第25話 微かな異変

 屋敷に戻ると、前庭でタンポポの黄色い花をつついて遊んでいたニコが、顔を上げて鼻息を荒くした。


「あっ、やっと帰って来た! おそーい、クレア。あれ? ご主人様は?」


「すぐあとから来るわ。私はお昼を用意するので、一足先に帰って来たのよ」


「やったあ! ねえ、今日のお昼はなに? 僕、もうお腹ペコペコだよ」


 私はニコと共に裏口から屋敷に入り、台所でスープの準備を始めた。私が出してやったニンジンに、ニコは喜んで齧りついている。私はふと顔を上げた。


「そういえば、フロガーは? もう戻っているわよね?」


「ボク、帰って来てから会ってないよ。多分、その辺の水たまりで日向ぼっこしてるんじゃないかなあ。フロガー、いつも水たまりに浮かんで昼寝してるから」


「そう、それならいいけれど……結界石のこと、大丈夫だったのかしら」


 私があの火トカゲを思い出しながら眉を寄せると、ニコは心配する素振りもなく言った。


「大丈夫に決まってる。湖の底なんて、お魚かカエルくらいしか行かないもん」


 馬のいななきが聞こえて、ルークの戻った気配がした。かまどの上の開け放した窓から、離れの厩に向かう彼の声が聞こえて来る。


「おい、フロガー。そんなところで泥まみれになっていないで、さっさと屋敷に戻れよ。もう昼めしだぞ」


 ゲコォ、というフロガーのげっぷが聞こえた。ルークが「汚い!」と喚きながら馬を引いて歩いて行く足音がする。ニコがニンジンを頬張りながら言った。


「ほらね」


 私は笑って頷く。暖かな春風が窓から吹き込んできた。春のいい匂いがした。


 お昼を済ませた私達は、裏庭に出た。今日の午後は、裏庭の大改造をするのだ。


 私達は、辺りを覆うカモミールを抜いて、昨日町から届いたハーブや野菜、花の苗を植えて行った。荒れ果てて放置されていた裏庭が見違えるように綺麗になった。可愛いカモミールも、随分数は減ったけれど、片隅で白い花を揺らしている。


 私は、苗を植えるのに苦戦している、明らかに不器用なルークに聞いてみた。


「ねえ、ルーク。前から思っていたのだけれど、この商人さんは、一体どうやってこの屋敷まで品物を届けて下さるの? この森には結界があるのに」


「ああ! そのことか。そうだね、きみにはまだ言ってなかった」


 と言って、彼は自分の手首に巻いている細い金鎖を一本抜き、それを私の手首に付けてくれた。


「これが、その秘密だ。僕の結界の影響を無効にする、魔法のブレスレット。結界を出る時は、必ずこれを身に着けていてくれ。ニコとフロガー、使用人のテオ、それに僕の友人で国王のデズと、あの商人にもこれを渡している。彼らは、これのおかげで結界を難なく出入りしているんだよ。これがなければ、僕がかけた術に惑わされてこの屋敷に辿り着けない。……但し」


 彼は、私をじっと見つめ、あごに手を当てて考えながら言った。


「きみには、これは不要かもしれない。なぜなら、きみは、昨日僕を助けた後、なんなく結界をすり抜けて屋敷まで戻って来たからだ。きみは魔力を全く持っておらず、なおかつ僕も同行していなかったのに、きみは僕の幻惑術の影響を全く受けなかった。それが、きみの飛びぬけて高い身体能力によるものなのか、もしくは、根本的にきみは魔術の影響を全く受けない体質なのか、それはまだ僕にも分からない。でもとにかく、非常に興味深い事象であることは間違いないね。きみが許してくれるならば、僕はきみのことを、もっと……」


 観察したい? それとも研究? けれど私は、その言葉を飲み込み沈黙する。私が、彼の視線を避けてそっと目を伏せた時。背後からニコの鼻息が響き、ルークが呆れた声を上げた。


「なんだ、ニコ。もうへばっちゃったのか」


「もう、じゃないよ、ご主人様! だってボク、一人でほとんど全部掘り返したんだからね! こんなに働く一角獣、ボクくらいだよ。褒めてくれてもいいでしょ!」


 ニコは怒った顔をして、ぶるるん、といなないた。彼は裏庭のほとんどの場所を、前足でせっせとかき混ぜてくれた。おかげで私達は、ふかふかの土に苗を植えている。ルークが立ち上がりながら笑顔を見せた。


