第6話 素顔
私は驚いてその顔を見上げた。仮面の顔は、いつの間にか、こちらを見下ろしている。
「ごめんね、無理やり急がせちゃった。僕、外では声を出したくないから。怖かった?」
からかうような口調だが、透明で綺麗な声だ。私はいきなり話しかけられたことに驚いて言葉を失っていたが、慌てて首を振った。
「……いいえ、平気よ。それよりあなた、話が出来るのね」
魔術師は笑った。やっぱり、涼しくて綺麗な声だ。
「そりゃあね。でも、気が向いた時にしか話さないけど」
そして、指をパチンと鳴らす。階段の明かりがポンポンと灯っていく。私は思わず目を見張った。魔術師って、こんなことも出来るのか。
「ほら、こっち。案内してあげる」
仮面の魔術師は,私の手を離し、すいすいと階段を上って行く。私は慌ててその後を追った。
灯りの灯っている階段以外の屋敷内は、暗くてあまり良く見えなかった。分かることと言えば、床に敷かれた赤紫色の絨毯がふかふかで、気持ちいいことくらい。私達は階段を上り切り、恐らく最上階と思われる小さな部屋に入った。なんだか、やけにごちゃごちゃしている部屋だ。テーブルの上には書物や紙片が散乱し、床には、何に使うのか分からない実験道具や薬草のようなものがぶちまけられている。かなり私的な空間のように見えたが、彼はその溢れかえる物の間を器用によけて、小さなバルコニーへと抜け、楽しそうに私を手招きした。
「こっちにおいでよ。いいもの見せてあげるから」
「え……ええ、分かったわ」
私は、彼の姿と声のギャップに戸惑いつつも、分厚いマントを着たまま、その雑然とした室内をつま先立ちで歩いて行った。今にも、床に転がる何かを踏んでしまいそうだ。バルコニーの近くまでどうにか辿り着くと、魔術師が私の手を取ってぐい、と引いた。
「ほら、すごく綺麗でしょ?」
バルコニーの向こうに、夜の湖が一望できた。輝く三日月が湖面に映り、月が二つ、夜の中に浮かんでいる。私は息を飲んだ。
「……綺麗……」
湖面を渡る涼しい風が、フードの毛皮を揺らす。私は暫く無言で、この美しい景色に見惚れていた。が、ふと気づくと、魔術師の左腕が、私の腰にしっかり回されている。いつの間にか、私達の体が密着していたことに気づいて、私の心臓が止まりそうになり、全身が緊張で固くなる。彼が私を見下ろして、突然言った。
「……匂うね」
「え?」
「きみ……何か匂うんだよな」
「ええっ?!」
私は焦って身をよじる。匂う? 私は慌てて彼から身を離し、腕を上げてあちこちを嗅いでみた。ドレスを着る前に自宅でお風呂には入って来たが、あれから結構時間も経っている。汗をかいてしまったのだろうか。よりにもよって、結婚式の夜に、結婚相手から臭いと言われるなんて。私が、恥ずかしさと惨めさに震えながら泣きそうになっていると、暫く無言で私を見下ろしていた彼が、「ああ、なるほど」と笑った。
「ごめんね、そういう意味じゃなくて。何というかな……きみって、なんだか……魔術、かどうか定かではないんだけど、そういう、ちょっと普通ではない匂いがするんだよね。あ、もちろん、匂いって言っても、体臭とか、人間の嗅覚で感じるものじゃないから、気にしなくていいよ。そうだなあ、正しく言うなら……何か魔術っぽい雰囲気、って言ったらいいのかな。僕はそういう、目には見えない感覚的なものを、匂い、って表現したりするから」
そして、硬直している私を、無遠慮にまじまじと見つめて来る。仮面をかぶっていても、もうなんとなく、この人の視線が分かって来た。
「うーん、気になるなあ。こんなの初めてだ」
私は、彼の視線に俯く。この人の感覚は、間違っていない。むしろ、初対面で、しかもまだ会って数刻にしかならないのに、いきなりそんな核心的なことを見抜いて来るなんて驚きだ。私は、ひとまず自分が臭かったのではないことに安堵しつつも、また別の心配に胸がざわめき始める。絶対に、私の秘密を知られるわけにはいかない。
私たちは暫く無言で向き合っていたが、彼が突然、明るい声で言った。
「ねえ、中に入らない?」
「え?」
「ちょっと風が冷たくなってきた。部屋に入ろう」
「え、ええ……分かったわ」
私は、この人の考えが読めずに、警戒しながら部屋に戻る。魔術師は上機嫌な様子で散らかった室内に入り、窓を閉めて言った。
「ふう、これでよし。ねえ、きみ……クレアだよね。もうそろそろ、そのマントを脱いでくれてもいいんじゃない? あ、でも、きみにお願いする前に、まず僕からだね」
そして彼は、私の見ている前で、あっさりとその仮面を脱いだ。私は思わず、その顔をじっと見つめてしまう。思ったよりもずっと綺麗な人だ。気怠そうな端正な顔つきに、白い肌。中性的な美形だ。年齢は二十五だと聞いていたが、私より年下にも見えるし、ずっと年上にも見える。不思議な雰囲気の男性だ。彼は、仮面をぽいっと脱ぎ捨てると、派手な帽子とマントも、次々と脱いでいく。私はその様子を呆気にとられて見ていた。この人……確か、『妻にもその姿を見せたことが無い』のじゃなかった? 目の前にいる彼は、全く無防備に、その姿を私にさらしている気がするのだけれど。
彼は、その魔術師らしい怪しさを形作っていた装飾品を全て脱ぎ捨てると、両手でそれらを全部抱えた。そして、「はあー」と気持ちよさそうに息を吐き、既に物でいっぱいになっている机の上に、その豪華な衣装一式を、バサッと投げだした。
「ああ、さっぱりした。これ、結構大変なんだよね。着るのも時間かかるし、意外と重いしさ」
そして身軽になった彼は、こちらに笑顔で振り向いた。すらりとした体に、白いシャツと黒いパンツを身につけている。腰には暗い赤色の布を巻いて、足には、例の黒ブーツ。髪の毛は肩甲骨くらいまでの黒髪で、後ろで一つに束ねられている。完全に、家で寛いでいる時の服装だ。彼は両手を開いておどけたように言った。
「驚いた? これが僕の正体。結構、格好いいでしょ」
私が何と言っていいのか分からずに頷くと、彼は笑って、机に軽く腰をかけた。
「じゃあ、次はきみの番。僕が正体を明かしたんだから、きみもそのマントを脱いでよ」
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