第20話 幻惑の結界

 楽しそうな笑い声に、目が覚める。既に陽は上り、寝室には朝の光が溢れていた。窓が少し開いていて、笑い声は階下から響いて来ている。


 私は、なんだか気怠けだるい、それでいて幸せな気分で、起き上がった。昨夜は確か、ルークとバルコニーでお茶を飲んでいた気がする。でも、その辺りからの記憶がどうも曖昧で、思い出せない。


「ニコ! 僕まで水浸しになったじゃないか!」


「だって仕方ないよ、ご主人様。フロガーが逃げ回るから」


「いいじゃねえかよ。今日はいい天気なんだから、ちっとくらい濡れたってすぐに乾くさ」


「そういう問題じゃないだろ。出かけるのに、着替えなきゃいけなくなったじゃないか」


 三人の楽しそうな声につられて、私はブランケットを体に巻き付け、そっと窓から顔を覗かせる。バルコニーの手すり越しに、頭から水を滴らせたルークが見えた。その無邪気に笑っているさまは、これまで噂に聞いていた得体の知れない魔術師とはとても思えない。


「なんだか、不思議な人ね……」


 私はそっと笑って、バスルームに入り身支度を整える。が、いつもと同じ露出の高い服で鏡の前に立った私は、ため息をついた。


「どうして私はこうなのかしら。夜の私のままだったら、ルークの前に立っても恥ずかしくないのにね」


 私はもう一つ悲しいため息をついて、いつもと同じ分厚いマントを羽織る。階段を下りると、ニコが裏口からトコトコと入って来た。


「あっ、おはよう、クレア! あれ、どうしたの? なんでマントなんて着ているの?」


「その……少し気が向いたからよ。気にしないで」


「ふうん、そうなんだ? あ、そうだ、クレアの分の朝ご飯、台所に取ってあるよ。ご主人様特製の、卵のサンドウィッチ。いつも通りあんまり美味しくないけど、お腹いっぱいになるから食べなよ!」


「ありがと。頂くわ」


 私は、ニコの悪気のない話しぶりに、笑って頷いた。キッチンに行くと、蓋つきの籠の中に、ぐちゃぐちゃの卵がはみ出た巨大なサンドウィッチが入っている。


「これで一人分なの?! 確かにこれは、お腹いっぱいになりそうね!」


 私は、サンドウィッチの籠と、お茶が半分ほど残っていたティーポットを持って、ダイニングに向かう。私が、その味のないスクランブルエッグ入りサンドウィッチをお茶で流し込みながら必死に食べていると、裏口からルークが姿を現わした。


「クレア! おはよう、気分はどう? あれっ? なんでマントなんて……あ、それ、どうかな? 僕特製の卵サンド! 美味しい?」


 ルークは、やけに上機嫌に問いかけて来る。私は、大きなサンドウィッチの最後の一口をどうにか飲み込みながら答えた。


「おはよう、ルーク。え、ええ……そうね。その……美味しかったわ。ありがとう」


「だろ? 僕の自信作なんだ。ほら見ろ、ニコ。クレアは美味しいってさ」


 ニコはぶるん、と鼻を鳴らし、「クレアは優しすぎるよ」と呆れたように呟いて、裏口から出て行ってしまった。ルークは、そんなニコには目もくれず、異様に晴れやかな笑顔で私に囁いた。


「もっとゆっくり寝ていてくれて良かったのに。昨夜、少し無理させちゃったかな、って心配していたんだ。体はどう? どこも痛くない?」


「体? いいえ、別になんともないわ。それより、昨夜のことをあまり覚えていなくて。私、あなたとお茶を飲んでいたわよね? それから、どうなったの?」


 私の言葉に、ルークは目を丸くした。


「覚えてない、って……本当に?! あ、あんな夢のような夜を共に過ごしたと言うのに、きみは、これっぽっちも、なんにも覚えてないって言うのか?!」


「ゆ、夢のような夜? あの、ごめんなさい、私、何も……」


 ルークは暫く沈黙した後、「はあー」と大きなため息をついて右手で頭を抱えた。


「ルーク?」


「……まあでも、クレアにとっては、その方が良かったのかな。まあ、これもあのお茶の功罪ということか」


「何の話?」


 ブツブツ呟いているルークに聞くと、彼は、照れ臭そうに頭を掻いた。


「なんでもないよ、こっちの話。とにかく、昨夜は僕にとっては最高に幸せな夜だったってことさ。いつもは物静かで控えめなきみが、まさかあんな……いや、まあ、それはいいとして!」


