第34話 火トカゲの巣窟

 私は灰色の森を前にして、ほう、と大きなため息をついていた。ルークの屋敷周辺で青々としていた木々の色は、北へ進むにつれて次第に灰色へと取って代わり、今や辺りはすっかり灰色一色だ。


「ここが魔女の支配する『灰色の森』……なんだか少し暑いわ」


 森の背後に、国内最北端にあるベスビア火山の威容が見える。頻繁に噴火を起こす活火山ではないと図鑑で読んだことがあるが、やはりここまで来るとその姿は雄大だった。


「足の裏が温かい……地熱が高いのね。あまり長居すると体力を消耗しそう。早くフロガーを見つけないと」


 昼間の私は素足だ。私の硬い皮膚はどんな靴底よりも余程強度が高いし、なにより、この怪物じみた足に合う靴など、どの店にも置いてあるはずがなかった。


 私は注意深く辺りを観察し、位置関係を把握する。私の立っている場所は、ちょうど湖と森の境目。対岸に、私達の住む緑豊かな森が見える。


「フロガーは、私達の屋敷からまっすぐ北に湖を渡って行ったわ。となると、ちょうどこの辺りに泳ぎ着いたはず。あれからまだそんなに時間は経っていないし、フロガーの体は大きくなって重そうだったもの、早く動けるはずがない。私の嗅覚があれば、フロガーの行く先を追えるかも。いつものあれを、やってみよう。大丈夫、森は平和で小鳥のさえずりも聞こえるもの。すぐ近くに敵はいないわ」


 昼間の私は、五感のどれか一つに意識を集中することで、その感覚だけを異常に研ぎ澄ませることが出来る。とても人間には出来ないほどに。難点は、そうしている間、自分が全くの無防備になることだ。だから、こんな場所でその能力を使うのは少し危険なのだが、今はそんなことは言っていられない。


 私は湖を背に立ち、背筋を伸ばして深呼吸すると、目を閉じて嗅覚に意識を全集中した。私の周囲から、全ての音が、光が消える。他の全てを排除して、たった一つの、知っている匂いを探し当ててみせる……!


 やがて、私はゆっくりと目を開けた。


「……見つけた。フロガーは、森を真っすぐ、東へ向かっている。あの方角は、前にルークに聞いた、魔女の屋敷がある方よ」


 私は全身にどっと疲れを感じ、呼吸を整える。さすがにこれだけ意識を集中すると、数分間は私の感覚が正常に働かなくなってしまう。私は、五感の全てが元に戻ったのを確かめてから、明るい声を上げた。


「フロガーは、まだ遠くへは行っていない! あれだけのことをしたのだもの、きっと疲れて動けないのだわ。今なら間に合う、良かった!」


 見えて来た希望に励まされるように、早速手近な木の幹に飛び移ろうとした私は、幹を掴み損ねてバランスを崩した。空振りした体を瞬時に立て直して地表に下り立ったものの、驚きは隠しきれない。今、私の感覚は全て元通りだ。木の幹のような静止物との間隔を見誤るなど、あり得ない。


「なに……?」


 私は呟き、鋭い視線を辺りに向ける。灰色の木々は、その場で沈黙している。だが、私の鋭敏な感覚は、騙されたりしない。私は警戒心をみなぎらせたまま、じりじりと後ずさりした。


「!!」


 木の葉が揺れた、と思った瞬間、私はその場を飛び退いていた。グサリと生々しい音が辺りに響き、私の立っていた場所に、何かが突き刺さっていた。木の枝だ! 尖った太い木の枝が、地面に突き立っている。もしも私があの場にいたなら、頭から串刺しになっていたに違いない。


「森が、動いている?!」


 気付けば、辺り一帯の灰色の木々がザザザと不吉な音を立てて、一斉に私に向かって来ていた。私は躊躇ちゅうちょすることなく、その場を飛びあがる。無数の灰色の枝が、四方八方から私目掛けて繰り出されてきた。速い!


「くっ……!」


 無数の木々から見て、私はたった一人。数で言えば完全に負けている。けれど、私の視力と脚力があれば! 私は目の前に繰り出される一撃一撃に集中し、あちこちから突き出される枝を避け、引っ掻き、へし折り、その場を切り抜けていく。でも、きりがない。だって、ここは森の中なのだ。避けても、へし折っても、木の数は永遠に減ることはないような気がした。


「駄目だわ! このままでは、森の奥へと追いやられてしまう! フロガーを早く追いかけなければいけないのに!」


 灰色の木々は、四方八方から折り重なるように蠢き、まるでどこかへ誘導でもするかのように私を追い込んでくる。このままでは敵の思うつぼだ。森の奥へ行けば行くほど、私の逃げ場はどこにも無くなる……だがその時。


「?! 何かしら、木が、後ろへ後退して行くわ!」


 私を追い込むように動いていた灰色の木々が、サーッと波が引けるように後退して行った。私は虚を突かれて、その場で立ち止まり、辺りを見渡す。


「攻撃が止まった……一体なぜ……」


 だがホッとしたのも束の間、私はぎくりと体を強張らせる。しん、と沈黙した木々のあちこちにチロチロと覗く、鮮やかな表皮……あれは!


「火トカゲ……!」


 そう、私は、森の木々に追い立てられるようにして、火トカゲの巣窟に足を踏み入れてしまったのだ。森の木々は、こうして侵入者をここへ導き、火トカゲに焼き殺させているのかもしれない……。あの時、手のひらに載るほどの火トカゲを見せてくれた、ルークの言葉が蘇る。


『火トカゲは、このくらいの大きさでも、かまどの火より余程大きな火を噴くから……』


 私の背筋が冷たくなる。そんな危険生物が一斉に炎を吐いてきたら、この体がいくら強靭でも、耐えられるはずがない。


「どうしよう、一体どうすれば……!」


 今来た道を戻るわけにはいかない。灰色の木が、森に入って来た異物である私を狙っている。この巣を回り込んで、この先に……魔女の館目指して進むべきだろうか? 木から必死に逃れてくるうちに、幸いにも、フロガーにはかなり近づけているはずなのだ。今この場で匂いを辿ることは怖くて出来ないけれど、さっき感じた彼の居場所は、恐らく、この方角の先だ。このまま魔女の元に彼を返してしまったら、どうなるか分かったものじゃない。


「どうにかして、火トカゲに攻撃されないように進んで行けば……」


 暑い。背中を汗が一筋伝った。私は、じり、と慎重に一歩を踏み出す。無数の恐ろしい生物の目が、私を見つめているような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る