第32話 使役の魔術
私はバルコニーから部屋に戻り、千切れた金の鎖を拾い上げた。扉の魔法陣は既に消え去り、何事もなかったかのように沈黙している。この扉の向こうに何があるのか分からない。けれど、ルークは隠し、魔女が狙っているのならば、きっと何か重要なものがあるに違いない。ニコが恐る恐る、部屋に入って来た。
「クレア……フロガーはどうしちゃったの? どこに行ったの?」
「……対岸へ渡って行ったわ。灰色の森よ」
「灰色の森!? ご主人様が、危ないから行くな、っていつも言ってるのに!」
「……ルークは、火トカゲの魔女は『
もう少し、フロガーの様子に気を付けてあげていれば。私は後悔に唇を噛んだ。あの瞳の、赤い輝き。あれは、ルークの言っていた、『使役の魔術』の力に違いない。ニコが首を振って悲しそうに言った。
「ボク、気付かなかった……。だって、ご主人様は、あの魔女には大した力が無い、って言ってたし、ボク達に魔法をかけられるなんて、思ってもいなかったから」
「私もそう聞いたわ。でも、フロガーのあの力……『大した力が無い』魔女が、あんなこと出来るものかしら」
「分かんない。もしかして、ご主人様、魔女の力を間違えたのかなあ」
私は思案する。あのルークが、こともあろうに魔術に関することで、その力を見誤ることなどあるだろうか?
ニコが鼻をぴす、と悲しそうに鳴らし、私の手にした金の鎖に視線を落とした。
「……フロガー、もうボク達の所に戻ってこないつもりなの? これが無いと、ここに帰って来れないのに、捨ててっちゃうなんて」
「違うわ。フロガーは、これを魔女に渡さない為に置いて行ったのよ、きっと。これを渡したら、誰でもこの結界に入って来られてしまう。あの時、フロガーの瞳が一瞬、元に戻ったの。彼は多分、最後の力を振り絞ってこれを置いて行ったのだわ」
私達はバルコニーに出た。夜の底が白んできている。夜明けの一筋の光が私に差し、私の体は変貌した。私は少し考えてから、ニコを見下ろして言った。
「ニコ。私、灰色の森に行ってみる。あなたは、ここで待っていて」
「えっ?! そんなの、絶対にだめだよ! クレア一人でなんて、危ないよ!」
「大丈夫、ちょっと様子を見て来るだけだから。もしも私の手に負えないようだったら、すぐに引き返してくる」
「でも……」
「使役の魔術がどういうものか分からないけれど、フロガーのあの体……もし体内に何か異変が起こっているのだとしたら、急がないと、手遅れになってしまうかもしれない。ルークが帰って来るのは一月後だもの、それまで待ってはいられないわ。あなただって、フロガーを見殺しにしたくはないでしょう?」
ニコは暫く落ち着かない様子でウロウロしていたが、やがて渋々頷いた。
「分かった。でも本当に、無理はしちゃだめだよ、クレア。ちょっと見に行くだけで、すぐに帰って来てね、絶対の絶対だよ!」
「ええ、分かっているわ。ありがとう、ニコ」
私は寝室に戻って服を着替え、居間に下りる。ニコが待ち構えていたように、大きな本を
「ねえ、クレア! いいものがあったよ。ご主人様が前にボクにくれた、初級魔術の本! ご主人様に、『お前達も魔術師の助手なら、ちょっとは勉強しとけ』って言われたんだけど、ほらここ! 使役の魔術のことが書いてあるよ!」
私は、ニコの開いてくれたページに目を走らせる。ニコの歯形がくっきり残ったそのページには、大きな字で『使役の魔術・初級編』と書かれていた。『初級編』が、果たして実戦で役立つのか
「ありがとう、読むわね。……『使役の魔術を行使するには、まず、対象者が自分より魔力が劣っていることが前提です』か。私達は魔力がないんだから、操られても当然よね……って、いえ、そうじゃなくって! 大事なのは、その次ね……ええと。『使役の魔術をかける方法は二通りあります。脳を直接操るか、対象者の体内に自らの手先となる
私とニコは顔を見合わせた。
「「
ニコが青ざめて言った。
「クレア、じゃあ、フロガーは」
「間違いないわ。
私は焦って続きに目を走らせた。行使方法が書いてあるなら、当然、解除方法だって書いてあるはず。急いで頁をめくっていく。
「これじゃない、これでもない……ええと……あっ、ねえ、これは?! 『使役の魔術を解除する方法。脳を操っている場合には、術者の思念波を断ち切れば、たちどころに術は解除され、対象者は意識を取り戻します。この時、意識が
私は首を傾げた。さすが初心者向け、随分優しい指南書だ。私は、魔術師がそんな善人ばかりのはずがない、と思いながら、先を読み進める。
「あった、ここだわ、ニコ! 『次に、
ニコが叫んだ。
「あるよ! ニガヨモギのシロップ! 前にご主人様が作ってた!」
「えっ、本当?!」
ニコが食品庫に突進し、私も続く。ニコは、食品庫の奥にある、細い薬品棚を鼻面で指した。
「あれだよ! あの中の、茶色いガラス瓶!」
私は薬品棚を開け、ニコの言う通りに、茶色いガラスの小瓶を取り出した。確かに、瓶のラベルには『ニガヨモギ』と書いてある。私は叫んだ。
「お手柄よ、ニコ! 私、これを持って行くわ。フロガーを見つけたら、すぐに飲ませてあげる!」
ニコが興奮して飛び跳ねた。
「うん、そうしよう! ボク達で、フロガーを助けてあげよう!」
「ええ。とにかく、様子を見て来るわ。フロガーを見つけられるといいんだけれど」
私は、薬瓶を胸元にしまってマントを羽織り、裏口を出た。この湖を泳いで渡るのは、分が悪い。フロガーをあのように使役出来る魔女ならば、どんな水生生物を使役してくるか分からないからだ。いくら私が強くても、水の中では動きが鈍る。西から、森伝いに回って行こう。そう思って足を踏み出した途端、ニコが思い出したように叫んだ。
「あっ、そうだ! あとね、ご主人様は、火トカゲの魔女のこと、『男狂いの
私はずる、と転びそうになる。
「お、男狂い?! その……どういう意味かしら……」
「知らない。灰色の森では、たまに若い男の人や女の人が行方不明になるんだけどね、ご主人様は、森にかけた幻術で捕まえて、男はアイジン、女はドレイにしているんだろう、って言ってた。だから、クレアも、ほんとのほんとに気を付けて。ドレイっていうのにされないように!!」
「分かったわ……気を付ける。教えてくれてありがとう、ニコ」
ニコは、うん、と真面目に頷いた。私はニコを裏庭に残し、西の森へと飛び上がる。木々は濡れていたが、私の
「ルークは、魔女の屋敷はあの森の東側だと言っていたわ。こちらから回って行けば、すぐに見つかることはないはず……私が、魔女の幻術に惑わされなければいいんだけれど」
ルークは、私はルークの結界の影響を受けなかった、と言った。ならば、魔女が森にかけている幻術にもかからないかもしれない。
「フロガー、待っていてね。今、助けに行くわ」
私は、嵐の後で水滴らせる木々の間を、灰色の森目指して飛ぶように進んで行く。
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