第33話 魔女ヴァネッサ

 灰色の森。正式には『ベスビアの森』と言うその土地は、王国の北端、ベスビア火山の麓に広がる不毛地帯である。ベスビア火山は、今でこそ沈黙しているものの、かつては時折大噴火を起こす荒ぶる山であった。当時降り注いだ火山灰に覆われているこの森は、いつしか世間から『灰色の森』と呼ばれるようになった。


 そのベスビアの森の奥深く、灰色の木々に隠されるように大きな館が建っている。『火トカゲの魔女』の住む館だ。


 魔女は館の最上階、『いばらの間』の中央にある大きな水盤すいばんを覗き込んでいたが、やがてしわがれた声で呟いた。


「チッ……失敗か。あれだけの魔力を注ぎ込んで巨大化してやったのに、能無しめが! あのガマガエル、戻ったらひねりつぶしてくれる!」


 魔女は不機嫌に言い捨てると、水盤を後にした。彼女が水盤の前を去ると同時に、そこに映し出されていた映像は消え去り、鏡のような水面が戻る。それと共に、噴水に似た麗しい形をした水盤の足を、蠢く無数の茨がまるで蛇のように取り囲んでいった。


 火トカゲの魔女の持つ、魔法の水盤。彼女は、使役しえきしているしもべから得る情報を、この水盤を通して目にすることが出来る。だが、今度ばかりは様子が違った。いくら魔力を注ぎ込んでも、水盤は濁り、何のも映し出さない。彼女の魔力を大きく上回る強力な術が、それを阻んでいるのだ。最後にどうにか画を捉えた、と歓喜したが、そこに映し出されたのは、己が放ったしもべたる蛙が、無様に湖を泳ぎ渡ってくる姿だけ。結局、対岸の様子は全く分からず仕舞いである。魔女のイライラは収まらない。彼女は水煙草の青紫の煙をしきりに吐き出しながら、不機嫌な独り言を続ける。


「全く、胸糞悪い! あの宮廷魔術師め……このままじゃあ、あたしの評価はガタ落ちだよ! このままで済ませてたまるか、どんな手を使ってでも、あいつのクソ忌々しい結界をどうにかしないと……」


 魔女は、希少な獣の皮をなめしてあつらえられたソファにイライラと寝そべっていたが、ふいに大きなバルコニーに人の立つ気配を感じ、ハッと立ち上がった。水煙草の煙越しに、その人物が姿を現わす。濃緑色のマントを頭から被ったその人物は、魔女の心震わせる、深みのあるバリトンの声で言った。


「ヴァネッサ。首尾はどうだ」


 ヴァネッサ、と呼ばれた魔女は、見た目に似合わぬ媚びた声で叫んだ。


夜半よわきみ! はい、万事抜かりはございませぬ。どうぞ、このヴァネッサめにお任せを。貴方様の御力添えさえあれば、あのような卑賎ひせんな宮廷魔術師ごときなど……」


 と早口でまくしたてた言葉は、男の笑い声にかき消された。


「老いたる魔女よ、大言壮語たいげんそうごも大概にしないと身を滅ぼすぞ。貴様、我が助力得てなお、あの男の結界を破ることすら出来んとは……全く失望させられる」


 ヴァネッサ、と呼ばれた魔女は、すぐさま男の足元にひれ伏し、その足先に口づけを繰り返した。


「おお、麗しき夜の貴公子様! どうか、この哀れな老婆をお見捨てになりませぬよう! わたくしの身も心も、全て貴方様のもの。どうかこの忠実なるしもべに、今再び、貴方様のたぐいまれなるの御力添えを!」


 ヴァネッサは、森の灰色の木々と同じほど干からびた自身の両腕で、マントの男にすがりついた。男は何も言わず、身を翻す。緑のマントの背に、金糸で豪華な紋章が刺繍されていた。その紋章に描かれた、盾と四種類の何かの絵柄、それを支えるように向き合った不思議な魔法生物……もしもこの紋章をクレアが目にしたならば、すぐさま夫の名を叫んだに違いない。だが魔女は、そんなことは知る由もなく、立ち去りかけた男の前に走って回り込むと、再びその足元にひれ伏した。


