第15話 夜のざわめき
その夜、私は二階の大きな寝室で、一人本を読んでいた。実家から持ってきた婚礼荷物の中に入っていたものだ。私の荷物は衣服と本だけで、領主の令嬢の嫁入りとしては、極めて少ない。婚前に、魔術師から我が家に、そうするよう打診があったと聞いている。恐らくあの人のことだ、私とはすぐ離縁するつもりで、そんな申し出をしていたに違いない。私は、明日帰って来る夫のことを思い出して、ふう、とため息をついた。
「明日から、どうしよう。あの人にはとても会いたいけれど……昼間は一体どうしたら」
夫の帰宅する日が近づくにつれ、私の頭の中はそのことで一杯になっていた。
ニコもフロガーも、私の姿が昼夜で変貌することを、既に知っている。だが彼らは、それを特別なこととは思っていないようだった。彼らの
だが、夫である魔術師は別だ。彼は、人間なのだから。私の気分は沈んだ。嫌われたくない、という思いに、胸が苦しくなってくる。
「……明日から、毎日一緒に過ごすのだもの。どうやったら、バレずに……ううん、いつまでも、隠しておくわけにはいかないわよね……」
名案は、何も無い。私は再び、大きなため息をついた。開いていた窓から、春の宵の風が吹き込んでくる。私は立って窓を閉めに行く、と、バルコニーから、玄関前をウロウロと
「ニコ……? あんなところで何をしているのかしら」
もう夜半近い。子供のニコが起きているには遅い時間だ。私はガウンを羽織ると、ひたひたと暗い階段を下りて行った。
外に出ると、暖かな春風に森の木々がざわめいていた。私は、美しい首をうなだれて地面をくんくん嗅いでいるニコの傍に歩いて行った。
「ニコ。どうしたの、眠れないの?」
「クレア……」
ニコは、顔を上げて私を見つめた。その真っ青な瞳が、不安そうに揺れている。
「ボク、たまにすごく嫌な気分になることがあるんだ。こうして風の音がすると」
「そうね。今晩は、風が強いわ。風の音で、怖くなっちゃったのかしら?」
ニコは、ぷす、と鼻息を一つ吐き、首を振って言った。
「こんな夜だったんだよ、ボクが、お母さんとはぐれちゃったの」
ニコは、一生懸命言葉を探しながら話している。私は黙って聞いていた。
「ボク、夜のお散歩が好きなんだ。いい香りの花が咲いているから。ご主人様が言っていたけど、夜に咲く花は、魔力を持つものも多いんだって。ボク達一角獣は、魔法の力が大好きだから、そういう香りがするとワクワクする」
「そうなの……なんだか、分かる気がするわ」
「それでボク、いつもみたいに、お散歩してた。ちょうど、こんな、ちょっと暖かくて風の強い晩に。月が出ていなくて暗かった。歩いていたら、一本、とても沢山、綺麗な白い花の咲いている木を見つけて……近づいたら、いきなり人間が何人も、襲い掛かって来た」
ニコは、ぶるん、と体を揺らして、私に寄り沿ってきた。私は、その首にそっと腕を回し、たてがみを撫でてやる。
「ボク、何が起こったのか、分からなかった。それで、無我夢中で逃げたんだけど、人間達が、僕のツノに縄をかけたんだ。僕、随分引っぱられて……ツノが、折れちゃった。一角獣の子供のツノは、柔らかいから折れやすいんだよ。それでボク、驚いて、怖くて……でも気が付いたら、ボクに襲い掛かってた人間は誰もいなくなってて、ご主人様が、僕の前に立ってた。ご主人様が、みつりょうしゃ、っていう人達を、追い払ってくれたんだ」
「そうだったのね……」
ニコは、深いため息をついて私に寄り沿ってきた。私は何度も、その滑らかな首を優しく撫でる。
「ボク、ツノのことはいいんだ。どうせ生え代わりの時期だったし、また大人のツノが生えて来るから。でも、その騒ぎで、ボクのいた群れは、森のずっと奥の方へ逃げちゃった。ボク、何度もお母さんに呼びかけたけど、もう皆遠くにいっちゃったみたいで、返事が無かった。それで、ご主人様が、ボクを連れて帰ってきてくれたんだ。いつかまた、きっと会えるから、一緒にニコのお母さんを探そう、って」
ニコは、くすん、と鼻を鳴らして言った。
「ねえ、クレア。ボク、またお母さんに会えるかなあ。お母さん、ボクのこと、忘れてないかな」
私は首を強く振った。
「いいえ、絶対に、そんなことはないわ。きっとニコのお母さんは、今でもずっと、あなたのことを探しているはずよ。私も手伝うわ。だから……信じて探しましょう」
「うん。ありがとう、クレア」
そしてニコは、いつも彼が眠っている、噴水の傍の草地に横たわった。屋敷の傍にある小さな石造りの噴水で、水は枯れていて出ておらず、代わりにクローバーがはびこっている。
「ねえ、クレア。もう少しだけ、頭を撫でてもらっていてもいい?」
「いいわよ。あなたが眠るまで、ここにいるわ」
ニコは、噴水の縁に背をもたれた私の膝に、頭を預けて来る。私はその頭を、首筋を、優しく撫でてやった。ニコは嬉しそうに鼻息をはいた。
「ボク、クレアにこうしてもらうの、好きだな。お母さんのこと、ちょっと思い出すから」
「ニコ……」
ニコの頭は、とても温かかった。こんな異形の私でも、ニコは慕ってくれるのか。私は、なぜか溢れそうになった涙をこらえて、囁いた。
「早く会えるといいわね、ニコ。きっとお母さんも、離れ離れになってからずうっと、あなたのこと考えていると思うわよ」
「そうかなあ。……そうだといいなあ……」
ニコの瞳が、とろんとして来た。私は、私が唯一知っている、亡き母が歌ってくれた子守唄を歌いながら、ニコの頭を撫でている。この子が、早く、お母さんに会えるようにと願いながら。
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