第3話 魔除け

そうして、翌週からヒューゴとおれは週末を共有するようになった。


まるで学生の頃に戻ったような友人との密な時間は、想像以上に気遣い不要で快適だ。


だいたいがヒューゴの部屋で飲みながら映画を観て、天気が良ければ自転車でサイクリングロードを流したりとのんびりした休日だ。

時々、『市場調査』という名目で話題の店へ出かけることもある。まあ『うちの賄のほうが美味しい』で終わってしまうが。


おれは寝床としてリビングのソファを使わせてもらっている。

座面が広いから大きさは十分で、なによりも高密度のウレタンの弾力が身体に合うし、羽毛のクッション部分は柔らかくすっぽり包んでくれる。確実に自分のベッドより快適だった。

無論ヒューゴはベッドを勧めてくれたが、おれが入り込むとヒューゴもシングルベッド1つ分のスペースとなってしまうから、そこは固辞した。

せっかく広いベッドを持っているのに、よりによって休日に窮屈な思いをさせるわけにはいかない。


元々が寮生活だったせいか四六時中誰かと一緒にいるのは苦にならない。

でもそれ故に一人の時間が貴重だと思っていたし、社会人になってからも一人でなんでも楽しめると思っていた。


それが今では、平日のヒューゴがいない時間を少し物足りなく感じるほどだ。

でも週末は必ず会えるし、平日だって店に行けば居るんだ。その安心感は何事にも替えられない。


週末のお泊り会(そう言うとヒューゴは爆笑していたが)は、今までのところキャンセル日も頓挫することもなく、毎週続いている。


いよいよ気温が30度を越えてくると、サイクリングの頻度も激減してくる。

その日も真夏日で、おれたちはエアコンの効いた部屋で、氷をたっぷりいれたハイボールを飲みながらだらりと快適な映画鑑賞だ。


作品は脚本賞を獲ったらしいクライムサスペンスで、たしかに良く練られたプロットだったがテンポが少々だるく、ソファの対角にいるヒューゴの横顔もついでに鑑賞する余裕があった。


後ろでギリギリ結べるくらいの長さの髪を下ろしたままで、時折顔にかかる前髪を耳にかけなおしている。

とても似合うけれど——

たとえば、この1年でどんどん鍛えられていく身体や、意外にラフな行動を知った以上、少し違和感を感じるんだよな。長めのブロンドって繊細そうで。ヒューゴは物腰柔らかだけれど、繊細ではない気がする。


