第26話 魔術師の私室

 それから暫く平和な日々が続き、私は、自らの抱いた微かな違和感など、いつしかすっかり忘れてしまっていた。


 そんなある日の朝。朝食を済ませた私とニコは、屋敷三階の、ルークの部屋の前に立っていた。ニコが、眉を寄せて囁く。


「ねえ、本当にやらなきゃいけないの? ボク、やりたくないんだけど」


「私も……でも、仕方ないわ。あの人一人で、出来るわけないし。それに、ここを片付けないと、本当の意味でこの屋敷を掃除したことにはならないものね……」


 私達がひそひそ話していると、階下から足音がして、ルークが笑顔で姿を現わした。


「お待たせ! クレア、ニコ、ご協力ありがとう。じゃ、始めよっか!」


 今朝、どういう風の吹き回しか、朝食の席でルークが突然、「今日は僕の部屋を片付けるぞ!」と宣言した。フロガーはすかさず断固拒否して難を免れたが、私とニコは、笑顔のルークに押し切られる形で、こうして手伝いに駆り出されている。


 ルークの私室に入るのは、初めてこの屋敷を訪れた結婚式の夜以来だ。ルークはよくこの部屋を出入りしているが、他の住人は、誰もこの部屋に近づかなかった。私的な空間だから、という遠慮もあるが、それ以上に、あまりにも汚過ぎて純粋に入りたくなかったからだ。


 室内は予想通り、酷い有様だった。物が雑多に散乱している上、微かに異臭も漂っている。ニコが「おえ……」と呟いて長い首を下げた。ルークは平然と言った。


「最近、行方不明になる物が多くってさあ。ちょっと困ってるんだよ。多分、片付けたら出て来ると思うんだけど……あれ? みんなどうしたの? 遠慮なく入ってよ!」


 私は息を止めて部屋を横切り、勢いよく窓を開け放った。湿った春風が、部屋に流れ込んでくる。バルコニーで幾度か深呼吸をしてから、私は言った。


「……まずは、ゴミを捨てないと。これじゃあ、足の踏み場も無いわ」


「うん、そうだね。ほらニコ、そんなとこに突っ立ってないで、入って来いよ。床に落ちてる物は、基本的にゴミだからな。全部捨ててくれていいぞ!」


「だったら、最初からゴミ箱に捨ててよ! なんで、ご主人様は床にゴミを捨てるのさ、全くもう!」


 ニコはプリプリ怒りながらゴミを拾っていたが、ルークが箒で床を掃いた拍子に、ニコのくしゃみが止まらなくなった。ニコは癇癪かんしゃくを起こして叫んだ。


「もう、ボク、限界だよ! こんな汚いところ、あと一秒だっていられるもんか! 湖で水浴びして来る!」


 ニコは鼻水を撒き散らして出て行ってしまった。ルークが腰に手を当てて言う。


「なんだよ、仕方のない奴め!」


「……ニコは子供なのに頑張ったわよ。とにかく、二人で出来るところまでやりましょう」


「うん、そうだね!」


 私達は、部屋中に散乱する書物を何往復もして書棚に戻し、ぐちゃぐちゃの衣類を片っ端から洗濯かごに入れていく。私がクッションの下から白い布の塊を拾い上げると、ルークが「あっ、それ!」と言って、その布を引ったくった。


「探してたんだよ、手袋!」


 彼が広げたその小さな布は、例の、怪しい魔術師の格好の時につけている手袋だった。


「最近、なんだか数が減って来ちゃって、困ってたんだよねえ」


 と言って、彼は大きな木製扉を開け、私を手招きした。中を見て驚く。長方形の部屋の片側に、あの魔術師の衣裳が、ずらっと並んでいた。反対の壁にいくつもの仮面がかかっている。私は驚きの声を上げた。


「すごいわ、あの服って、こんなに沢山あったのね!」


「まあね! 全部で50着はあるかなあ。その日の気分で、違うのを着ているんだよ」


 仮面も服も、似ているようで、同じデザインのものは一つもない。ただ、緑のマントだけは例外だ。何着もあるそのマントには、全て同じ紋章が刺繍されていた。紋章には、盾と四種類の何かの絵柄、それを支えるように向き合った不思議な魔法生物などが描かれている。見たことのない紋章だが、デイヴィス家のものだろうか?


