第16話 魔術師と刺客

 翌朝、私はいつも通りニコとフロガーと朝食を済ませ、身支度をする。私の昼間の服は、いつも、胸と腰を覆うだけの特別な服だ。私が夜に着ている服……つまり、人間の女性用ドレスを昼間も身に着けたいのだが、生憎、この鱗の皮膚のせいで、かぎ裂きのように破れてしまって、上手く着こなせない。そもそも、この長い尻尾も、上下が繋がっているドレスでは、持て余してしまう。だから結婚式の夜、無理にウェディングドレスを着た時は、とても大変だった。


 そういうわけで、私はずっと以前から、実家お抱えの仕立て屋に、下着に似た形式の、上下別の装束を作らせていた。年に数度訪れる別邸で泳ぎたいから、と嘘をついて。


 私はいつも通り、その身軽な服に着替えながら、今日からどうやって過ごして行こうかと思案していた。その時だった。何か恐ろしい感覚が、私の意識を奪う。私はハッと顔を上げ、窓を開け放ってバルコニーに出た。そして、その感覚に全神経を集中する。


「何かしら……ものすごく、嫌な感じがする」


 私は目を半分閉じて、その感覚の出所を探る。ここから少し離れた場所……方角は王都の方……から、強い春風に乗って、何かの匂いがしてくる。鉄っぽい、特徴的な匂い。


「血生臭い……」


 その瞬間、私は、バルコニーの手すりを蹴って二階から飛び出していた。宙を舞い、森の木を、次々に渡っていく。私の鉤爪かぎづめは木の幹に簡単に食い込むし、このしなやかな脚があれば、木から木へ飛び移ることなど容易だ。空を長時間飛ぶことは出来ないけれど、私のこの身体は、ほとんど飛行しているのと同じくらいの速度で移動することが出来る。


「あの人が、どこかで怪我をしている……誰か、何か、沢山の悪意に囲まれて」


 私は無我夢中で、私の大切な人の気配を辿る。この容姿のことも、誰かに見られる恐怖も、何もかもが頭から消え去っていた。


 私がその場に到着した時、辺りの木々は炎に包まれていた。森の下草に炎が広がり、広範囲に黒煙が上がっている。その中央にいたのが、例の仮面姿の私の夫だった。


 彼の周りを、沢山の黒い影が取り囲んでいる。人の形をしてはいるけれど、あれは恐らく、幻影だ。魔術の図鑑で読んだことがある、魔力の強い高位の魔術師は、自らの分身をいくつも生み出せると。


 夫は、仮面姿のまま、優雅な仕草で手のひらを幻影に向けた。その手からボッと強い炎が放たれて、夫に飛びかかろうとしていた黒い影を直撃する。影は跡形もなく消え去った。夫は馬をひらりと下りると、地面に立って胸の前で素早く何かの印を結んだ。そして暫くの詠唱のあと。


 彼の周りの地面から、光が上がる。彼の周囲に円を描くように垂直に上がったその光は、まるで光の柱だ。地面から高く上がったその光は、辺りの影を目掛けて四方八方に進む。彼を取り巻いていた術師の幻影たちは、その強烈な光に一網打尽に切り裂かれ、全て消滅した。高い木の幹にしがみついてそれを見ていた私は、ほっと息を吐く。『王宮の最高位魔術師』というのは、どうやら嘘ではないらしい。


 だが、彼が再び馬にまたがって移動しようとした時。彼の身に着けた紋章入りのマントを、大きな黒い影がさっと切り裂いた。その気配に、私の背筋がぞくりと凍り付く。


 夫は驚いたように背後を振り返った。辺りは炎に包まれたまま、沈黙している。夫は、炎を慎重に避けてじりじり移動しつつ、辺りの様子を窺っていた。私もまた、木の上から、全神経を集中して相手の気配を探り出そうとする。この気配は、さっきの幻影などとは比べ物にならない。なんだか、とても恐ろしい、強大な魔法の力。それに、何か……とてつもなく大きな、けもの、の匂い。


「うわっ!!」


 夫の悲鳴に、私は急いで下に視線を向ける。彼の、大きな羽飾りのついた仮面をくわえてその場に立っているのは……。夫が言った。


「虎か……。なるほどね。やはり、サイラスだな。ったく、デズの奴! だから、余計なことするな、って言ったのに」


 夫の目の前に沈黙して立っている大きな黒い虎は、くわえていた仮面をぽとりと落とし、その太い前足で粉々に踏み砕いた。夫の顔には、幸い傷はついていない。先ほどから私が感じている血の匂いは、彼の手の甲から流れているものだ。手袋が血に濡れている。


 虎の目が、爛々らんらんと紫色に光っている。あれは普通の虎じゃない。大きな魔力を注がれた、危険な存在だ。夫は一瞬考えたのち、再び、胸の前で印を結んで、今度は両手のひらをその黒い虎に向けた。先ほどよりも強大な炎が、その虎目掛けて放たれる。が、それは、虎の眼前で上下左右に弾かれてしまい、虎に何のダメージも与えることが出来ない。夫はため息をついて言った。


「やはりね。サイラスなら、魔法を無効化できて当然だな。さて、どうするか……」


 夫は、長いマントを脱ぎ捨てて、腰にいていた長剣を抜いた。


「肉弾戦は得意じゃないけど、仕方ない。来いよ、サイラスの犬」


 虎が大きな口を開けて飛びかかった。速い! 虎の脚力はすさまじく、夫は辛うじて剣で応戦するが、その腕力に、馬から落とされてしまった。私は喉の奥で悲鳴を上げる。夫はどうにか立ち上がったが、夫を弾き飛ばして木の根元で振り返った虎は、間髪入れずに、夫に飛びかかった。その勢いと力に、夫の長剣は空を切って吹っ飛び、彼は無残にも再び草地になぎ倒された。傍に着地した虎が、一声恐ろしい咆哮ほうこうを上げ、再び牙をむいて標的に突進する。態勢を立て直そうとしてふらついた夫が、目をぎゅっとつむるのが見えた。私の中で、何かが弾けた。私は、しがみついていた幹を離し、虎目掛けて全力で襲い掛かっていた。


「なっ……」


 夫の驚いた声が聞こえた。だが私には、もう何も考えられなかった。私は、この敏捷で強靭な肉体を翻し、黒い虎の背に飛びかかった。

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