第36話 半身
私はカイリーと無言で向き合う。彼女の空色に澄んだ瞳が、私を睨んでいた。その瞳に、使役されていることを示す赤い輝きはない。私は頭のどこかで、「ああ、良かった。カイリーは、魔女の手先じゃないんだ」とほっとする。そんなことを考えている場合じゃないのに。なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からない。私の本能は、最初からずっと、カイリーを疑っていたのかもしれない。
マントを着ている理由を白状するわけにはいかないが、このままではカイリーは私を怪しんで、一人で兄を探しに行くかもしれない。それは危険だ。彼女のような非力な少女など、魔女の格好の餌食になってしまいそうだし、第一、一人でこの森を
「……カイリー。あなたが私を怪しむのは当然よ。でも私は、あなたの敵じゃない。それどころか、あなたを助けたいと思っているの。あなたを見ていると、私の可愛い妹たちを思い出すから」
カイリーは相変らず私を睨みつけているが、話はひとまず聞く気らしい。私が話を続けるのを待っている。私は前方を指さして言った。
「私の家族はね、すぐこの先にいるのよ。彼を助けたら、あなたのお兄さんを探すのも手伝えるわ」
「家族がこの近くにですって?! 嘘よ! この辺りに、私達以外に人間なんているはずないわ!」
私の鋭敏な感覚は、さっきから、フロガーの気配を捉えている。意識を集中するまでもない。本当に、もう、ほんのすぐそこだ。ここで押し問答している暇など無い。
「……ごめんなさい、カイリー。話している時間は無いの。私の家族は、魔女の魔法のせいで、とても具合が悪いのよ。早く薬を飲ませてあげないと、手遅れになってしまうかもしれない。どうする? 私はもう行くけれど、一緒に来るも来ないも、あなたの自由よ。私と一緒に来るならお兄さんを探すのを手伝うし、来ないのなら、私は家族を見つけ次第、この森を出て行くわ」
この身は一つ。カイリーを助けてやりたいが、今この時、私にとって優先すべきは、フロガーなのだ。選択しなければならない時に、大切なものを間違えてはいけない。私が素っ気なくそう言って歩き出すと、カイリーは暫くその場に立ち尽くしていたが、やがて「待ってよ」と小さく言って、私の背を追って走って来た。
「フロガー!! 待って、行かないで!」
ぼってりした黒い体は、信じられないほど巨大化していた。というよりも、フロガーの本体は、もしかしたら、この怪物めいた黒い大きな塊の中にあるのかもしれなかった。もう、彼の姿かたちすら判別できない。
ボコボコと内部から沸き立つような音と、落ちた枯れ枝を砕く音と共に、その黒い魔物は移動していた。私の首筋が、強い魔力に反応してチリチリしている。これは本当に、『使役の魔術』の力なのだろうか?
「なっ……あれは、一体なに?!」
私の後ろから付いて来ていたカイリーが叫んだ。ふいに、黒い魔物が動きを止めた。ボコボコ、グルグル、という奇妙な音を立てて、タールのように真っ黒な塊の中心が激しく波打ち始める。私達は、固唾を呑んでその様子を見守っていた。やがて、大きな渦が巻き始め、その中心から、ぼこっ、とフロガーの苦悶に歪んだ顔が浮き出て来た。
「だ……れか……」
「フロガー!! しっかりして、私よ、クレアよ! 薬を持って来たの、これを……」
私は叫んだ。フロガーの想像以上の変わりように焦る。こんな薬が、本当に役に立つの? お願い、どうか……手遅れでありませんように! 私が、胸元に忍ばせて来た薬瓶を必死に取り出した時。
突然、辺りの梢が激しくざわめき始めた。と同時に、あちらこちらの灰色の枝に、毒々しい色をした火トカゲが何匹も姿を現わす。彼らは、ザザザと音を立ててフロガーの周りを取り囲んだ。私は叫んだ。
「あれは、まさか魔女の手先……?! フロガー、早く逃げ……!!」
その言葉も終わらぬうちに、火トカゲ達がフロガー目掛けて一斉に火を噴いた! だが私の瞳は捉えていた、火が放たれるのと同時に、フロガーの顔が、まるで沼に引きずり込まれるように黒い塊の体内へと消えるのを。そして放たれた火もまた、その闇の中へと吸い込まれていくのを。空気が圧縮されていく感じがした。一瞬ののち。
私は本能で感じた危機に、咄嗟にカイリーの細い腰を抱いて樹上へと飛び上がっていた。フロガーを内包した黒い魔物が、吸い込んだ火トカゲの火を闇の
闇色の冷たい炎が辺り一帯を包み、そこに居並んでいた火トカゲ達の断末魔が森中にこだまする。火トカゲは消滅した、一瞬で。ちょうどあの時、ルークが光魔法で火トカゲを退治したのと同じように。私は、やっと理解する。
「そうか……! これはきっと、闇の魔術の力! フロガーは、闇の魔術で……」
でも。『闇の魔術』を扱えるのは、世界にたった二人なのではなかった? 一人は知らないけれど、その内の一人は……。と考えていた時。どん、と背中に強い衝撃を感じた。
「?!」
油断した。こんな状況なのに、周囲に注意を払わず思考に集中してしまった。だが、もう遅い。私は、樹上から落下して行く中、態勢を整えようと身をよじった。視線の先に、高い枝の上に立って、こちらを冷たく見下ろしているカイリーの姿が見える。向けられた手のひらが紫色に光った、と思った瞬間、私はマントごと
「カイリー……?」
私はその姿を凝視する。彼女の美しい姿が、半分失われていた。まさか! そんなことがあるだろうか? 人間の半身だけが、別の人間に見えるなんて。カイリーの、半分はさくらんぼのように瑞々しく、半分は干し柿のようにカサカサした唇が、ニッと歪められた。
「なるほどね。アンタは、ガマガエルの身内か。つまり、『宮廷魔術師』のお仲間の使い魔、ってところかねえ。どうりで、ただの人間にしては様子がおかしいと思ったよ!」
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