「すごいわ。仮面も服も、こんなに高価そうなのに……」


「ふふん、僕は、国王の側近で魔術院のおさ、さらに言えば、学府の最高責任者なんだよ? その僕が、みすぼらしい格好するわけいかないだろ? 僕これでも、身なりには相当気を使っているからさ!」


「……その割には、他の私服はぞんざいな扱いね……」


「王都に出ないときはいいんだよ、別にどうでも。なんなら、自宅では裸で過ごしてもいいくらい!」


 私は、あはは、と笑うルークを無視し、話の流れで聞いてみた。


「ねえ、ルーク。あなたはいつもこの独特な衣装を着ているみたいだけど、あなたの素性は、一体誰が知っているの? 国王陛下は当然……」


「知っているよ、もちろん。ああ、それと、五大組織のおさもね。だから僕の素性は、これまで公には秘匿することが出来た、ってわけだ。人ひとりの正体を隠すくらい、僕らの権力をもってすれば造作もないことだから」


「そうだったの?! どうりで……おかしいと思ったわ。私はあなたのことを、ずっと『その姿も声も、誰も知らない魔術師様』って聞いていたけれど、それがすごく不思議だったの。宮廷に仕えているのに、誰とも言葉すら交わさずに生きることなんて出来るのかしら、って」


 彼は楽しそうに笑った。


「僕、そういう得体の知れない人物になってみたかったんだよ! 実際、宮廷魔術師である以上は、その方が好都合だし。結構人に言えない仕事もしているからね、僕は」


 ルークはそう言って意味深に笑った。私はちょっと怖くなったが、国王の腹心と言うからには、きっと本当に口外できない仕事も多数あるに違いない。彼は愉快そうに続けた。


「メイルバード、覚えている? きみと結婚した翌朝、僕を呼びに来た鳥。あれは魔力の高い特別な鳥で、僕が王宮に出る時には、あの鳥を介して喋っているんだよ」


「あの鳥を介して? 一体、どうやって?」


「簡単な意思伝達の魔術さ。僕の言葉を、メイルバードの脳に転送して、あいつに喋らせる。きみも、王宮の僕の姿を見たら驚くと思うな。水晶の付いた長い杖を片手に持って、その上に不気味なメイルバードを止まらせて歩いているんだよ。もちろん、仮面とマントも忘れない。全身防備するのは結構大変なんだけど、あの姿だと周りが畏敬いけいの念を持って接してくれるから、僕としてはすごく気分がいいんだよね!」


 私は頷いた。結婚式の教会で、豪華で不気味な衣裳をまとって一言も発さなかった彼は、とても怖かった。


「そうね。私も、教会であなたを初めて見た時、とても怖かったわ。それに、本当は一体どんな人なんだろう、とも思った。きっと、あなたの周りの人たちも『王宮の最高位魔術師殿』の本当の姿に興味津々なんじゃないかしら。もし、みんながあなたの素顔を知ったら……私もそうだったけれど……きっと、すごく驚くでしょうね」


「まあね! 僕って、すごく格好いいから!」


 私は、あの姿の彼と、今、この汚部屋に笑顔で立っている彼のギャップを思いつつ言ったのだが、ルークは違う意味に捉えて喜んでいる。私はあえて否定もせず微笑んだ。とにかく、これで、彼に関する謎が一つ解けた。


 衣裳部屋を出ると、隣にもう一つ扉があったので、私は何気なく聞いてみた。


「ねえ、ルーク。この扉はなあに?」


「内緒」


「えっ?」


 即答したルークに、意外に思ってその顔を見上げると、彼は真剣な顔で言った。


「いいかい、クレア。僕がいない時に、絶対にこの扉を開けてはいけないよ。この中には、実は……」


「実は……?」


 次第に声が小さくなるルークに、私が神妙な顔をして問いかけると、彼はプッと噴き出した。


「なんちゃって! 別に大したものは入ってないよ、ただの実験道具入れさ」


「えっ?! もうっ。何か、すごいものが隠されているのかと思ったじゃない!」


「僕のいない間にこっそり開けたら、床が血まみれで、若い女の死体がずらーっと並んでるとでも思った? ははは、残念でした」


「別に、そんなことは思っていなかったわ!」


「さあ、それはいいとして、掃除の続きだね。あとはあのベッドだけかな」


「えっ? ええ、そうね。ベッドカバーにブランケット、それにシーツも洗濯して、マットレスを干しましょう」


 ルークは「よし、あとちょっとだな!」と笑いながら行ってしまった。私は、衣裳部屋の隣の、やけに頑丈そうなオーク材の扉を見上げて呟いた。


「結局、ここは開けてくれないのね……。掃除する場所が増えるのも大変だし、別にいいけれど」


 私は、その扉の不思議な存在感に心惹かれつつも、その場を後にする。

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