第52話 魔術師の別邸

 私達が王都に到着したのは、日没間もない頃だった。あんず色に燃える夕陽は地平線に沈み、濃い藍色の空に数多あまたの星が瞬き始める。日が暮れてもまだ大気は仄かに暖かで、春風が優しく私達の周りを吹き過ぎていった。


 テオ不在で馬車も王都に置きっぱなしのルークは、マントをすっぽり被った私を自分の前に乗せ、厩に残されていた栗毛の立派な馬で王都を目指した。私は結婚式の時にあつらえた、特注の皮の靴を履き(昼間の私の足は怪物じみていて、普通の靴は到底入らない)、マントの前ボタンを全てしっかりと留め合わせて、ルークの胸の中で身を縮こまらせていた。フードのリボンは、いつもよりきつく締めている。鎖のようなこの髪の毛一本も、人目にさらさないように。森の結界を抜けてすぐ、ルークが「そんなに身を固くしていたら、王都に着く頃にはヘトヘトだよ」と呆れていたが、私は首を振ってじっとしていた。街道にどれだけ人がいるのか分からないのに、無防備に旅することはとても出来なかった。


 ルークの言った通り、王都の巨大な門をくぐる頃には、私は疲労困憊だった。緊張と恐怖で、身体がガチガチになっている。私が落馬しないようにと、手綱をもつ両腕でずっと私を支えてくれていたルークが、からかうように言った。


「ほらね! 可哀想なクレア、すっかり疲れちゃっただろ? もう大丈夫、日は沈んだよ。フードを取っても……」


 と私の頭上から言うルークに、私は慌ててフードのリボンを握りしめた。


「嫌よ。私はこのままでいいわ。あなたのお屋敷はもうすぐなのでしょう? お屋敷に、誰もいない部屋はあるかしら? そこでなら、私、やっとゆっくり出来るから」


 私がフードの下からルークを見上げると、彼は「ええー?」と口を尖らせた。


「そりゃあ、いくらでも部屋は用意できるけど……うーん、それにしても、もったいないなあ。きみって、本当に可愛いのに! まあ、僕にとっては昼夜関係なくだけど、その辺の人から見ても、夜のきみは、ちょっと誰もが振り向くほどの美貌だと思うよ!」


 と上機嫌に言っていたルークが突然言葉を切り、ブツブツと呟き始めた。


「……いや、待てよ? ということはだ。下手にきみを衆目しゅうもくにさらすのも、危険な気がしてきた。……うん。考えたら、すごくムカついて来たぞ。僕の可愛いクレアが、訳の分からないその辺の男どもに見られるとか……ちょっと腹立たしすぎて、こっそり雷魔法を落としてやりたくなるな。いや。それよりも、きみの周りに常に時空魔法をかけて、空間を歪ませておいたほうがいいのか? いや、むしろ……」


 暗い声で怖いことを呟いている。私が恐る恐るルークを見上げると、彼は真顔でブツブツ呟いていた。ここは王都の目抜き通りで、多数の人馬が行き交い、馬のいななきや人々の雑踏で私達の話など誰にも聞こえていない。ルークを見上げていた私は、そこで初めて重大なことに気付き、小声で囁いた。


「大変!! ル……いえ、あなた、どうしてそんな恰好で……大丈夫なの?!」


 ルークは、あの魔術師の服を着ていなかった。仮面も被っていない。私は、自分の旅支度に夢中で、あまりルークの装いに注意していなかった。今の彼は、辺境の家で見るようなラフな格好に、茶色の地味なマントを羽織っただけのスタイルだ。頭には羽根帽子を被っているから顔はある程度覆われているが、そうは言っても、その姿は人目にさらされている。いかにも、よくいる旅人と言う風体。ルークは「ああ!」と笑顔を見せた。


「僕、王都での私的な外出の時には、いつもこの格好だよ。僕は、『魔術院のおさの家に居候している、うだつの上がらない弟子』だからね!」


 ルークは楽しそうにウインクした。馬は大きな街道を外れ、薄暗い小路に入る。高台に向けて上り坂になっているこの道沿いには、行けば行くほど大きなお屋敷が立ち並んでいた。人通りは一気に減る。私達は、白い月が上り始める夜空のもと、その道を上って行った。


 ふいに、左手の大きな屋敷の裏門が開き、下男らしき人物が煙草片手に出てくる。紺色の粗末なズボンに、裸の首からかけた薄汚れたタオル。裏口で煙草をふかしていた中年のその男は、こちらを見て気楽に声をかけて来た。


「おっ、誰かと思えば、ルカじゃねえか! 久しぶりに顔見たな。何してたんだよ、お前。どうせまた、そこら辺をほっつき歩いてたんだろ。あの得体の知れない魔術師様も、よくお前なんぞを弟子にとったもんだ」


