第21話 マントはいらない

 ルークが大きな黒い箱を持ち、私達は彼に付いて外に出る。庭で遊んでいたニコに、ルークが結界石を一つ渡した。ニコは頷き、ぱくんと石をくわえて、足取りも軽く緑の森へと消えて行く。ルークが箱の蓋を閉めて言った。


「さて、西はこれで良し。じゃあ、湖に行こうか」


 屋敷の敷地を出てすぐそばの湖のほとりに行くと、ルークが砂地に箱を置いて一つの結界石を取り出した。


「宜しくな、フロガー。何も無いと思うけど、一応周囲には気を付けろよ」


「分かってるって。任せろ」


 フロガーは、両手でその大きな緑の石を抱えると、ぼちゃん、と岩から湖に飛び込んだ。波紋を残して、彼の茶色い背中が見えなくなる。


「よし、ここも大丈夫だな。じゃあ、次行こうか」


「ニコもフロガーも、慣れたものね」


「まあね。いつもこうしてお願いしているからね。彼らも立派な魔術師の助手さ。……さて。この先はちょっと距離があるから、馬に乗って行こう。ちょっと待ってて」


 ルークはそう言って、屋敷の裏庭から続く小路こみちに消えていった。私はその場に突っ立ったまま、彼の足音を無意識に追う。小路を小走りに行く彼の足音と、風に乗って聞こえる馬のいななき。


「馬小屋があるのね……きっと、あちらに離れがあるんだわ」


 私は目を伏せて、じっと聴覚に集中する。馬の気配がするのは、ここからほど近い……百メートル程の場所だ。聞き慣れたルークの足音と、馬のひづめの音が段々近づいて来る。私が顔を上げるのと同時に、笑顔のルークが木陰から姿を現わした。手綱で引いているのは、栗毛の立派な馬だ。


「お待たせ! クレア、馬に乗ったこと、ある?」


「ええ……少しなら。と言っても、夜だけよ。お父様が、別邸に行った時に何度か乗せてくれたことがあるの。でも、昼間は一度も無いわ」


「そりゃそうか。でも大丈夫、心配はいらない。きみ先に乗って。僕が後ろに乗って手綱を取るから。二人乗り。いいでしょ、恋人同士みたいでさ」


 ルークはそう言って笑顔で手を差し出したが、私は気まずい思いで身を引いた。


「その……私は大丈夫。自分で行けるわ」


「えっ? そりゃあ、きみが馬よりずっと速く移動できることは知っているけど、それじゃあつまんないよ。二人で馬に揺られて、のんびり話しながら行こうよ」


「でも……」


 ルークは渋る私の腕を取って、引き寄せた。そして、私を見下ろして首を傾げる。


「そういえば、なんでマントを? 言った通り、この結界の中には僕らの他は誰もいない。テオもまだ帰ってないから、これは必要ないよ」


 と言って、当然のようにマントを脱がそうとするので、私は必死に抵抗した。


「ちょ、ちょっと待ってくれるかしら! 私、その……このままの方がいいと思うわ!」


「えっ? なんで?」


「なんでって……そ、そんなの当然よ。私は今、こんな姿なのですもの。誰だって、私を見たら、不愉快になるに決まっているわ。それに……それに、あなたはとても素敵な人なんですもの。私、こんな醜い姿を、あなたに見られたくない……」


 今更ながら、この忌まわしき姿に胸が痛む。だが、涙がにじんでぼやけて来た私の視界に、なぜか頬を染めてニヤニヤしているルークの顔が映った。


「あ、あの……ルーク?」


「やだなあ! クレアって、僕のことそんなに大好きだったんだ! 困っちゃうよね、いきなりそんな、僕への愛情を吐露とろされてもさ。あなたはとても素敵な人、かあ。ふふ、まあ、本当のことだけどね! でも、いつも物静かなきみがそんな愛の告白をしてくれるなんて、思ってもみなかったよ。ありがとう、クレア」


「え……ええっ?! ち、違うのよ、いえ、違うわけではないけれど! と、とにかく、私が言いたかったのは、そういうことじゃないの! つまり、私は、あなたの前にこんな姿をさらすわけには……」


 なんだか論点がずれているルークに、焦って言い募る。だが彼はきょとんとした後、真顔であっさり言った。


「こんな姿? ああ、そのことなら気にしないでいいよ! 僕、今朝きみが寝ている間に、その体を隅々まで観察させてもらったから」


「……えっ?!」


 私が驚いて叫ぶと、ルークは晴れ晴れした顔で言った。


「きみの体、観察させてもらったよ。全身くまなく」


「か、観察って……」


 私はひどく困惑したが、ルークは平然と言い放った。


「今朝、僕は実に爽快に目が覚めた。そりゃあ、あんな素晴らしい一夜を過ごした後だからね。ちょっとここ何年も感じたことのない充足感だったな。で、外を見たら、ちょうど夜明け頃だった。僕は極めて幸せな気分で、眠っているきみの髪を撫でていたんだけど。その時ちょうど、東の空から陽が昇って来たんだ。そうしたら、すごいじゃないか。きみの体が、僕の目の前で、まるで魔術を見ているかのように変貌していくんだよ! これはすごい、と大興奮して、朝陽の中、変わっていくきみの体をずっと見ていたんだ」


