第12話 新しい世界

「これから、どうしようかしら……」


 私は、一人には慣れている。メアリは私の世話をしてくれていたけれど、当然ながら、四六時中、一緒にいたわけじゃない。メアリだって、本来は、私の父である領主の使用人であり、他の使用人と同じく領地の煩雑はんざつな仕事のサポートもしていた。それに彼女は、幾人かいる自身の子供たちの母、でもあったのだから。私は、父もメアリもいないかなりの時間を、たった一人で過ごしてきた。


「だから、お父様は、あの庭を私にくれたのよね」


 私室から毎日見ていた、大きな庭。あの庭には、私の私室からしか出入りすることが出来ない。私は、お天気の良い日はいつも庭に出て、そこに生きる動植物たちと会話をしていた。と言っても、人間の使う言葉を交わしていたわけじゃない。昼間の私は、動物であれ植物であれ、彼らの気持ちを、感じ取ることが出来る。言語は必要ないのだ。


「そうだわ! あの人は、この屋敷には裏庭があると言っていた。カモミールが増えすぎた、と言っていたっけ。少し、見に行ってみようかな。大丈夫よね。ここには、使用人は誰もいないと言っていたもの」


 辺りに、人間の気配はない。私は、すっかり安心した気持ちで屋敷の裏口から外に出た。凪いだ湖が、すぐ目の前に見える。昨日の雨のあとで、空は水色に澄み渡っていた。朝の透明な空気を胸いっぱいに吸い込むと、森の木々のいい匂いがする。


 私は、辺りの風景に目を向ける。何もかもが、新しかった。私は今までの人生のほとんどを、小さな世界で生きて来た。私は今、新しい世界に立っている。こんな解放感は、生まれて初めてだった。


「なんて綺麗な朝なのかしら……」


 私はその場で暫く、朝の音に耳を澄ました。心地よく流れ込んでくる、色々な音。空を渡る風の音、湖の水音、楽しそうにさえずる鳥の声。私はいつの間にか、分厚いマントをその場に脱ぎ捨てていた。全身の鱗が、朝陽を受けて煌めいた。


「……こんな風に、陽の光の中でマントを脱いだのは、いつ以来かしらね」


 私は、自宅の庭でも、人目を恐れて、マントを脱いだことはなかった。父はそんな私を憐れんで、年に幾度か、郊外の別邸に連れて行ってくれていた。けれどそこでも、やはり使用人や出入りの商売人の目と言うのはあるもので、こんなに自由にしていられることはなかった。「領主の娘」という肩書は、存外、窮屈なものだったのだ。


「『王宮の最高位魔術師殿』の住まいが、こんな辺境の森の奥で本当に良かったわ。私は、幸せ者ね」


 私は、「誰も姿を見たことも、声を聞いたことも無い」魔術師殿の素顔を思い出して、思わず笑みがこぼれる。辺境に住んでいる、得体の知れない魔術師殿が、まさかあんな人だったなんてね。私は、朝陽の中、とても幸せな気分で裏庭に向かう、歩くのには邪魔な長い尻尾を、腰に上手に巻き付けて。


「ここが裏庭ね。……本当だわ! カモミールだらけ!」


 私は驚いて叫ぶ。屋敷と湖の間に位置する裏庭は、辺り一面カモミールで埋め尽くされていた。白い小花が風に可愛らしく揺れ、青りんごのようないい香りを辺りに撒き散らしている。


「あの人……さぞ驚いたでしょうね」


 私は、旅から帰って来た彼が、この有様を見て騒いでいる様子を想像して笑ってしまう。こんな風に笑ったのは、久しぶりだ。


「……畑もあったと言っていたけれど。多分、ここが畑だったのね」


 私は、カモミールのはびこる下の地面に、辛うじて畑のうねらしきものが残っているのを発見して呟く。


「どうしよう。少し、片付けてもいいかしら?」


 私は辺りをキョロキョロ見たが、当然、誰もいない。家主に聞こうにも、既に彼は旅立ったあとだ。私は、思い切って、しゃがみこんでカモミールをいくつか抜いてみる。私の鉤爪かぎづめは、こんな時とても便利だ。お花の世話をするのに、シャベルなんて必要ない。


「これは、あとでお茶にしましょう。……うーん、そうね。もう少し大胆に片付けてしまってもいいかしら。あの人、植物の世話は苦手と言っていたし……私が少しお庭をいじっても、きっと怒らないわよね?」


 そう言って、私がはびこるカモミールと格闘していた時。表の方から、石畳を踏む規則正しい音が聞こえてきた。私は、尖った耳を注意深く動かす。


「何かしら……何かの動物みたいだけれど」


 足音からすると、四足歩行の動物に違いない。足音は、玄関前の石畳の道を逸れ、屋敷をぐるりと回ってこちらに向かって来る。私は、さっと立ち上がった。注意深く気配を探るが、人間の気配はない。どうやら、動物に乗っている人間はいなさそうだ。足音は、馬よりは軽く、犬よりは重い。


「聞き覚えのない足音だわ。何の動物かしら」


 私がそう呟いた時。屋敷の横から、足音の主が現れた。

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