第8話 束の間の幸せ

「えっ?」


「きみに触れてみたいなって。キスしても、いい?」


 そして、手を伸ばして、私の髪を……今この時間には、月光に淡く輝いている私の長い銀髪を……優しく撫でた。私の背中が、ぞくりとする。私は焦って身を引いた。


「あのっ! わ、私……」


「駄目?」


「だ、駄目って言うか……」


 私は口ごもる。顔が熱い。緊張のあまり、心臓が口から飛び出そうだ。大体、私はこれまで、男の人と二人きりで話したことすら無いのに……。動揺を隠せない私を見ていた彼が、「あ」と何か閃いたように顔を輝かせた。


「もしかして、初めて?」


 私が言葉を失ってその顔を見上げると、彼は笑顔で頷いた。


「その顔は、そういうことだね。そっか、うん。大丈夫、心配しなくていいよ。僕、こういうのは上手い方だから、任せて」


「しっ、失礼よ! そ、それに……いえ、あの……そういうことではなくって!」


「じゃあ、どういうこと?」


 心底きょとんとした顔で聞かれると、なんと答えていいのか分からない。私が「うう」と唸ると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「僕って、きみの夫のはずだから、別にいいよね? それに、僕達、さっき結婚式で、誓いのキスしなかったもん。今しようよ」


「えっ? ええ、そういうことなら……その、どうぞ……」


 とは言ったものの、私は、世間の恋人たちが、どういう風にキスをしているのかもよく分からなかった。私は突っ立ったまま、ぎゅっと目を閉じる。ドキドキしていると、空気が微かに揺れ、額にそっと温かい唇が押し当てられた。その体の離れていく気配に、私はパチリと目を開ける。彼は、笑顔で私の顔を見下ろしていた。


「はい、おしまい」


 私は、ほっとしたような肩透かしを食らったような気持ちで、額をそっと撫でる。そうか、これが、恋人たちのキスなのか。でも彼は、腕組みをして暫く考えこみ、真顔で私に言った。


「きみってさ……可愛いね。うん、すごく可愛い。ちょっとこれは、予想外」


「えっ?」


「うーん。やっぱり僕もっと、きみに触れていたいなあ」


 と言いながら、彼は身を翻し、その辺に山積みになっていた書物をバサバサと床に捨てる。すると、その下からベッドが現れた。彼がにっこり笑って言う。


「今晩は、一緒に寝るよね? 僕達、夫婦だもんね」


「ちょ、ちょっと待って! その……こ、ここで?!」


 新婚初夜というのは、もう少しロマンチックなものなのだとばかり思っていた。少なくとも、私が今まで読んだ物語の中では、結婚した新郎新婦は、お花の撒き散らされた素敵なベッドや、お城の豪華なベッドで眠っていた気がする。私はオロオロするが、彼は平然と言った。


「そうだけど? 何か問題でも?」


「ちょっと、というか、すっごく問題よ! その……このベッド……き、綺麗なの?」


「えっ? そうだなあ。綺麗か綺麗じゃないか、と言われたら、綺麗じゃないかもね。だって僕、いつもここで、実験したり本読んだりお菓子食べたりしながら寝てるから」


 あはっ、と頭をかいて笑う魔術師に、私はマントを握りしめたまま焦って訴えた。


「私ちょっと、その、気が進まないわ。……出来たら他の所がいい、というか」


「他の所って?」


「もう少し落ち着いていられる場所よ」


「ここが一番落ち着くんだよね、僕」


「それは、あなたはそうでしょうけど!」


「しょうがないなあ。じゃあ、下の部屋に移動しよっか」


「え? きゃあっ!」


 彼はパッと私を抱き上げ、部屋を出てスタスタ階段を下りて行く。


「お姫様抱っこ。ロマンチックでしょ。新婚初夜だもんね。雰囲気は大事だよね」


「え、ええ……」


 さっき、あんな変なベッドに誘おうとしたくせに。ウキウキした様子の彼に内心呆れる。私を軽々抱き上げているところをみると、華奢な体形に見えたが、それなりに腕力はあるらしい。……と言っても、昼間の私には、到底敵いはしないだろうけれど。


「ほら、着いたよ。ここなら気に入るんじゃないかな」


 部屋の中には、灯りが灯っていない。けれど、上の小部屋と違って、ここは来客用なのか、広くて物がほとんど置かれていない。正面には大きな窓があって、湖が一望できた。暗い部屋から三日月を映す湖が見えて、とても綺麗だ。が。部屋の中央に大きなベッドが置いてあって、急に私は恥ずかしくなってくる。


「はい、どうぞ」


 魔術師は、私をベッドの端にそっと下ろした。そして自分はブーツを脱ぎ捨てて、伸び伸びと横になる。そして、笑顔で自分の隣をぽんぽんと叩いた。


「ほら、おいでよ。僕達、新婚だもんね。愛を育まないと」


「ちょ、ちょっとそれはっ……その、それよりも、一つ、教えて欲しいのだけれど」


 私はとてもその横に寄り沿う勇気など無く、端の方でちょこんと座ったまま問いかける。


「また? 今度はなに?」


 彼は、肘をついて楽しそうにこちらを見つめている。


「その、名前を……あなたのお名前を、聞かせてくれないかしら……」


 彼は身を起こして暫くこちらを見ていたが、やがて優しい声で……さっきまでとは違うトーンの、密やかな声で……囁いた。


「……僕、本当に信頼できる人にしか、名を明かさないことにしてるんだ。名前と言うのは、魔術ではとても大きな意味を持っていて……他者に名前を明かすのは、とても危険なことだから。きみとはまだ、そこまでの信頼関係を築けていないからね。僕のことは……そうだなあ。カモミール、とでも呼んでくれればいいよ」


「か、カモミール?! それって……あの有名な、ハーブのことかしら?」


「そう。僕んち、裏庭に畑があるんだけどさ。僕あんまり、植物の手入れって上手じゃないんだよね。それで、簡単に育つから、って人からもらったカモミールを植えたんだけど。ちょっと仕事で長期間出かけて帰ってきたら、他のは全部枯れちゃってたのに、カモミールだけがわんさか生えてた。それから僕んちの裏庭、カモミールだらけになっちゃったんだよね」


「そ、そう……。でもなんだか、カモミールって、呼びにくいわ。人の名前ではないみたいだし」


「ええー、そうかなあ。じゃあ、きみの好きなように呼んでよ。僕、あんまり呼び名とかこだわりないし。クマでもチョコレートでも、なんでもいいよ」


魔術師は、面白そうに私を見ている。私は、暫く考えてから、消え入りそうな声で呟いた。


「その……じゃあ、あなた、と言うのは、どうかしら……」


私の亡き母もアイリーンも、父のことをそう呼んでいた。それ以外に、恋人同士や夫婦の呼び方など、私は知らない。すると、魔術師は私をじっと見つめて言った。


「……いいね、それ。ちょっとヤバいくらい興奮するよ。うん、今晩はそれで行こう」


 そして彼は、私の、銀色に波打つ髪を一束取ってキスをする。私は驚いて身を引こうとするが、それよりも前に、腰の後ろに彼の腕がそっと回されていた。


「これから宜しくね、クレア」


 耳元でそう囁いて、私を優しく抱きしめる。私は、頭の中が真っ白になって、何も考えられない。窓の外には、白い月が美しく輝いていた。

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