「元気そうだな、ロブ! いいんだよ。こんな俺でも、少しは魔術師様のお役に立っているんだからな」


 がははと笑う男に、ルカ、と呼ばれたルークは気軽に応じる。なるほど、ルークは、王都では正体を偽って生活しているのか。下男ロブは言った。


「おかげ様でな。まあボチボチやってるよ。それより、お前は知らないだろうけど、昨夜は大変だったんだぜ! うちの屋敷に馬泥棒が入ってな。そりゃあ大騒ぎだったさ」


「へえ、馬泥棒ね」


 ルークの腕がピクリとする。馬泥棒? 私が身を固くして話を聞いていると、ロブは言った。


「夜も更けた頃に突然、『馬泥棒だ!!』って大声が聞こえてな。このベル男爵の屋敷を狙うとは、不届きな奴らだろ? 俺達がすぐに締め上げて民事院に突き出してやったよ! ざまみろってんだ。にしても不思議なのは、あの時、なんか見覚えのねえ綺麗な仔馬が一頭いた気がするんだよなあ。男爵んとこにゃ、仔馬はいねえし……あれは俺の見間違いだったんかな。犯人締め上げた時には、もうどこにもいなかったからな」


 ルークはふふ、と含み笑いをして言った。


「……さあね。俺が知るわけないだろ? でも良かったな。盗人がすぐ捕まって」


「あたりめえよ! この界隈の自警団なめんなってんだ!」


 ロブは自慢げに力こぶを作った。ルークは笑って頷き、「じゃあな」と歩を進める。通り過ぎざま、ロブが下世話な声で囁いた。


「で、ルカ。お前、それは一体どういうわけだ? 前に乗せてるの……女だろ? まさか、お前お気に入りの娼館の女連れて魔術師様の家に帰ろうってんじゃねえだろうな? ただじゃすまねえぞ、おい」


 お気に入りの……娼館の女? いきなり飛び出した予想外の言葉に私はぴくりと肩を揺らしたが、ルークは笑って否定した。だが私は、彼の口調がいつもより早口になっているのを見逃さなかった。


「娼館だって? つまらない冗談はやめてくれ。この娘は、魔術師様から頼まれて連れて来た有名な占い師だよ。その証拠にほら、分厚いマントを着ているだろ?」


 魔術に名高いラグナ王国の占い師の地位は高く、男も女も、街頭ではこういう分厚いマントを着ていることが多い。占いの力が強いと、雑踏で余計な思念を受け取ってしまうことが多いからだ。ロブは感心したように言った。


「占い師様かよ! 俺も占ってみてもらいてえが、そんな金はねえな。さすが、魔術院のおさだ。俺達みたいのにゃあ分からねえ、雲の上の世界に住んでやがる」


「まあそういうわけだ! じゃあな、ロブ! ははは!」


 ルークは挨拶もそこそこに、馬足を速める。まるで逃げ出したみたいなその様子に、私はフードの下から彼を見上げた。視線が合う。ルークの目が泳いでいる。彼のこんな様子は初めて見た。ルークは、慌てて私から視線を逸らして前方を指さし、不自然に明るい声で言った。


「あっ、ほら! ここだよ、クレア! いやあ、長旅だったね! あはは!」


 大きな屋敷の門をくぐる。正面に水を噴き上げる大きな噴水と立派な玄関が見えた。馬は噴水の脇を回って行く。私は、分かりやすく動揺しているルークに、ぽつりと一言呟いていた。


「……王都では、随分楽しい生活をしているようね」


 自分でも驚くほどの、淋しそうな声。ルークが「わーっ!」と叫んで、マントごと私をきつく抱きしめた。


「待って?! 違うんだ、本当に! 誤解だよ、クレア!! あの、さっきのは、その……あっ、テオ!」


 門をくぐった私達の元に、屋敷裏手からテオが駆け寄って来る。テオは素早く馬のくつわを取って囁いた。


「坊ちゃん。ここでは人目に付きます。馬はお預かりしますから、ひとまず邸内へ。今宵は御申しつけ通り、使用人は既に全員、使用人棟に下がらせております」


「う……うむ。分かった!」


 ルークは動揺を落ちつかせるように小声でそう言い、ひらりと馬を下りて、私を抱き下ろした。そして、正面玄関から屋敷へ入って行く。邸内はしん、として、人気がない。辺境の屋敷と違って、こちらの屋敷には赤い絨毯が敷き詰められて、あちこちに煌びやかな調度品が並んでいる。いくつもある大きな窓には分厚く光沢のあるカーテンがかけられ、とても豪華だ。ルークは私の手を引いて広間に入ると、笑顔で言った。


「あー、ごほん! ようこそ、僕の別邸に! 辺境の屋敷と違ってちょっとゴテゴテしてるけど、来客も多いからね、仕方ないんだ。きみの部屋はこの奥に用意しているけど、さっきテオが言った通り、使用人はもう裏の使用人棟に引っ込んでいるから遠慮はいらない。長旅で疲れただろう、クレア。まずはマントを脱いで、ゆっくり寛いでくれ」

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