、思ったでしょ!? 思ったよねぇ!? そういう顔してる!! ハハハ、やだなあ!! きみって、本当に僕のことが好きだからなー」


 上機嫌で笑っている彼に、私は思わず言い返していた。


「ち……違うわ! いいえ、違くはないけれど……と、とにかく、もういいでしょ! 私、お風呂に入って来る……と言っても、浴室の場所が分からないのだったわ……どこに行けばいいのかしら。ニコごめんなさい、案内を……」


 と踵を返した私の腕を、ルークがガッシリ掴んだ。怪しい笑みだ。


「やだなあ! 何言ってるんだよ、クレア。ニコじゃなくて、僕がいるじゃないか。大体、テオが言ってた風呂って、僕の部屋にある浴室のことだからね。今日は記念すべき王都での初めての夜なんだし、一緒に入ろうね」


「ええっ?! そうだったの? ……って、ううん、そ、それはいいとして。嫌よ!! 私、一人でいいわ! 案内だけしてもらえたら、私一人で……」


「えっ、なんで? ここの浴槽は辺境の屋敷のよりも大きいし、二人でも十分な広さだから遠慮はいらないよ」


「そういう問題じゃ……あっ、ちょっと、ルーク! もうっ、本当に、あなたは強引過ぎると思うわ!」


 ルークは私と腕を組んで歩きながら、上機嫌に屋敷のあちこちを案内してくれた。しんと静まった夜の邸内は、広い上に珍しい置物や短い階段があちこちにあって、まさに魔術師の不思議な邸宅、という感じがする。ルークにそう言うと、王都は物騒だから、万が一盗賊が入り込んでもすぐに屋敷奥に入り込めないよう複雑な構造にしてあるんだよ、という答えが返って来た。


 ニコも途中まで付いて来ていたが、眠くなった、と言ってウトウトしながら広間へ戻って行った。ニコは馬泥棒が余程怖かったようで、王都では庭でなく広間で寝ているらしい。


 私は結局、その晩はルークとずっと一緒に過ごした。慣れない環境だし、ルークが一晩中くっついて来るのでよく眠れない。やっぱり寝室は別にしてもらおうかな、などとぼんやり考えているうちに、あっという間に朝になった。


 朝食は部屋に運ばれてきた。この別邸でのルークの部屋は、寝室と私室2間の続き部屋になっている。立派な扉で寝室と隔てられた私室の丸テーブルの上には、私が起きた時には既に朝食が用意されていた。私達は向き合ってパンと卵と果物の朝食を済ませる。食後にお茶を飲んで一息つくと、ルークは言った。


「さて。そろそろ出かけるかな。今日はデズと一日顔付き合わせてなきゃいけなくてさ。全く面倒だよ……あっ、そうだ!」


 ルークはじっと私を見つめる。珍しく、言葉を慎重に選んでいる雰囲気だ。


「……ルーク? どうしたの?」


「うーん。もしかしたら、きみは嫌がるかな、と思うんだけど。ねえクレア。王宮の舞踏会に出る気はない?」


「えっ!? 舞踏会?」


「うん、そう。3日後に、王宮で舞踏会があるんだよ。きみも知ってるだろ? 『花冠の祭り』。この王都で開催される、ロマ王国三大祭典の一つだ。王宮では、その花冠の祭りに先駆けて、毎年大きな舞踏会を開いていてね。まあ言ってみれば、前夜祭みたいなものだね。僕も立場上参加しなきゃいけないんだけど、デズに、奥方も連れて来いよ、って言われてたの、すっかり忘れてた。舞踏会は夕刻に始まるから、大丈夫、人間の姿で参加できるさ」

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