 ルークは満足そうにあごを撫でている。私は言葉もなく、その独白を聞いていた。


「朝陽がきみの全身を包み込んで、きみの変化はすっかり完了したらしかった。それで僕は、待ってました、とばかりに、きみの体を観察し始めたんだ。あ、僕の名誉のために断っておくけど、一応きみに声をかけたんだからね? 『クレア、触ってもいい?』って。そうしたらきみはスヤスヤ寝息を返してくれたから、あ、じゃあいいんだろうな、って」


「そんなわけないでしょう!! 私は眠っていたのよ、寝息が返事のはずないわ!」


「あ、そうだったの? てっきり、許してくれたんだろうなって。だってきみ、僕のこと大好きだもんね。僕はきみの『最愛の夫』ってことでいいんだよねえ」


 ニコニコしているルークの顔が、極悪に見えて来た。私は上手く反論できずに「あう」と唸る。彼は上機嫌に続けた。


「きみの許しを得た僕は、遠慮なくその体を観察させてもらったよ。ちなみに言っておくと、僕はこれでも、医術の心得もある。きみ知ってる? 魔術と医術と言うのは、極めて関連性の高い分野なんだ」


 言いながら、彼は私を馬の鞍に押し上げ、自分は後ろにまたがった。


「魔術と言うのは結局のところ、ある存在に様々な影響を及ぼすエネルギーの総体だ。その対象は無機物であり有機物であるわけだけど、人間が魔術を扱おうとする時、良くも悪くも、その対象となるのは人間である場合が多い。癒すにも害すにも、対象物の構造を詳しく知っているかどうかで、その力には雲泥の差が出てしまうんだよ。だから、医術の学びは、魔術の学びにも非常に有益であると言える」


 つらつらと学問の講義のように話し始めたルークに、抗議する気も失せる。私は、ルークのなすがまま、馬に揺られて話を聞いていた。


「僕は国王直轄の魔術の最高機関、魔術院のトップなわけだけど、同時に、王都にある学府の最高責任者でもある。学府ではあらゆる学問を扱っているけど、中でも僕が重視しているのは、実際の経験というものでね。どんなに立派な学問でも、机上きじょう空論くうろんでは意味が無い。実際に触って、実行して、その上で得られる知識こそが最も尊いんだ。だから僕は学府でも、多数の動植物を飼育、栽培して、飼育日誌や観察データをつけるよう方針を徹底しているし、新しく発見した説については、何度も実験を繰り返してその確かさを証明するよう通達しているんだ。と言っても、僕が直接学生に指導することはないから、指導者にそう命じているわけだけどね。うん、話が逸れたな。つまり何が言いたいかと言うと、僕は、生体の観察については、エキスパートだって言うわけ」


 胸を張って言うルークに、私はため息をついた。既に彼は私のマントをすっかりはぎ取り、馬上から庭の枯れた噴水にぽいっと着せ掛けてしまっている。


「そう。それは素晴らしい考えだわ。でも私、王都の学府で飼育されている動物じゃないけれど」


「当たり前じゃないか! きみは僕の、たった一人の愛する妻だからね! それはもう、どこもかしこも、丁重に真剣に、観察させてもらったよ」


 そう言って私の腰に腕を回すルークの瞳が、なんだか怪しい色に曇っている。私はそっと腰を引いた。


「……ねえ。何を企んでいるの? なんだか目つきが怪しいわ」


「ふふ、何だと思う?」


「……聞くのはやめておくわ。私には、ちょっと理解できない欲望かもしれないから」


「いつもながら、きみは賢明だね。まあ、それはいいとして。実は観察の結果……僕には、少し思い当たったことがある。きみのその姿についてね」


「えっ?!」


 私は心底驚いてその顔を見上げた。ルークは、人差し指を唇に当てて微笑んだ。


「でも、まだ内緒だ。僕は、確証のないことを口にするのは好きじゃない。このことについては、あらゆる可能性を視野に入れて、もう少し研究してみたい。その少しが何日なのか何年なのかは、保証できないけどね。でもとにかく、僕からきみに言えることは」


 そして彼は、私の額にキスをした。


「僕の前では、その姿を恐れる必要はないってこと。僕はきみに、容姿のことなど気にせずに、幸せに過ごしてもらいたいんだ。きみはきっと、これまでの人生でずっと……そういう自由を奪われていただろうから」


 私は、何と答えていいか分からず、じっとしていた。ルークが後ろから私を抱きしめて「分かった?」と囁く。私は頷き、その胸に頭を預けた、短い角が彼の体を傷つけないよう、慎重に。


「ええ……ありがとう。私にそんなことを言ってくれたのは、あなたが人生で初めてよ、ルーク」


「ああ、それから。これも言っておかねばならないね。……きみと僕は、似ているってこと」


「似ている? 私とあなたが?! ど、どういう意味かしら?」


「さあね。ほら、着いたよ、クレア。石を交換しないと」

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