第40話 怒り
ニコは訳も分からないまま、大きな馬ごと裏道に突き飛ばされていた。すぐ近くで人間達の怖い声がする。過去の恐ろしい記憶が蘇った。あの時も、夜だった。お母さんとはぐれて、ツノを折られた、あの夜! 子供のニコは頭が真っ白になって、大きな白い月に向かって悲鳴を上げた。その時だった。
ばふん、と大きな布を被せられて、ニコは恐怖に心臓が止まりそうになる。体が硬直して上手く息が出来ない。口から泡を吹いて震え始めた時。
『ニコ! 私だ、テオだ! 静かに、落ち着いて。私に任せておきなさい!』
聞き覚えのある声。少し煙草臭いこのコートの匂いは、間違いなく、テオだ! ニコは安堵のために全身の力が抜けて行くのを感じる。テオはニコにそう囁いた直後、声を張り上げた。
「馬泥棒だ!! ベル男爵の屋敷の馬が狙われているぞ!!」
いつもはもの静かなテオだが、彼は武の名門、デイヴィス家で長年仕えていた男なのだ。武芸大会の進行役で鍛えたその大声は、辺り一帯に響き渡り、即座にあちこちの屋敷の裏口から、
『ニコ! この隙に、この場を離れるぞ。あとは彼らに任せておけばいい。歩けるか?』
ニコは頷いた。テオは、いつも着ているコートでニコをくるんだまま、どこかへ引きずって行く。やがて人馬の喧騒が遠ざかり、テオの声と共にコートがバサッと外された。
「もう大丈夫だ。ニコ、怪我はないか? なぜお前がこんなところに……」
「うわああん! ボク、怖かったよう、怖かったよう!」
ニコは、テオの言葉を遮って号泣していた。鼻水を撒き散らすニコの背を、テオが「どうどう」と言って不器用に撫でてくれる。薄暗い
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫。ここはご主人様の屋敷だ。まずは水でも飲みなさい。ほら」
桶の水を、ニコは泣きじゃくりながら飲んだ。冷たい水を飲んだら、少し気分が落ち着いた。テオが、桶に顔を突っ込んでいるニコに言った。
「先刻は目を疑ったぞ。まさか、お前がここにいるとは……。お前だけで王都に来たのか? 奥様やフロガーは? 一体、何があった」
ニコは桶から鼻面を上げ、水を撒き散らしながら叫んだ。
「ねえ、ご主人様は?! 大変なんだよ、テオ! あのね、クレアとフロガーが、湖の向こうの魔女の森に行って、帰って来ないんだ!」
「……なんだって?」
テオは眉を潜めた。眉間の皺が深くなり、いつも怖い顔が更に怖くなる。ニコはテオに詰め寄った。
「クレアとフロガー、魔女に捕まっちゃったかもしれないんだ! 昨日の夜、フロガーが変になって、毒みたいな火を噴いて……灰色の森に逃げて行ったんだ。それでクレアが、フロガーを追いかけて行ったんだけど……とにかく、早く二人を助けに行かないと、ねえお願い、ご主人様に……」
テオは心得顔で頷き、興奮して喚くニコを手で制す。そして淡々と言った。
「分かった。大至急ご主人様を連れて戻るから、お前はここで待っていてくれ。それまでに、頭の中を整理しておくんだ。お前が見たこと、屋敷で起こったことを、順序だてて正確にご主人様にお伝えしろ。いいな」
「分かった! ボク、全部覚えてるから、説明できる!」
テオは頷くと、即座に厩を出て行った。ニコは、のんびりと草を食んでいる馬たちの間に、どう、と横たわる。干し草が気持ち良かった。辺境から半日走り続けて、挙句の果てに怖い目に遭った。けれど。
「良かった……やっとご主人様に会える。早く、ご主人様、早く!」
それから一刻も経たずに、ニコは屋敷二階にある豪華な書斎に通されていた。辺境の屋敷とは随分違う、煌びやかな内装だ。慣れない雰囲気にニコがドキドキしていると、やがて廊下に足音が聞こえて来た。軽いノックと共にテオが扉を開け、魔術師姿のルークが、重々しい足取りで入って来る。
「ご主人様!!」
待ちに待った再会に、ニコは安堵のあまり泣きそうになった。テオが内側から扉を閉める。ルークが仮面を外した。その、見たこともない程険しい顔つきに、ニコは思わず体を固くする。ルークが言った。
「ニコ。何があったか説明してくれるか。……可能な限り手早く、正確に」
ニコは頷いて、昨晩からの出来事を事細かに説明した。
「ご主人様。どうなさいますか」
ルークは腕組みをしたまま返事をしない。だがニコは、主から発せられる怒気に、身じろぎも出来なかった。再びの沈黙。張り詰めた空気にニコが息苦しくなってきた時、ルークが渇いた声でぽつりと言った。
「……どうするって? 決まっているよな?」
主はテオに向かって笑った。ひどく美しく、残酷な笑みだった。ニコは恐怖のあまり何も言えなかったが、テオは平然と「承知しました」と頭を下げた。
「
ルークはテオに無言で頷き、ニコの方へ歩いて来た。ニコは思わず、びくりと体を揺らす。顔つきは無表情だが、殺気を発しているのが本能的に分かった。これほど恐ろしい主を見るのは初めてで、どうしたらいいのか分からない。ニコの真正面で足を止めたルークは、怯えているニコに気付き、「ああ、すまない」と笑った。ふいに殺気が薄れる。ルークは、さっきニコが目にしたのとは全く違う、いつもの明るい笑顔で言った。
「ニコ。こうして伝えに来てくれたこと、心から感謝する。テオに聞いたよ。馬泥棒にあったんだって? 怖かっただろう。お前、うちに来てから一度もあの結界を出たことは無かったのに、一人でこの王都まで来たなんて、すごいじゃないか。お前が来てくれなかったら、今回のことを何も知らずに大変なことになるところだったよ」
そして、「頑張ったな、偉いぞ!」と言って、ニコの薄汚れたたてがみを、長い首を、わしゃわしゃと撫でてくれた。その優しい声と、その大きな手の温かさに、ニコの緊張がどっと解けてへたり込みそうになる。ルークが笑った。
「大丈夫か、ニコ? テオ、ニコに美味しい御飯と寝床を用意してやれ。あの屋敷からここまで走り通して来たんだ、さぞかし疲労困憊だろう。普通の仔馬には、到底出来ることじゃないぞ。お前は本当に、優秀な弟子だ!」
そう言って、泣きべそをかいているニコの頭を何度も撫でてくれる。ニコはぶひんと鼻声でいなないて言った。
「……当たり前でしょ! 僕は、ご主人様の一番弟子なんだから!」
ルークは「そうだな」と笑って、がしがしと頭を撫でている。ひとしきりニコを撫で回すと、ルークは真面目な顔になり、体を起こした。
「さて。じゃあ行くとするかな。テオ、あとのことは任せた」
「畏まりました」
「すぐ戻る、と言いたいところだが……今回は、そうはいかないかもしれないな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます