第51話 忘れられた賢者
封印の部屋には窓が無く、暗かった。ルークがパチンと指を鳴らすと、ぽっと幾つか魔法のランプが灯る。この部屋には足を踏み入れただけで、私の首筋がチリチリする。室内に、強い魔力が満ちているのだ。
橙色の温かな灯に浮かび上がった室内でまず目を引くのは、床に描かれた大きな魔法陣だ。何の魔法が込められているのだろう。私がそれを踏まないようにと足を止めると、ルークが笑顔でこちらに手を差し伸べた。
「上を歩いても大丈夫だよ、クレア。それは転移魔法の魔法陣で、危ないものではないから。昨日、僕は王都からここに飛んできたんだ。残念ながらこの魔法陣は出口専用だから、ここから王都に戻ることは出来ないけどね」
「そ、そうなの? でも、もしも上を歩いて線が消えてしまったら……」
「ははは、それはないよ。これを描いた染料は
と言いながら、ルークは魔法陣をつま先でとんとんと叩いた。確かに、線は消えるどころか滲みもしない。
「転移魔法が作動すると、この魔法陣は青白い光を放つ。すごく強い光だ。今は光っていないだろ? ただの落書きと同じさ」
私はルークの手に引かれて魔法陣を横切った。部屋の奥には木製の棚があり、見たこともない魔法具がずらりと並んでいる。小さな黄金の釣り鐘のようなものや、数々の宝石で彩られた杯。それらが一体何なのか私には分からないし、何に使うのかもよく分からない。だがどれも、恐ろしく貴重そうな美しい品々だ。ルークが言った。
「僕はここに、この世に二つとない魔法具を保管している。そのほとんどが、僕の師である大魔導士ミラーから受け継いだものだ」
「大魔導士ミラー……聞いたことがあるわ。すごく高名な魔術師様よね?」
「うん。恐らく、この国で彼を知らない者はいないだろうね。この世で最高の大魔道士で、僕の生涯でたった一人の、敬愛する人物。僕は彼に出会って、魔術の才能を開花させることが出来たんだ。ミラー師匠がいなければ、今の僕はなかったと言っていい」
私は頷いた。この話をする時のルークは、とても真摯な感じがする。心からその人を敬っているのが伝わって来た。けれど、確か。私がじっと口を噤んでいると、ルークが私の頭を撫でて遠い目をした。ルークのこんな瞳は初めて見る。
「……そう。きみも知っての通り、ミラー師匠はもうこの世にいない。7年前に彼が亡くなった時には国葬が執り行われたから、ほとんどの人が記憶しているだろうね。けれど、なぜ彼がこの世を去らねばならなかったのか。それを知る者はいないはずだ」
私は頷いた。国葬の際には私の両親も王都に行っていたと思うが、モーガン家は魔術の家柄ではないから、大魔道士様との繋がりなどあるはずがない。そもそも、そんなに高名な魔道士様ならば、魔術を志している者達でさえ簡単にはお近づきになれないだろう。
ルークは私の頭から手を離し、木製棚の最上段から何かを手にして戻って来た。私は彼の手のひらに載せられた美しい箱を見つめる。黄金に大粒のルビーが装飾された輝く箱。
「……宝石箱かしら?」
「ふふ。そうだね。この中に入っている品物は、ミラー師匠が生涯で手に入れた魔法具の中でも最も貴重なもので……結果的に、師匠がこの世を去る要因となってしまったもの。そして恐らく、クレア、きみの生まれの秘密を解き明かすヒントにも成り得るもの。この中にはね、クレア。魔法の鍵が入っている。
「古の塔?」
「そう。もう世界の誰からも忘れられてしまった、地の果てにある塔。ミラー師匠は、その塔に赴いて命を落とした。師匠は会いに行ったんだよ、この世界に文明をもたらしたとされている、『カエルムの賢者』にね」
そしてルークは静かに耳を傾けている私を見下ろした。その灰色の瞳が、橙色の灯に燃えるように輝いている。
「カエルムの賢者。『
ルークは、その場に立ち尽くしている私の頬を撫でた、鈍色に輝く私の肌を。ルークは、私の肩で揺れる、鎖のような髪を優しく撫でる。
「僕が初めて君の変身を目の当たりにした、あの日の朝。僕はすぐにミラー師匠のこの言葉に思い当たった。それで僕は、もしやきみは、カエルムの賢者の血を引く者なのではないか、と仮説を立てたんだ。最初は我ながら信じがたい仮説だと思ったけどね。でも、きみのことを知れば知るほど、僕の仮説の信ぴょう性は高まって行った。僕の生み出した結界の影響を受けなかった人間は、きみが初めてだ。それにきみは、魔女の魔法も受け付けなかっただろう、名を取られていたにも関わらず、だ。魔力を持たない人間が、魔法使いに名を取られてなお魔法を跳ね返すと言うのは、もはや奇跡に近いんだよ、クレア。つまり、きみにとっては、『我らの魔法など、取るに足らぬ遊戯に過ぎない』。クレア、きみは恐らく、この世から遥か昔に忘れ去られた偉大なる存在、カエルムの賢者の血を引く者だ」
そしてルークは、言葉を失って突っ立っている私を、笑って抱き寄せた。
「そんな顔をしなくてもいいよ、クレア。だからと言って、僕達は何も変わらないだろ? それに、きみのご両親にも話を聞いてみないことには、何とも言えないね。まあ、これまできみが何も知らされていなかったと言うことは、彼らも何も知らない可能性が高いけど」
「……父は、私のこの体質のことは何も知らないと言っていたわ。亡くなった母にもこんな特徴はなかったし、母は私のことで随分胸を痛めていた、とも」
私の声は震えていた。カエルムの賢者。この国の幼い子供は、昔話で必ず読み聞かせられるお伽話だ。私も、何度もメアリに読んでもらったのを覚えている。けれど。その姿については、本によってまちまちで、ある本では妖精のように、ある本では野獣のように描かれており、今ルークが言ったような特徴など初耳だった。
ルークは黄金の箱を棚に戻すと、私の手を取って歩き出した。
「まあ、この話はいずれまた、ね。今すぐ何か出来るような話ではないから。ただ、きみには話しておいた方がいいと思ったんだ。僕はいずれ、きみの父上にも会いに行かなければならないと思っている……幼い頃のきみの話も聞きたいし、何よりも、こんなに可愛い妻に会わせてくれたお礼を言わないとね!」
笑顔のルークに、私は戸惑って問いかける。
「……ルークが、モーガンの家に?」
「うん。いずれ時間を作ってお邪魔するよ。……さあ、そんな顔をしていないで、笑って笑って! もうそろそろ出かけないと、夕暮れまでに王都に辿り着かない。早く帰らないと、テオの眉間の皺がどんどん深くなるだろうな!」
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