「あっはは、ごめんごめん。そうだったな、ありがとう、ニコ。お前のおかげで、いい畑になりそうだよ!」


 ニコは「もう! あはは、じゃないよ!」と不満そうに鼻息を吐いた。それから私にすり寄って来て、甘えた声を出す。


「ねえクレア、今の時間は日陰もないし、ボク、暑くなっちゃった。ちょっと休憩にしない? ボク、のど渇いた」


 私は、ニコに救われた気分で立ち上がり、微笑んで頷いた。


「そうね。ちょっと休みましょうか。お手伝いありがとう。私、湖の冷たい水を汲んでくるわ。昨日の荷物にキイチゴのシロップが入っていたから、お水で割ってジュースにしてあげる。みんな、屋敷に入って休んでいてね」


 ニコは「わあい!」と言って、飛び跳ねた。ルークは水汲みを手伝うと申し出てくれたが、私は丁重に辞退した。私の移動能力と腕力があれば、一人で十分だ。彼らは連れ立って屋敷に入って行き、私は裏口すぐの倉庫から大きなブリキのバケツを持って出て来る。裏庭の端で、フロガーが一人黙々と抜いたカモミールを束にしていた。


「フロガー? まだここにいたのね。みんなと屋敷に入っていていいわよ。暑いから、少し休憩にしましょう。今、冷たいお水を汲んでくるから、ジュースを……」


 フロガーは答えなかった。その目は手元に落とされているが、まるでぼんやりとしていて、心ここにあらず、という雰囲気だ。


「……フロガー? どうしたの、大丈夫?」


 私が心配に思って再度問いかけると、彼ははっとしたように顔を上げた。そして、一瞬ここがどこだか分からない、という顔つきで辺りを見回し、やがてその視線が私の顔に向いた。定まっていなかった焦点が、徐々に私の瞳に合っていく。


「……クレア……?」


「ええ、そうよ。大丈夫? 具合が悪いの? なんだかぼんやりしているけれど」


「あ、いや……なんでもねえよ。ただ……ちいっとばかし、日の光が強すぎんだ」


 フロガーはのろのろと低い声でそう言うと、眩しそうに顔をしかめた。


「……悪ぃけど、土手の家で寝るわ。じゃあな、お疲れさん」


「えっ? 待って、一人で大丈夫なの? 屋敷でルークに診てもらった方が……」


 ルークが医術の心得があると言っていたのを思い出して声をかけたが、フロガーは笑って手を振った。


「必要ねえよ! 別に、具合は悪くねぇからな。昨夜、イイ女とちっと夜更かししたから、寝不足なだけだ。ご主人様には内緒だぜ? また説教食らっちゃあ、たまんねえからな! 心配かけて悪ぃな、クレア。また晩飯ばんめしの時に」


 フロガーは冗談めかしてそう言い、暗い木陰に姿を消した。見ると、彼がまとめていたはずのカモミールは一つも束にされておらず、その場に散乱している。いつも几帳面で綺麗好きなフロガーらしからぬ所業だ。私は、ちらばったカモミールをいくつか拾い上げながら呟いた。


「フロガー? 一体どうしたのかしら」


 追いかけようと思ったが、本人が大丈夫と言うなら、大丈夫なのかもしれない。私は迷いながらも、彼のあとを追いかけることはせず、湖に向かった。


 夕食の席に現れたフロガーはいつもと同じ様子だったので、私はホッとする。やはり、長時間太陽を浴びての作業で疲れていたのだろう。フロガーはいつも通り専用カップで葡萄酒をチビチビ飲み、眠くなったと言うニコの背に揺られて裏口を出て行った。


 ルークは昼間の宣言通り、その夜は私を離さなかった。私は、本当は彼に聞きたいことが山ほどあったし、聞けないことも山ほどあったけれど、月の輝きが映り込んだ優しい灰色の瞳を見つめていたら、何もかもがどうでもよくなってしまった。私はルークの、細身だけれど男らしい筋肉で引き締まった腕に抱き寄せられ、その背中に腕を回した。私達はお互いに溺れ、幾度目かの快楽の波が過ぎ去った後、幸福な倦怠の中でいつしか眠りに落ちていた。


 それから、どれくらいの時間が経っただろう。ふいに、ぼちゃん、という水音が聞こえた気がして、私は反射的に目を開けた。大きな窓から見える月は高く、薄雲がかかっている。今はまだ夜半のようだ。


 静かな夜だった。私はぼんやりと目を開けたまま、じっと耳を澄ます。風が、そっと森の木々を揺らす音がする。でももう、水音は聞こえない。


 私は無意識に、傍らに横たわる男に身を摺り寄せていた。ルークは夢うつつのまま私に腕を回してくれたが、目を開けることなく、安らかな寝息を立てている。私は、彼の規則正しい鼓動を耳元で聞き、その肌の香りとぬくもりに包まれているうちに、再び意識がぼんやりしてきた。水音はしたのかもしれないし、しなかったのかもしれない。或いは、湖に生息する魚が、気まぐれに湖面を飛び跳ねた音だったのかもしれない……。私の意識は再び、まるで水底に沈み込んでいくように静かに、安らかな眠りの世界へ落ちて行った。

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