第31話 魔物

 私達は暗い廊下に出た。雨の匂いが強くなり、風の音がより一層大きくなる。蝋燭の灯がじりじりと揺れた。私は胸の前でナイフを握って囁く。


「どこかの窓が開いているんだわ……森の匂いがする」


「ねえ、何の音? 上には、誰もいないよね? ご主人様、出かけちゃったもんね?」


「そうね……大丈夫、この屋敷は、ルークの結界で守られているんだもの。誰も、入って来られるはずが無いわ。多分、風で窓が開いただけよ」


 私は顔色を失ったニコを励ましつつも、自分も恐怖に身を固くして、階段を上る。ナイフを握る手が汗ばんできた。暗い階段で、手にしたこの一本の蝋燭の灯が、心もとない。


 階段を上り切る。目の前に、この前掃除したばかりのルークの部屋の扉があった。バンッ、バンッ、という音は、この中から聞こえている。私は扉の取手に手をかけた。


「いい? 開けるわよ」


 ニコが私の背にへばりついて頷いた。ノブを回すと、中から強い風が流れ出る。一気に、廊下に湿気が満ちた。見ると、部屋の正面の、バルコニーに通じる窓が開いて、ばたん、ばたん、と大きな音を立てている。カーテンも窓下の床も水浸しだった。室内に人影はない。私達は、ほっと体の力を抜く。ニコがうわあ、と叫んだ。


「大変だあ! 雨でビチャビチャになっちゃってる!」


「やっぱり、風で掛け金が外れたんだわ」


 私は急いで窓に走り……ぎくり、と足を止めた。


「フロガー……?」


 咄嗟にそう呟いていた。床にうずくまる、黒く丸い影。フロガーの顔をした黒い影は、吹き込む雨風の中、こちらを向いたままピクリとも動かない。「えっ?!」と叫んで私のそばに飛んできたニコが、驚いたように言った。


「そこにいるのはフロガーなの? ねえ、何してるの、そんなところで? 雨に濡れるよ、早くこっちに……」


「待って!! 近づいては駄目よ!」


 無警戒にそちらに歩み寄るニコを、私は咄嗟に突き飛ばしていた。同時に、ニコの立っていた場所に赤黒い炎が上がり、床が黒く変色する。熱波と黒煙が辺りを包み、吹き込んだ雨が一瞬で蒸発した。


 これは本当に、蛙のフロガーだろうか? 優しい茶色だった瞳は赤く燃え、血色の良かった唇は、青黒く変色している。その青黒い口からは、炎を上げる粘液が滴っていた。赤茶色の体はひどく膨張して、蛙とは思えないほど大きくなっている。もはや、魔物としか形容しようがない。彼の肌には不気味なできものが沢山出来ていて、それがボコボコと動いている。まるで皮膚の下で、何か異物が生きているようだ。


 煙に巻かれたニコが、パニックを起こした。子供のニコは、恐怖に奇声を上げて足を踏み鳴らしている。フロガーは、とても普通の蛙とは思えない跳躍ちょうやく力で跳び上がり、大きな本棚の上に隠れた。私は、急いでニコの傍に行って、その横腹を撫でてやる。


「落ち着いて、ニコ! 大丈夫、大丈夫よ。フロガーはあの上に行ったわ、でもあれはいつものフロガーじゃない、何か……」


 と言っているところに、本棚の上から炎の粘液が放たれた。私達は悲鳴を上げてベッドの上に飛び退く。粘液を浴びた床がタールのように溶け、赤黒い煙を上げた。煙の刺激で、目が開けられない。私達は、むせて咳込みながら壁際に追いやられていく。ニコが涙声で叫んだ。


「ゴホゴホッ……煙が沁みる、なにこれ、毒? 苦しいよう、クレア!」


「分からないわ、とにかくニコ、このブランケットを口元に! 煙を吸い込まないで!」


 私達は、ルークのベッドに掛けられていた、洗濯したばかりのシーツとブランケットをはぎ取りそれぞれ顔に巻き付けた。赤黒い煙が、目に、のどに沁みる。私は、目尻の涙を拭いながらベッドを下りた。左手に視線を向ける。さっき入って来た、開いたままの扉が見えた。


「ニコ、扉まで走れる? 急いで部屋を出るのよ。いち、にい、の……さん!」


 私達は扉に向かって突進した。一角獣のニコの方が速い。ニコが扉に到達して廊下に出た瞬間、後に続いていた私の足元に粘液が放たれた。火柱が上がり、私は悲鳴を上げて後ろに飛び退く。ニコが振り向いて叫んだ。


「クレア!!」


「大丈夫! ニコはそこにいて! 入ってきたら駄目よ!」


 私は目をつむりながら叫ぶ。どうしよう、どうすれば? 今が夜なのが悔しい、昼間の私なら、負けはしないのに!


