第24話 あなたは、なぜ私を

 南の結界装置は、ルークが襲われた場所のすぐ近くだった。見覚えのある景色だ。この肉体に備わる方向感覚のお陰で、昨日、自分がどういう道を辿ってここまで来たのかも、正確に把握できる。私は馬から下り立ちながら言った。


「ここは、昨日の場所のすぐ近くね」


「そう。昨日、きみが僕を助けてくれた場所は、あの木々の少し先だ。もう少しで結界に入れるところだったんだけど、奴らに追いつかれてしまった。あの時は本当に助かったよ。ありがとう、クレア」


 そう言って、彼は私を抱き寄せてキスをした。私は恥ずかしさに身をよじりながら、首を振る。


「いいえ。あなたに怪我が無くて、本当に良かったわ」


「きみの方こそ。もしあの時クレアが怪我でもしていたら、僕は自分を許せなかっただろうね」


 と言って、彼は突然、私の両肩をしっかり持って、私を覗き込んだ。理知的で美しい灰色の瞳が、私をまっすぐ見据えている。


「いい? クレア。きみは強いけど、絶対に無茶なことをしてはいけないよ。次は必ず、僕がきみを守る。約束するよ、クレア」


 そう言って、彼は私をぎゅっと抱きしめた。私はドキドキして、言葉が出ない。彼の腕の中で微かに頷くと、ルークは「いい子だね」と言って私を離し、例の黒い箱を開けた。


「よし、これで最後だ。さっさと終わらせてしまおう」


「ええ。……ねえ、ルーク。昨日の虎は、あれからどうなったの? 気配が無いわ」


 私は目を閉じて、尖った小さな鼻を風上に向けながら言った。草木の焼けこげたような匂いは僅かに残っているが、あの恐ろしい黒い虎の気配はきれいさっぱり消えている。ルークは黒い箱を草地に置いて頷いた。


「見えなくても、きみには分かるか。ああ、あの虎の肉体は、既に回収されている」


「回収って……一体どうやって? 誰かが運んで行ったの?」


「まさか。使役の魔術を使ったのさ。虎の意識を操って、自力で帰還させたんだろう。昨日、きみと屋敷で話したあとすぐにこの場に戻ってみたが、虎は既に回収されたあとだった。サイラスならそのくらい……」


 と言いかけて、ルークは彼を見つめている私の視線に気づき、首を振った。


「いや、この話はよそう。きみはもう昨日のことは忘れて欲しい。すまない、クレア」


 その真剣な様子に、私は素直に頷いた。必要があれば、きっとルークは話してくれるだろう。彼が話したくないのなら、私は何も聞くべきではない。


 ルークは、生い茂る木々に隠された結界装置に歩み寄り、手早く石を交換すると、黒い箱を閉めた。


「これで全て完了、っと。さて、帰るとするか。ニコとフロガーが首を長くして待ってるんじゃないかな。腹が減ったー、ってさ」


「そうね。早く帰って、お昼にしましょうか。昨日届いた食材の中に、塩漬けの豚肉があったわよね。それをスライスして、お野菜と一緒に煮込んでスープにしましょう。それくらいなら、この鉤爪でも作れるから。あとは、昨夜焼いたくるみのパンが残っているから、それも一緒に」


「いいね! 美味しそうだ。僕も何か手伝うよ。いつも本当にありがとう、クレア」


 と言いながら、彼は馬上の私を後ろからきつく抱きしめる。私は、この固い鱗に覆われた肌で彼に怪我をさせてしまうのではないかと心配で身を引くのだが、そうすればするほど、ルークはその腕に力を籠めるのだ。


「……ねえ、ルーク。私の肌、その……痛くはないの? もう少し、離れた方が……」


 彼は私の言葉には答えず、首元に顔を埋めて何かブツブツ言っている。私は必死に身を引いた。


「ねえ、ルークってば! 聞いているの? 危ないから離れてったら! 私、あなたに怪我をさせたくないの!」


「怪我? しないよ、大丈夫。僕、この鱗がどっち向きに並んでいるのか、今朝くまなく観察したから。そんなことより、午前中の作業も予定通り終わったし……」


 と言いながら、さりげなくルークは私の上半身を覆う布を引っ張り、脱がそうとしている。私は悲鳴を上げた。


「きゃああ! な、何をしているの、ルーク!!」


「僕やっぱり、どうしても昼間のきみとも愛し合いたい。屋敷にはあいつらがいるから、帰る前に、今ここでしよう!」


 ルークは、爽やかな笑顔できっぱり言った。私は驚いて、その手から逃れようと、必死に力を加減しながらその体を押し戻す。この凶器めいた鍵爪を隠すのが、結構大変なのに。


「ななな、何を言っているの!! 私は嫌、絶対に!」


「なんで? 大丈夫だよ、結界も強化されたし、この森には誰もいないんだから。屋敷の寝室と同じさ」


 ルークは嬉しそうに私を馬から下ろそうとするが、私は必死に抵抗する。


「嫌よ、私は、この醜い姿をあなたに見られたくないの! 今すぐにでもマントを着たいくらいなのに、よりにもよって、こんな明るい場所で、そ、そ、そんなこと……!」


「明るいからこそ、クレアの姿を隅々まで堪能出来ていいんじゃないか」


 ルークはきょとんとして言ったが、私は耐えきれず、遂に彼の腕をすり抜けて、その場から跳び上がっていた。


「あーっ! ずるいぞ、クレア! そんな上に行っちゃったら、届かないじゃないか!」


 私は、ルークがずらした服を押さえて、ドキドキしながら言い返した。


「わ、私、ここからは一人で帰るわ! 先に帰って、お昼の支度をしておくから」


「待ってよ、ごめんって! 謝るから、下りて来てよ」


「ううん、いいの、こちらこそごめんなさい。その……普通の女の人なら、きっと……」


 と呟いた声が、風に溶けて消える。もしも私が今、この醜い姿でなかったなら。恐ろしい鱗の肌と鋭利な鉤爪の代わりに、滑らかな肌と可愛らしい指先であったなら。私は喜んで身を任せていたのかもしれない。


 けれど、もしそうだったら。果たして、ルークはこうして私に興味を持ってくれたのだろうか? 彼は既に、五人もの妻を離縁している。私は彼女たちがどんな女性だったのか知らないし、知りたくもないが、彼女たちと私が決定的に違うのは、この不気味な変身体質であることは間違いない。


 私はこれまでずっと、気付いても考えないようにしていたことがある。けれど本当は、いつも思っていた。たまにルークが私に向けてくる、純粋な好奇心に輝く視線。それはまさに、新種の生物を発見した研究者のそれと、同じではないか……。


 木の下で、ルークが大声で喚いていた。


「えっ、なに? 聞こえないよ! もう、仕方ないな、今は我慢するよ! でもクレア、その代わり今晩は、絶対に、今の分まで付き合ってもらうからね!! 文句は無しだぞ!」


 私は無言で頷く。彼は再び「絶対だからね!」と念を押し、馬をのんびり出した。私は、彼よりずっと早く、樹上を移動して屋敷を目指す。


「ルーク。こんな異形の私のことを、あなたは、どうして」


 けれど私は、その問いを彼に投げかけることが出来ない。私は、いくら意識の底に追いやって考えないようにしようとしても、自分が、彼にとっての『研究対象』である可能性を否定出来なかった。私はそれが、たまらなく怖い……。

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