第29話 蜜月の終わり

 夕食のあと、ルークは葡萄酒を手に離れに向かい、暫く帰って来なかった。ニコとフロガーは居間の暖炉の前で寛いでいたが、やがて眠くなったと言って裏口を出て行き、私は一人、二階の寝室に上がった。今夜は久しぶりに冷える。私は棚から薄いブランケットを出して来て、ベッドに横たわった。


 暫くして、人の気配に目を覚ます。いつの間にか戻って来ていたらしいルークが、バスルームから出て来た。そして、体を起こした私に目を留めて囁く。


「あ、ごめんね。起こしちゃった? テオと仕事の話をしていたら遅くなっちゃったよ」


「ううん、平気よ。……何か、困ったことでもあったの?」


「いや、別にないね。いつも通り、だけど」


 と言って、バスローブを羽織った彼は、私の隣に座って髪を拭きながら言った。


「残念ながら、そろそろ王都に戻らなきゃいけなくてね。きみとの幸せな夜も、今日で暫くお預けだ」


 私は思わず、頭からタオルを被っている彼を見つめた。そうだった、そもそもルークがこうして毎日屋敷にいたのは、結婚の特別な休暇がもらえたからなのだ。ニコとフロガーは、ご主人様がこんなに長く屋敷に滞在するのは初めてだ、と言っていた。私は突然、新婚生活の終わりを告げられた気がして、淋しい気分で目を伏せた。


「……そう……そうよね。ルークは随分長くお休みしていたんだもの。でもいきなり今日でお別れなんて、さみしい……わ?!」


 突然ルークに押し倒されて、私は悲鳴を上げた。ルークの濡れた髪が私の頬に触れる。私は、石鹸の匂いのする温かな体に抱きしめられて、身動きが取れずにもがいた。


「く、苦しっ……!! ちょっと、離し……」


「はあ……好き。なにその淋しそうな顔。はあ……もう本当、ため息しか出ないよね」


 と囁きながら、ルークは私をきつく抱きしめてくる。私はじたばたするが、この非力な夜の姿では、とても逃げられそうにない。


「ちょっと、ルーク! 苦しいったら! もうっ!」


「……はあ。クレアを連れて行けないのが、残念でしょうがないよ。本当は、きみを王都に連れて行って、毎日可愛がっていたいんだけど……きみを危険にさらすわけにはいかないからね。おうちでいい子で待っててね。絶対に結界の外に出ちゃだめだよ。危ないから」


「わ、分かったわ、分かったから、離して! くるしい……それに、あついわ!」


 ルークは私の訴えなど聞きもせず、私を抱きしめたまま首筋に顔を埋めてくる。結局そのまま、私達は新婚らしく一晩中幸せに過ごし……そして翌朝早くに、ルークはテオの馬車で王都に旅立って行った。次に彼らが戻るのは、一月後ひとつきごらしい。


 玄関先で馬車を見送っていたニコが、背にフロガーを乗せたまま、居間のカーテンに隠れていた私のそばにやってきた。


「ご主人様、行っちゃったね。クレア、見送らなくて良かったの?」


「ええ、いいのよ。私はさっき、寝室でお見送りしたの。ルークもそれでいいって」


「ふうん。ねえクレア。ボク、朝ご飯までまた寝ててもいい? まだ起きるには早すぎるんだもん」


「いいわよ。朝ご飯の時間になったら起こしてあげる。フロガーも、一旦土手の家に戻る?」


 フロガーは、ニコのたてがみを見つめたままピクリとも動かない。ニコが「フロガー?」と首を振り向けた。フロガーは、ぴょん、と床に下り立って言った。


「……いや、ここでいい。飯までみんな寝てろよ。俺はここで……ココデ」


 フロガーが突然、ピンッと体を硬直させた。まるで機械仕掛けの人形のような、おどけた動き。私とニコは顔を見合わせた。ニコがフロガーに鼻面はなづらを近づけた。


「フロガー、どうしたの、寝ぼけてるの? 家に帰ってもうちょっと寝てなよ。ボク、連れて行ってあげるよ。ほら、ここに乗って」


 フロガーの体が再び弛緩しかんした。彼はゲコォ、と特大のげっぷをして、長い舌で唇を舐めている。私は注意深く彼の様子を見つつ言った。


「フロガー、どうしたの、大丈夫? やはりどこか体の具合が?」


「……いや……この寒さが、いけねえよ。もっかい冬眠してぇくらいだ」


 フロガーは暗い声で呟いた。ニコが首を上げて私に言った。


「フロガーはね、冬眠から起きたばかりなんだよ。クレアが来るちょっと前に、森の冬眠部屋から土手の家に帰って来たんだ」


「仕方ねえよ、寒いと俺らみたいな変温動物は動けなくなるんだからな。はあ、どっか暖かい所に行きてえなあ……、暖かいだろうになあ」


「火……? そうね。ちょっと待っていて。今、暖炉に火を入れてあげる。また暖かい日が来るまで、ここで眠ったらいいわ。土手の家は湖の近くで、寒いだろうから」


「お……そうか、ありがとな、クレア。あんたは優しいな。あんたがご主人様の奥さんで、ほんとに良かったぜ」


 私は褒められることに慣れていないから、そんな風に面と向かって言われると、どうしたらいいのか分からない。私はじっと立ち尽くしたまま、呟いた。


「その……ありがとう、フロガー。私、そんな風に褒められたことがないから……嬉しいわ」


「……の割には、顔が無表情じゃねえか。笑ってねえぞ」


「慣れていないから、どういう顔をしたらいいのか、分からないのよ!」


 ニコとフロガーが笑った。私は「もう!笑わないでよ」と言いながら、倉庫から薪を出して来て暖炉に火を入れてやる。フロガーもニコも、暫く火が上がるのをその場で眺めていたが、やがてウトウトし始めた。私はソファに置いてあったブランケットを彼らにかけてやり、裏庭のニワトリ小屋に卵を取りに行く。外に出ると、空には鉛色の分厚い雲が一面に広がっていた。


「今日も雨になりそうね……ルーク達が、雨の前に王都に着けるといいけれど」


 遠い雷鳴が、微かに大気を震わせる。嵐が来るのかもしれなかった。                   

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