クレセント家へ
夕焼けと夜空が入り混じる頃に、山を降りる事ができた。
視界が開けた。草原が広がっていた。涼しい風が、腰の辺りまで伸びた草を揺らしている。
グレイスが両目を輝かせて、感慨深そうに空気を吸い込む。
「もうすぐクレセント家の領土だ」
「意外と早く着きそうだな」
シェイドが口の端を上げる。
「また攫われたら面倒だから、念のために家まで送るぜ。案内は頼めるよな?」
「もちろんだ。任せてほしい」
グレイスは草をかき分ける。
「虫がいると思うが毒はないはずだ。草を分けて歩いていけばいい」
グレイスに言われるままに、シェイドもセレネも草をかき分ける。
この時に、セレネがイタッと小さく悲鳴をあげて左手の甲を押さえた。
グレイスが足を止めてセレネを心配そうに見つめる。
「大丈夫か? ここらへんに人を刺すような虫はいないはずだったが……私が迂闊だった。すまない」
「いいえ、刺された私の不注意です。痛みは治まってきたので大丈夫です」
セレネが微笑む。
「先を急ぎましょう。シェイド様が帰る時間を作らなければなりません」
「俺はすぐに帰れるから心配するな。それよりセレネ、体調に少しでも変化があればすぐに言えよ。身体は正直なもんだぜ。あと、俺はシェイドでいい」
「お気遣いくださりありがとうございます、シェイド様。これ以上ご迷惑をおかけしないように頑張ります」
シェイドでいいという言葉を笑顔でスルーして、セレネは草をかきわける。
グレイスも足を進める。
「大丈夫ならいいが、無理はしないように」
「それはお互い様でしょう」
グレイスとセレネは笑いあった。
そんな二人の様子を見ながら、シェイドは穏やかな足取りで後を追っていた。
しばらく歩くと、レンガ造りの家々が並ぶ街に辿り着いた。夕日は沈み、月がのぼっていた。
家々は既に暗くなっていた。住民は寝静まっているのだろう。
グレイスは安堵の溜め息を吐く。
「ここまで来ればもう大丈夫のはずだ」
「グレイス、グレイスなのか!?」
街道から男の声が聞こえた。朗々とした声がよく通る。
声の主は青い髪の中年の男であった。片手にランタンを持っている。涙ぐみ、全身を震わせている。
「もっと顔をよく見せてほしい。グレイスだな!?」
「お父様、心配掛けたな。グレイスで間違いない」
グレイスが歩み寄ると、父親はランタンを地面に落としてグレイスを抱きしめた。
声を大にして泣いていた。
「本当にすまなかった! おまえがいなくなったと聞いた時に、どれほど自分が情けないと思ったか……辛かっただろう!? 怖かっただろう!?」
「もう大丈夫だ。安心してほしい」
グレイスも声を震わせた。
「私の恩人と友人がここまで送ってくれた。感謝してほしい」
「そうなのか! こんなに遅くまで付き合ってくれたのか。本当にありがとう、僕にできる事なら何でもする」
父親はシェイドとセレネを交互に見ていた。
シェイドは苦笑し、セレネは首を横に振った。
「大した事はしてねぇぜ。俺はこのまま帰る」
「シェイド様はすごかったのですが、私も何もしておりません。グレイスさんがご家族とお会いできて良かったです」
二人の言葉を聞いて、父親はグレイスからそっと手を放し、目元をぬぐった。
「本当にありがとう。ささやかだが、お礼をしたい。家に来てほしい」
「俺は遠慮するぜ。貴族の家は苦手だ」
シェイドは片手をパタパタと振った。
セレネはうなっていた。
「私だけお礼を受け取るわけにはいきませんが……ご相談したい事があります」
「何でも言ってくれ。どんなに時間が掛かっても、なるべく希望にそおう」
「その……図々しい事は承知なのですが、しばらくクレセント家の領土に住んでもよろしいでしょうか? 家は無くても構いませんので」
「大事な娘を連れてきてくれたのに外で寝かせるなんてあんまりだ。あなたさえ良ければぜひ僕たちの家に住んでほしい」
父親の懇願を受けて、セレネはためらいがちにグレイスに視線を送る。
グレイスは深々と頷いていた。
「私からもお願いする。セレネなら一緒に住んでほしい」
「そうですか……では、お言葉に甘えます」
セレネはお辞儀をした。
「どうぞよろしくお願いいたします」
「礼儀正しい良くできた子だ。こちらこそよろしく」
父親はセレネの両手を取り、一礼した。
シェイドはあくびをする。
「俺はそろそろ帰るぜ。そうだ、念のために言っておくがみんな薬を飲んでおけ。疲れ切ったまま寝ると、明日の朝が苦しいぜ」
「分かりました。本当にお世話になりました! この御恩はいつかお返しします!」
セレネはしゃくりあげていた。
グレイスも声を震わせる。
「本当にありがとう。忘れない」
「気にするな。身体が冷えないうちに帰れよ」
シェイドが背中を向ける。
父親がランタンを拾い、三人はクレセント家に向かって歩いていった。
風が吹く。シェイドの銀髪と黒いローブがなびく。
シェイドは草原に向けて口の端を上げた。
「出て来いよ。ついてきたのは分かったぜ」
穏やかな口調で語る。
「姿を隠していないとやりあえないわけじゃねぇだろ?」
シェイドの身体から闇がにじみ出る。
風はより強くなっていた。
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