第11話 私はひとり

 出かける、と私に告げた夫の声は、すっかりシャープになっている。昨夜から私を可愛がってくれていたような甘さは、微塵も感じられない。私はその変わりように内心驚きつつも、慌てて答える。


「いいえ、大丈夫よ」


「きみは、この家でゆっくりしていてくれる? と言っても、うちの使用人は、昨夜きみも会ったテオだけだ。覚えている? 教会からここまで連れて来てくれた男」


「ええ、覚えているわ」


「テオは、僕の唯一の、使用人兼、助手兼、御者だ。彼には御者として僕に同行してもらうから、家に置いておく使用人は誰もいなくなる。、という意味だけど」


 使用人がいなければ、どんな使用人がいるのだ。そう思ったけれど、とにかく、誰かにこの姿を見られるのでなければ、どんなものが来たって、別に私は構わない。夫の心拍も落ち着いていることから、私に危害を加えるものがいるわけでもないだろう。私はひとまず、答えた。


「平気よ。私は今まで、ほとんど一人だったから。自分のことは、自分でするわ」


 私はメアリから、大抵の家事は教えてもらっている。だって、メアリが長くお休みをしたりする時には、なんでも自分でやらねばならなかったから。夫がくすりと笑った。


「僕、きみのそういうところも、好きだな。領主のご令嬢とは思えないね。やっぱりちょっと、変わってる」


 後ろで、オウムが「大至急!」と再び喚いた。夫は言った。


「メイルバード、離れに行って、テオに馬車の用意させて。僕、支度してすぐ出る」


 バサバサッと羽音がして、鳥が遠のく気配がした。夫はもう、何かの考えで頭がいっぱいらしく、その思考がどこか遠い所を彷徨っているのが分かった。ドア越しに声をかけてくれたが、その声はもう、心ここにあらず、という様子だった。


「じゃあね、クレア。また五日後くらいに会おう」


 そして、そのまま立ち去る気配がした。私は、「え、ええ」と答えながら、思わず声を大きくする。私が大きな声を上げることは、滅多にないのだけれど。


「あ、あのっ……」


 立ち去ろうとしていた足音が止まる。彼が不思議そうにこちらを振り返った様子が、手に取る様に分かった。私は思わず、ドア越しに言葉をかけていた。


「気を付けて、行って来てね。その……す、好きよ」


 言いながら、たまらなく恥ずかしくなってくる。結婚しているのに、いまさら何を恥ずかしがっているのか、と世間の女たちには笑われるだろう。でも私は、男の人に「好き」だなんて言うのは、生まれて初めてなのだ。大体、この人とも昨日初めて会ったばかりで、夫と言う実感だって全くないのだから。


 私が、今度は恥ずかしさから、再びその場から逃げ出したい衝動にかられていると、夫は深いため息とともに言った。


「あのさあ。ちょっと営業妨害だよね、それ。僕、今すっかりお仕事モードだったのに! ……まあいいや。帰ってきたら、今度こそ朝から晩まで、一日中愛し合おうね」


 そして、彼の軽やかな足音は、二階へと去って行った。言葉通り、手早く支度を済ませたらしき彼は、足早に玄関を出て行く。馬の蹄と車輪の音が遠のき、辺りはしん、と静まった。もう、私の鋭い聴覚にも、森の木々の風に揺れる音と、朝の小鳥たちの囀りしか聞こえない。私は、深く息を吐き、ドアに背を預けてズルズルと床に座り込んだ。


「行っちゃった……」


 ポツリと呟く。再び、ニワトリが一声鳴いた。私は、これから暫く、この家で一人なのだ。

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