 彼は、赤くなった顔をごまかすように、姿勢を正して言った。


「今日はさ、結界の見回りに行く予定なんだけど。クレアも一緒に来る?」


「結界?」


「そう。僕はこの森一帯に、強い幻惑の魔法をかけている。それが結界だ。そのおかげで、部外者は誰も、僕の屋敷の影すら見ることが出来ない。誰かが森に入ったとしても、ただ木の影がずっと続くように見えるだけだし、知らぬ間に結界の外をうろつき回って森を抜けてしまうのがオチだ」


「そんなことが出来るの?!」


「ああ。僕くらいの魔力があればね」


「すごいわ! ……あれ? でも、あの結婚式の夜は、私達は教会から迷わずあなたの家に来れたわよね?」


「そりゃそうだよ、術者である僕が一緒だったんだから! あの教会は、森の入り口近くに立っていて、ちょうどあれが東の結界の境なんだ。あの建物よりこちら側に来た人間はもれなく、道に迷ってあの教会に戻ってしまう。でもあの夜、きみは教会からずっと僕と一緒だっただろ? 術をかけた僕は当然、その影響を受けない。それで、同行しているきみも難なく結界をすり抜けて僕の屋敷に辿り着けた、というわけだ」


「そうだったのね……私、何も気が付かなかったわ」


「きみは特別。言っただろ、僕の屋敷に招待した妻はきみが初めてだってさ」


 そして彼は、大げさにため息をついて肩をすくめる。


「僕って、こう見えて意外と敵が多くてね。だから、屋敷の場所も、誰にも知られるわけにはいかないんだ。僕の命を狙っている奴らに、そう簡単に居場所を明かすわけにはいかないだろ?」


「命を……」


「あ、心配しなくてもいいよ。僕の結界を破れる奴は、そうはいないからね。でも、そんな強い結界でも、時と共に魔力が弱まって来るわけで」


 と言って、彼はキャビネットの上の黒い箱から大きな丸い珠を取り出した。丸い珠は緑色の柔らかな光を放っている。


「たまに、魔力を増幅するために、この結界石を取り換えなきゃならない。この石には、僕が数か月かけて、強い魔力を注ぎ込んでいるからね。これを新しくすることで、結界の力が弱まるのを防いでいるんだ」


「私は、魔術のことは全然分からないけれど、なんだかすごいのね」


 話の途中でフロガーがやって来た。彼は私に「おうクレア、おはようさん」と言って椅子に飛び乗った。


「ご主人様。そろそろ行くか?」


「ああ、そうだな。着替えはいいや。今日は寒くもないし、お前の言った通り、もうこの服も乾きそうだ。さっさと出かけよう」


「フロガーも一緒に行くの?」


 私が不思議に思って聞くと、ルークは頷いた。


「ああ。フロガーには、湖の底に沈めてある結界石を取り換えてもらう役目があるからね。結界石は、屋敷から見て東西南北全ての方角に一つずつ配置してある。だけど北には、きみも知っての通り、あの大きな湖があるだろう? 湖の底には、僕では辿り着けないからね」


 フロガーは、胸をらせてあごを突き出した。


「このフロガー様じゃなきゃ出来ない仕事よ。俺をそこら辺のガマガエルと一緒にしてもらったら困るぜ」


「ええ、本当ね! すごいわ、フロガー」


「ちなみに、一つはニコにもお願いしているんだよ。僕一人で他の三方向に向かうと、日が暮れちゃうからね。ニコは森の西の端。僕は東と南だ」


「ニコも? 皆で協力しているのね。ねえ、私も一緒に行ってもいい?」


「もちろん。クレアは僕と一緒ね。二人でお散歩がてら出かけよう」

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