 私は溢れ出る涙を拭いながら、ひとまず粘液を避けて後退する。真珠の縫い取りのある上靴が、床に撒き散らされた粘液に触れて燃え上がった。私は指先の熱さに、急いで上靴を脱ぎ捨てた。無我夢中で、裸足でベッドに飛び乗る。


 赤黒い煙が、部屋中に充満している。窓が開いていて良かった。吹き込む風が、煙をさらった。その時だった。私の目に、規則的に瞬いている緑の光が映る。


 私は、やっと止まって来た涙を拭いながら、正面を凝視した。暗闇に二つ並んだ扉の、右側。その扉の前に、大きな魔法陣が浮かんでいる。その大きな魔法陣は、まるで侵入者を拒むかの如く、扉の前でエメラルド色に浮かび上がっていた。


「あれは……あの時、ルークが開けてくれなかった扉だわ!!」


 あの日。ルークが開けてくれなかった、頑丈そうな扉。彼はあの時、ただの道具入れだ、と笑っていたけれど。ふいに、その緑の魔法陣の前に、大きな黒い影が横切った。本棚から飛び降りて来た、フロガーだ!


「フロガー!」


 私は思わず叫んでいた。フロガーは、あの扉を狙っているのだ! フロガーは、何度か魔法陣に向かって炎の粘液を吐きかけたが、その度に魔法陣は強く輝き、フロガーの攻撃を跳ね返す。まるで歯が立たないその様子に、私はベッドの上に立ったまま固唾かたずをのんで成り行きを見守っていた。実際、辺りの床が焼け焦げて煙を上げていて、ここから身動きが取れないわけだが。


 フロガーが、ふいに後ろを振り向いた。私は、ぎくりと体を強張らせて、銀のナイフを握りしめた。私達の間に、沈黙と警戒が横たわる。少しして、私は「あっ!」と声を上げていた。


 フロガーの体に、異変が起こった。彼の体内でボコボコしていた異物の動きが、次第に緩やかになっていく。フロガーが、怖ろしい唸り声を上げ始めた。


「ふ、フロガー? 一体……」


 フロガーは、ガハッ、と大きく咳込み、激しくえずいた。が、口からは何も出てこない。私は怖くて、震えながらその様子を見守っていた。やがて、フロガーが顔を上げた。赤い瞳が強く光り……だが、彼がたるんだ頬を揺すった瞬間。茶色の瞳が、赤い瞳を押しのけるように現れた。その瞳が、何かを訴えるように私を見つめる。


「フロガー!?」


 フロガーは、答える代わりに唸った。瞳が、忙しなく赤と茶色を行ったり来たりしている。彼は、体内で何かと闘っている!?


「フロガー、しっかりして! フロガー!」


 フロガーは苦しそうな唸り声を上げた。その両手が、がくがくと震えながら、首元に持って行かれる。彼のたるんだ首に、何かが光っていた。あれは……ルークがくれた、結界魔法を無効にする金の鎖だ!


 一方の手が一方の手を止めようとしている、不調和な動き……だが、遂に彼は、自身の首に巻き付いていた金の鎖を、力任せに引きちぎって投げ捨てた。


「フロガー!!」


 その瞬間、彼の瞳が炎のように赤く燃え上がり、体からバチバチと音を立てて火花が散った。フロガーは、手を差し出しかけていた私に、大量の粘液を吐きかける。私は咄嗟に飛び退いた。赤黒い炎の向こうで、フロガーはバルコニーを跳び越えて姿を消した。私は、うっかり深く吸い込んでしまった煙にひどく咳込み、溢れた涙に溺れそうになりながら、その姿を追う。


「ゴホゴホッ、待って、フロガー! どこへ……!」


 炎と煙を避け、必死にバルコニーに出る。雨に濡れた森と、波立つ湖が見えた。雷雲はいつの間にか過ぎ去り、辺りには、嵐のあとを追う強い風が吹き渡っている。その風の中、バチバチと、火花を散らして湖を渡って行く大きな塊が見えた。フロガーは、対岸を目指しているのだ。私は、対岸に横たわる不吉な森を見た。灰色の森! フロガーは、ルークが、決して行くなと言った、火トカゲの魔女の住む森に向かっている……。

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