「お待ち下さい、夜半よわきみ! どうかどうか、わたくしめに、今一度チャンスを! 次こそは必ず、貴方様にあだなすあの思い上がった魔術師めを罠にかけてみせましょう! どうか、どうか……」


 耳障りな声で喚く老婆を手で制し、暫くその場で思案した後、男は深みのある声で言った。


「良かろう。魔女ヴァネッサ、貴様にもう一度機会をくれてやる」


 彼の手のひらが魔女の頭の上に置かれた。すると、彼女の枯れかけた魔力の源泉に再び強い魔力が流れ込み、魔女の瞳が紫色を帯びる。魔女は皺だらけの顔を上げ、うっとりと男を見上げた。


「夜半の君様、貴方様の御慈悲、このヴァネッサ確かに受け取りました。今度こそあの宮廷魔術師の結界を破り、あの忌々しい男が持ち去ったと言う、貴方様の大切な品を取り戻してご覧に入れまする」


 マントの男がバルコニーに出る。その姿が、たちどころに夜の闇に溶けて消え去った。魔女は暫く、男の声の余韻に浸ってその場に佇んでいたが、やがて顔を上げると、キヒヒ、と意地悪く笑ってしもべを呼ばわった。部屋の壁を覆ういばらのあちこちから、火トカゲがちょろちょろと這い出てくる。


「おい! 聞こえていただろう、お前達。これが最後のチャンスだ、もう次は無いよ! 夜半の君に愛想をつかされたら、あたしたちはお終いだ。いいか、どんな手を使ってでも、あの魔術師の結界を破るんだ! あのガマガエルを見つけたら、直ちにあたしのところに連れておいで! あいつをかまどの大釜で茹で上げて、宮廷魔術師の弱点を、洗いざらい吐かせてやる!」


 毒々しい色合いの火トカゲ達は、大きな炎を吐くと、一斉に館の外壁を伝って森へと消えて行った。それを見届け、魔女は呼び鈴を鳴らした。森で捕まえた若い人間の男が数人、茨の間に入って来る。どの男の目も怪しい赤色に燃え、魔法虫マジック・ワームで使役されているのは明白だ。魔女ヴァネッサは、全裸で突っ立っている美しい男らに猫なで声で言った。


「可愛いあたしのお人形ちゃんたち! 喜びな、お前達の大切な女主人、つまりこのあたしにも、どうやらツキが回って来たらしい。あの夜半の君の後ろ盾さえあれば、魔術界での地位は安泰だ! くだんの宮廷魔術師には何の恨みもないが、夜半の君の敵は、あたしの敵。まずはそいつを生贄に、なんとしてもあたしを取り立ててもらうよ!」


 夜半よわの君。その本当の名も素顔も、魔女ヴァネッサは知らない。なぜ彼が、湖の対岸に居住しているらしき宮廷魔術師を狙っているのか、そいつが持っているという大切な品が何なのかさえ、ヴァネッサは知らなかった。そもそもこの魔女は、対岸に人が住んでいたことすら知らなかったし、その人物が宮廷魔術師であると聞かされても、ピンとこなかった。なぜなら魔女は、長い間、人間界からつまはじき者にされていたせいで、王都、それも権力の中枢である宮廷などに顔を出すことはなかったのだから。


「だけど、そんなことはどうでもいいさ。あたしはとにかく、あの夜半の君の寵愛さえ得られたらそれでいいんだ。魔術界で、あの人を知らぬ者はいない。あの人に取り入って、その威光を借りられたら……キヒヒ! どいつもこいつも、あたしの言いなりさね」


 ヴァネッサはソファに寝そべって全裸の愛人らに全身をマッサージされていたが、ふいに弾かれたように立ち上がり、バルコニーに出た。


「なにかね……何かが、あたしの結界に入り込んだな」


 魔女は足をもつれさせつつ、部屋の中央に佇む魔法の水盤に突進した。石段を二、三段駆け上るうちに、水盤を取り囲んでいたいばらが脇に下がり、女主人に道を開ける。ヴァネッサは水盤の上で両手を回した。すると、水面がにわかにさざめき、侵入者の映像が映し出された……。

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