第17話 僕の名前は
私の
夫は、地面にひどく打ち付けたらしい左肩を右手で押さえながら、はあはあと苦しそうな呼吸をしている。そして、突然現れた、所属不明な異形の者……つまりこの私……を、眉を寄せて見上げている。私を見つめるその険しい表情に胸が痛んだけれど、大丈夫、この異形が私だとは、思ってもいないはずだ。私は、夫から虎へと意識を移し、その動きに全神経を集中する。
虎は、大きな口からよだれを撒き散らしながら、私に襲い掛かって来る。魔力を帯びて紫に光る瞳は、正気を失っている証拠だ。私は、その牙と、その爪の動きを正確に把握して、その攻撃を間一髪でかわしていく。このまま上手く誘導していけば、虎は私を追って、夫から離れてくれるはず……だが、そう期待した私は、甘かった。虎は、先程の交戦場所からある程度の距離が離れたところで、ぐるる、と喉を鳴らして、その動きをピタリと止めた。私は振り返り、木の幹に爪を食い込ませてぶら下がりながら、その動きを注意深く観察する。虎の注意が、私から逸れた。そして私は目にする、後ろで、剣を拾って馬に乗ろうとしていた夫に、虎がその身を翻して襲い掛かろうとするのを。突然頭上から降って来た虎に、夫の目が見開かれた。私は思わず、声を限りに叫んでいた。
「やめてー!!」
そして、夫に飛び掛かろうとしていた虎の背に、力いっぱい襲い掛かる。私の鉤爪が虎の背を、頬を切り裂き、私の手から鮮血が
辺りは急に、しん、と静まった。下草の
「……クレア?」
心臓が、痛い。私は、身を
「あっ……待って……待ってくれ!!」
私はその声も聞かず、頭の中は真っ白なまま、木々の間を飛んで行く。見られてしまった……気づかれてしまった? もうここには、いられない。私は震えながら、どうしていいのかも分からないまま、魔術師の屋敷目指して一目散に逃げ帰っていた。
屋敷に着くと、玄関前の庭で遊んでいたニコとフロガーが、驚いた顔で出迎えてくれた。
「クレア! どうしたの、何があったの?!」
「おい、手ぇ、血だらけじゃねえか! 怪我したのか? おい!」
私は彼らの呼びかけに何も答えず、二階の寝室に駆け上がった。ドアを閉めて鍵をかけ、バスルームで急いで手を洗う。タイルの洗面台についていた鏡に、ひどく
その直後だった。馬の足音が、ひどく速く聞こえて来る。私は怯えた、彼が帰って来たのだ! 階下から、どかどかと足音が響き、彼の声が屋敷内に響く。
「クレアは?!」
「あっ、ご主人様! 今帰って来たんだけど、寝室にこもっちゃって、開けてくれないんだ!」
「どいてくれ、ニコ、フロガ―!」
ボン!という音と共に、寝室のドアの鍵が炎で焼き払われた。「お前たちは下に行っていろ!」という魔術師の声と共に、その本人が寝室に入って来る。もう、終わりだ。全て、おしまい。私の秘密は、暴かれてしまった。彼の静かな声がした。
「……クレア。出て来てくれないか」
私は、観念して、バスルームから寝室へと出て行く。そこには、眉を寄せて肩で息をしている夫が立っていた。私は、視線を落としたまま、この姿を出来るだけ隠したくて、右腕で、伸ばした左腕の肘を押さえて立つ。そんなことをしたって、この醜い体を覆い隠せるはずもないのに。暫くの沈黙の後、夫がゆっくりと言った。
「クレア。きみだったんだね」
私は暫くじっとしていたが、やがて、視線を上げずに頷く。夫が、軽く息を吐いた。そして、とても真剣な口調で呟いた。
「……僕は、御礼を言わなくちゃいけないな。きみは、僕の命の恩人だ」
私は、顔を上げられない。どうしていいか、分からない。暫くの沈黙の後、夫の声が……あの夜と同じ、軽やかな声が、聞こえてきた。
「さあ、真面目な話はこれでおしまいだ。顔を上げてよ、クレア。それじゃあ、きみの可愛い顔が見えないじゃないか」
私は、何を言われたのか分からずに、思わず視線を上げてしまう。するとそこには、彼の笑顔があった、共に過ごした夜と同じ、あの優しい笑顔が。彼は言った、いつもと全く同じ口調で、優しい笑顔で。
「ねえ、ケーキ、美味しかった? 僕、テオに言って、町のお菓子屋さんで一番いいやつ送る様に言っておいたんだ。カードだって、僕が出かける前の晩に書いておいたんだよ。僕って、気が利くでしょ」
私はどう反応していいのか、分からない。私は、にこにこしている彼に、声を絞り出した。
「……あなたは……何も言わないの、何も思わないの、私のこの姿に! 私は、こんな異形の者なのよ? 私は……私は、醜い、異形の……」
と言ったところで、彼は微笑み、人差し指を前に出して振った。言葉に詰まったまま、私は彼を見つめる。彼は平然と言った。
「外見というのは、ある存在を形作っている一つの側面に過ぎない。一つの存在にはいくつもの側面があるのだから、どれか一つの面が他と違うからと言って、その存在の本質に影響を及ぼしたりはしない。僕はそう、信じている」
私が眉を寄せてその言葉を聞いていると、彼はゆっくりとこちらに歩いて来た。私はびくりと体を揺らすが、彼は構わず手を伸ばし、私の肩先で揺れる、細い鎖のような銀色の髪に触れた。彼の美しい灰色の瞳が、私を優しく見つめていた。
「つまりさ。どんな姿だろうと、きみは僕の可愛いクレアだってこと! 助けてくれて本当にありがとう、クレア。きみがいなければ、今頃僕はとっくにあの世行きだったね」
そう言って、私の鱗だらけの醜い体を抱きしめてくれる。私が何も言えずに突っ立っていると、彼は私から少し身を離して言った。
「ねえ、キスしてもいい? 僕、あの朝、きみにキスしたくてたまらなかったのに、今までずっと我慢してたんだから」
そして、冷たい鉱石のような私の唇に、口づけを落としてくれた。温かなぬくもりが、私の全身を駆け抜ける。その瞬間、私の中で、何かが音を立てて崩れ去った。これまで長い年月、たった一人で過ごしてきた私の孤独が、恐怖が……心の奥底に、溶けない氷の如くわだかまっていた全ての苦しみが、温かな涙となって、私の瞳から零れ落ちた。
「私……」
私は、目を見開いたまま、その場で突っ立っていた。私から唇を離した夫が、私をじっと見つめ、微笑んで言った。
「……僕、今ハンカチ持ってないんだ。これでいいかな」
そして彼は、唇を私の頬に寄せ、流れ落ちる涙をそっと舐めてくれる。私の瞳からは、とめどなく涙が溢れ出していた。私の喉から、微かな囁きが漏れた。
「あなた……」
「……ルーク」
「……え……?」
「ルーク。僕の名前だ。ルーク・ミラー・デイヴィス。これからは、ルークって呼んでくれる? 僕、きみの声で、そう呼ばれたい」
そして彼は、もう一度、私をぎゅっと抱きしめてくれる。私は、その温かな胸に抱かれながら泣いた。彼が、私の背を撫でてくれる。私は、ひっくひっくと嗚咽しながら、囁いた。
「ありがとう……ルーク」
「こちらこそ。僕に出会ってくれてありがとう、クレア。僕、きみに会えて幸せだよ」
ああ。私は、今この瞬間のために、長く苦しい日々を生きて来たのだ。
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