第33話 魔女ヴァネッサ
灰色の森。正式には『ベスビアの森』と言うその土地は、王国の北端、ベスビア火山の麓に広がる不毛地帯である。ベスビア火山は、今でこそ沈黙しているものの、かつては時折大噴火を起こす荒ぶる山であった。当時降り注いだ火山灰に覆われているこの森は、いつしか世間から『灰色の森』と呼ばれるようになった。
そのベスビアの森の奥深く、灰色の木々に隠されるように大きな館が建っている。『火トカゲの魔女』の住む館だ。
魔女は館の最上階、『
「チッ……失敗か。あれだけの魔力を注ぎ込んで巨大化してやったのに、能無しめが! あのガマガエル、戻ったら
魔女は不機嫌に言い捨てると、水盤を後にした。彼女が水盤の前を去ると同時に、そこに映し出されていた映像は消え去り、鏡のような水面が戻る。それと共に、噴水に似た麗しい形をした水盤の足を、蠢く無数の茨がまるで蛇のように取り囲んでいった。
火トカゲの魔女の持つ、魔法の水盤。彼女は、
「全く、胸糞悪い! あの宮廷魔術師め……このままじゃあ、あたしの評価はガタ落ちだよ! このままで済ませてたまるか、どんな手を使ってでも、あいつのクソ忌々しい結界をどうにかしないと……」
魔女は、希少な獣の皮をなめして
「ヴァネッサ。首尾はどうだ」
ヴァネッサ、と呼ばれた魔女は、見た目に似合わぬ媚びた声で叫んだ。
「
と早口でまくしたてた言葉は、男の笑い声にかき消された。
「老いたる魔女よ、
ヴァネッサ、と呼ばれた魔女は、すぐさま男の足元にひれ伏し、その足先に口づけを繰り返した。
「おお、麗しき夜の貴公子様! どうか、この哀れな老婆をお見捨てになりませぬよう! わたくしの身も心も、全て貴方様のもの。どうかこの忠実なるしもべに、今再び、貴方様の
ヴァネッサは、森の灰色の木々と同じほど干からびた自身の両腕で、マントの男にすがりついた。男は何も言わず、身を翻す。緑のマントの背に、金糸で豪華な紋章が刺繍されていた。その紋章に描かれた、盾と四種類の何かの絵柄、それを支えるように向き合った不思議な魔法生物……もしもこの紋章をクレアが目にしたならば、すぐさま夫の名を叫んだに違いない。だが魔女は、そんなことは知る由もなく、立ち去りかけた男の前に走って回り込むと、再びその足元にひれ伏した。
「お待ち下さい、
耳障りな声で喚く老婆を手で制し、暫くその場で思案した後、男は深みのある声で言った。
「良かろう。魔女ヴァネッサ、貴様にもう一度機会をくれてやる」
彼の手のひらが魔女の頭の上に置かれた。すると、彼女の枯れかけた魔力の源泉に再び強い魔力が流れ込み、魔女の瞳が紫色を帯びる。魔女は皺だらけの顔を上げ、うっとりと男を見上げた。
「夜半の君様、貴方様の御慈悲、このヴァネッサ確かに受け取りました。今度こそあの宮廷魔術師の結界を破り、あの忌々しい男が持ち去ったと言う、貴方様の大切な品を取り戻してご覧に入れまする」
マントの男がバルコニーに出る。その姿が、たちどころに夜の闇に溶けて消え去った。魔女は暫く、男の声の余韻に浸ってその場に佇んでいたが、やがて顔を上げると、キヒヒ、と意地悪く笑って
「おい! 聞こえていただろう、お前達。これが最後のチャンスだ、もう次は無いよ! 夜半の君に愛想をつかされたら、あたしたちはお終いだ。いいか、どんな手を使ってでも、あの魔術師の結界を破るんだ! あのガマガエルを見つけたら、直ちにあたしのところに連れておいで! あいつをかまどの大釜で茹で上げて、宮廷魔術師の弱点を、洗いざらい吐かせてやる!」
毒々しい色合いの火トカゲ達は、大きな炎を吐くと、一斉に館の外壁を伝って森へと消えて行った。それを見届け、魔女は呼び鈴を鳴らした。森で捕まえた若い人間の男が数人、茨の間に入って来る。どの男の目も怪しい赤色に燃え、
「可愛いあたしのお人形ちゃんたち! 喜びな、お前達の大切な女主人、つまりこのあたしにも、どうやらツキが回って来たらしい。あの夜半の君の後ろ盾さえあれば、魔術界での地位は安泰だ!
「だけど、そんなことはどうでもいいさ。あたしはとにかく、あの夜半の君の寵愛さえ得られたらそれでいいんだ。魔術界で、あの人を知らぬ者はいない。あの人に取り入って、その威光を借りられたら……キヒヒ! どいつもこいつも、あたしの言いなりさね」
ヴァネッサはソファに寝そべって全裸の愛人らに全身をマッサージされていたが、ふいに弾かれたように立ち上がり、バルコニーに出た。
「なにかね……何かが、あたしの結界に入り込んだな」
魔女は足をもつれさせつつ、部屋の中央に佇む魔法の水盤に突進した。石段を二、三段駆け上るうちに、水盤を取り囲んでいた
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