第5話 夜の森

「あ、あの……いいのですか、どなたにも挨拶もせずに出て来てしまって?」


 仮面の顔は暫くこちらを見ていたが、やはり彼は一言も言葉を発さず、頷いた。見ると、迎えの馬車が一台、教会の前に止められている。先ほど控室に迎えに来てくれた老人が、御者席に座っていた。彼は無言で私に乗る様に促した。私は思わず後ろを振り返ったが、礼拝堂からは誰も出てこない。


 豪華なオープンタイプの馬車だ。乗ってしまってもいいのだろうか。私は戸惑いつつも馬車に乗った。本当は父のところに戻りたかったが、今更、退場した新婦が礼拝堂に戻るわけにはいかない。私たち二人が乗り込むと、御者は何も言わずに馬車を出した。


「あの、魔術師……様。私達は今、どこに向かっているのでしょう?」


 私は怖くなってきた。式を終えて出てきたら、辺りはすっかり夜の闇に包まれていたのだ。昼間は昼間で、あの姿を見られることが恐ろしいが、夜は夜で……ことが恐ろしい。私は今、無力だ。


 問いかけに答えたのは、御者だった。御者の老人は、前を向いたまま言った。


「花嫁様、ご心配には及びません。馬車は我が主の屋敷を目指しております。どうぞ到着まで、ごゆっくりとお過ごし下さいませ」


「でも……」


「ご到着までお休みになられますか? 宜しければ眠り薬もご提供できますが」


 眠り薬なんて盛られたら、何をされるか分かったものじゃない。私はきっぱり断った。


「……結構よ。このまま、ゆっくりさせて頂くわ」


「畏まりました」


 御者はそれきり黙った。私がちら、と傍らに視線を向けると、私達のやり取りを聞いているはずの魔術師は、足を組んで座ったまま、素知らぬふりで夜の森を見ている。名前くらい、教えてくれてもいいのに。一応、形式的とはいえ私達はさっき結婚したはずなのに、呼びかけるのに『魔術師様』だなんて、面倒にも程がある。でも私は、黙っていた。私は長い年月を一人で過ごしてきたから、たくさん話すのは、得意ではないのだ。


 私もまた、魔術師と同じように森を見つめた。せめて、この辺りの土地勘だけでもつけておかなければ。いざという時に、土地勘が全く無いのでは、身動きが取れない。だが、いくら注意深く見つめたところで、夜の森と言うのは、景色が変わらないものだ。どこまで行っても、黒々とした木々が月光に揺れているだけ。先ほどまでの私と違って、今の私では、鋭敏な方向感覚も失われてしまっていて、今自分が、東西南北どちらの方角に向かっているのかさえ、分からない。


 私は小さくため息をついて、馬車の椅子に背をもたれかけた。そして、ドキッとする。いつの間にか、辺りを見ていたはずの魔術師が、こちらに体を向けている。その仮面の奥の瞳は相変らず見えないのだが、間違いなく、私のことを見つめている気がする。


 私は気まずくて、その顔を見上げることが出来ない。緊張しながら、まるで気づかないふりをして、そっぽを向いた。そうだ、森を見ている振りをしよう。私はドキドキしていることに気づかれないように、じっと体を縮こまらせながら、ひたすらこの気まずい馬車の旅が終わることを祈っていた。


 いつまで続くのかと思えた夜の黒い森が、唐突に終わった。私は思わず呟く。


「あれは……湖だわ」


 大きな湖が、森の中に突然姿を現わした。空の三日月が湖面にも揺れている。その湖のほとりに、大きな建物が立っていた。とんがり屋根が三つある、可愛らしい屋敷だ。ちょっとイメージが違うけど、これが、この人の家なのだろうか?


 案の定、馬車はその屋敷目指して走って行く。入り口前で止まった馬車から、魔術師がひらりと下りて、私に手を差し出した。今は夜。もう、この手を恐れる必要はない。私は遠慮なく彼の手を取り、地面へと下りた。馬車は音もなく屋敷の裏手へと消えて行った。出迎えの者も誰もいない。辺りは静寂に包まれている。なんだか、森の梢を揺らすささやかな風の音さえ、なりを潜めているみたいだ。私は恐怖のあまり、逃げ出したくなった。よく考えてみたら、私、この人のことを何も知らないのだ。


「あ、あの……」


 だが私が手を引っ込めようとするのを察したように、彼はギュッと私の手を握った。まるで遠慮のないその様子に、ぎょっとする。今が昼間でなくて良かった。少なくとも今の私の手は、人間のものだから。だが私のそんな安心など知る由もない彼は、私の手を握ったまま、楽しそうに屋敷へと入って行く。


「あっ、あの、ちょっと……!」


 私はつまずきそうになりながら、彼に連れられて石段を駆け上がる。大きな玄関からエントランスホールに入るが、ここにも誰もいない。屋敷内はしん、と静まり返っていた。どこに連れて行かれるのか分からない不安にドキドキしていると、突然、前を歩く彼がこちらを振り向いて言った。


「そろそろいいかな」

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