新しい生活

第9話 朝陽は無情

 瞼の裏が、明るい。私は慌てて身を起こした。窓の外に目を向けると、東の空が、明るくなりかけている。傍らでは、昨夜結婚した夫が、健やかな寝息をたてていた。私は急いでベッドから抜け出し、その辺に散らばっていた服をかき集めて、そっと部屋を出た。


 屋敷内の構造が、よく分からない。とにかく、夜が明ける前に、隠れる場所を確保しなければ。外に出て、森に身を隠すべきだろうか。けれど、共に眠っていたはずの新妻が急に屋敷からいなくなっていたら、あの魔術師はどうするだろう? もしかしたら、私の知らない何らかの魔術によって、見つけられてしまうかもしれない。そうなったら最悪だ。


 私は、窓の外が容赦なく明るくなっていくのに焦り、ひとまず部屋数の多そうな一階へ向かう。足音を吸収してくれる、毛足の長い絨毯が有難い。一階に下りると、人の家で無遠慮だとは思ったけれど、片っ端からドアを開けてみる。ダイニング、リビング、キッチンに食品庫。どこも、あの人が日常的に出入りしそうな部屋ばかりだ。


「どうしよう、どうしよう! もう、朝陽が……」


 私は祈るような思いで、最後のドアをそっと開いた。


「ここは……」


 小さな明り取りの窓が上部に一つだけ設けられた、倉庫だ。ショベルやクワ、何かの種などが雑多に放り出してある。


「ここだわ! ここにひとまず、隠れていれば……」


 その時。小さな窓から差し込んだ暁の光が一筋、私の顔に差した。


「ああ……」


 見る間に、真珠のようだった私の肌が、鈍色にびいろに光る鱗に覆われていく。あれほど滑らかだった私の体は、あっという間に固い鱗の鎧と化してしまった。長く波打っていた銀髪は見る間に縮み、あごの辺りで揺れる硬質な髪に変貌する。おまけに尖った耳の上、こめかみの辺りには、短く硬いツノが伸びていた。


 何も、変わらない。結婚しても、私はまだ、忌まわしきこの姿から逃れられなかったのだ。足元に置いてあったバケツの、ボウフラが一匹湧いている水面に、私の醜い顔が映っている。優しそうだった目元は大きく吊り上がり、あの人が口づけを落としてくれた柔らかな唇も、鈍く光る鉱石のように変わってしまった。夜の私の痕跡を残すものは、そのモスグリーンの瞳の色だけ。今にも泣きそうな、情けない顔。私は、鋭い鉤爪かぎつめの並ぶ指先で、床に落ちたマントをノロノロと拾った。


「……相変わらずひどい姿ね、クレア。もしも、あの人が今の私を見たら……どう思うのかしらね……」


 昨晩、何度も私に「可愛いね」と囁いてくれたあの声が、今度は「この化け物!」と罵倒するのだろうか。私は力なく、この醜い体にマントを巻き付ける。絶対に、この姿を見られるわけにはいかない。どうにかして、今日一日を、乗り切らなければ。


 突然、ニワトリのけたたましい鳴き声がして私は飛び上がる。そっと窓に寄ってみる。どうやら、この裏に鳥小屋があるようだ。そういえば、昨夜、裏庭には畑もあると言っていた。あの魔術師は、この家で自給自足の生活をしているのだろうか。


 私は、尖った耳をピクリと揺らす。階上から音がする。目を閉じて聴覚に集中すると、彼の声が耳に流れ込んできた。


『あれ……クレア? どこ? ……え、なに? なんで?』


 二階の寝室にいる彼が戸惑っている声が聞こえる。だが、彼の心拍の上がった様子まで手に取るように分かるのには驚いてしまった。いくら昼間の私の感覚が鋭敏でも、ここまで読み取れることはなかったのに……。と首を傾げた時、はたと、あることに思い当たって体が熱くなる。そうか、昨晩、あの人と一夜を共に過ごしたせいだ! あの人の体に長時間寄り沿っていたせいで、彼の呼吸音や体温を、私の体は記憶している。そのせいで、これほど鮮明に、その動きが認識できるのだ。


 私は熱くなった顔を手で扇ぎながら、再び聴覚に意識を集中した。


『クレア? ねえ、どこ行ったの? 出て来てよ、クレア!』


 部屋を歩き回る音に、衣擦れの音。彼が服を着て部屋を出る音が聞こえる。私は慌てて倉庫の内鍵をかけ(古びているとはいえ、鍵があって良かった)、念のために、明り取りの窓にもモップを立てかけて中が見えないようにした。彼はどうやら、家じゅうの部屋と言う部屋を探し回っているようだ。彼の動揺が手に取る様に伝わって来る。


『嘘だろ? まさか昨日の結婚式、僕の夢だったとか言わないよな?』 


『今朝も二人でいちゃいちゃしようと思っていたのに! ねえクレアー、出て来てよ、僕、まだ全然足りないよ! もっときみに触れていたいよー』


 彼はあちこちのドアをバタンバタンと開閉しながら、こちらに向かって来ている。この倉庫に辿り着くのも時間の問題だ。私は観念して、じっとドアの内側で息を潜めていた。彼の声が、もう、すぐドアの向こうに聞こえている。


「もうっ、この部屋で最後だからな! っと、あれっ、開かないぞ?! クレア!? クレア、もしかしてここにいるのか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る