「髪、伸ばしてるの?」


「いや」


ヒューゴは髪をかきあげる。いちいちかっこいいね。


「切ってないだけ。でも結ぶと楽だよ。飲食店だし」


「確かに清潔感はある」でも、と俺は続ける。「もう少し短かい方がヒューゴらしさが出そう」


「そう?透がそう言うなら、切ろうか」


ヒューゴはすぐ立ち上がって寝室の方へ行ってしまう。


「もしかして今から行くの?」


追いかけると、「土曜だし。ちょうどいい。前から切らせろってうるさかったんだ」と答えて脱いだTシャツをベッドに放り投げる。

クローゼットの中は几帳面に整えているくせに、そういうちょっと雑な動作をするギャップが面白い。

それにしても走っているだけでそんなに鍛えられるなんて、やはり体質の違いだろうか。

ヒューゴは着替えを済ますと「すぐ戻る」と車のキーを掴んだ。


素直なヤツ。動きたくなさそうにダラダラしてたのに。

でもどこへ切りに行ったんだろう。予約もせず。


一時停止していた映画はそのままにし、おれは電子書籍を持ってバルコニーへ出た。

ちょっと怖いくらい鮮やかな赤紫の夕焼けが見事で、通り抜ける風は夕方の匂いを運んでくる。


しばらくガーデンチェアに座って小説を読み進む。

徐々に赤味に群青が混ざる空の変化を視界に感じながら。



「ただいま」


振り返ると、開け放した窓際にヒューゴが立っていて——

おれは絶句してしまった。


「どう?」


しばらくまじまじと見て、ようやく、「似合いすぎ」と言えた。

長髪寄りなのは変わらないが、前下がりに目の下で切られていて、アシンメトリーに分けられた前髪から鋭い目と秀美な額が覗く。

夕日が差し込んで眩しさに細めた目には金色の光りが宿り、じっとおれを見つめている。なんて美しさだ。


「一番鬱陶しい長さにされた」


ヒューゴは不満そうに言うが、「似合いすぎ」と俺がまた褒めると嬉しそうに、「透がいいならいいんだ」とふわりと微笑む。


「どこで切ってきたの」


「知り合いの美容師」


「ヒューゴのことよく知ってるだね、その人」

こんなに似合う仕上がりにできるなんて。


「会えるよ、今夜」


「今夜?」


「飲みに誘われた」


「おれも行っていいの?」


「どっちかというと僕がオマケ。透を連れてこいだってさ」

家でゴロゴロするつもりだったのに、とヒューゴがグチる。


「どんな店?」


「いい店だよ。ただ、できれば透を遠ざけておきたい」


とヒューゴは苦い顔をして、髪洗ってくる、と浴室へ消えた。知り合いって美容室にいるんじゃないのかな。

ま、あとで聞いてみるか。


それにしても、おれに勧めたくない店ね……。余計に興味が湧くじゃないか。


シャワーの水音をBGMについうつらうつらしていると、「悪い。今日ちょっと遅くなる」とヒューゴの声で一気に目が覚め、おれはソファで起き上がった。


——とうとうきたか。


今まで、土曜日の夜にこういうことがなかったことがおかしかったんだ。常識的に考えて、そりゃ週末は他の友達とも遊ぶわな。

なんて、頭では分かっているんだけど、少し——。


「じゃあ、おれ、自分の家に帰ったほうがいい?」


大丈夫。ちゃんと言えてる。


ヒューゴは大きく息を吸い込んで深呼吸すると、床に膝をついてベッドに座るおれと目線を合わせた。


「いいわけないだろ。透と一緒に帰るのが遅くなるってこと。もう、週末に連絡させないから安心して」


ヒューゴはおれの頭をひと撫でしてから立ち上がると、寝室へ歩いていった。


つい、ほっとしてしまった。

ヒューゴを独占している罪悪感と、独占できている優越感がまぜこぜになる。

おれは両手で自分の頬を軽く叩いて立ち上がり、とりあえずヒューゴの後に続いて寝室のウォークインクローゼットへ向かった。


ヒューゴは仕事の時と同じ白いドレスシャツを着て、袖を捲くっていた。そんなちゃんとした店なのか……


「きれいめの服なんて持ってきてないぞ」


「そのままでいい。いや、やっぱり僕の服と、あと」


ヒューゴはクローゼットの戸棚においてある香水を手に取ると、さっとおれのTシャツの裾をまくり手を入れた。


「ひゃっ」


いきなりシュッと腹に冷たい香水が吹きかけられて素っ頓狂な声が出てしまう。


「ごめんごめん」


ヒューゴは全く悪怯れずクスクスと笑いながら、「お守り」と言った。


服を借りて、同じフレグランスを付けて……。


「なんだか、兄弟みたい」


「は?」


今度はヒューゴが素っ頓狂な声を出した。


「家族だと服は同じ柔軟剤の匂いになるでしょ。で、同じ家から出掛けて」


そう言うおれを、ヒューゴが横目でちらりと見た。この目線が好きだ。


「兄弟ね……ま、いいけど」



************



駅にほど近いコインパーキングに車は停められた。

その向かいにある雑居ビルの裏口で、ヒューゴは呼び鈴を鳴らした。


「髪を切ってくれたヤツね、ここでバーをやってるんだ」


まもなくして内側から扉が開かれ、途端に短髪の外国人男性が大騒ぎしながらおれたちを中へと迎え入れてくれる。

弾丸のように余りに早口で話すから全く聞き取れない。

ヒューゴは宥めるように答えながら通路を進む。


英語で話すヒューゴを目の当たりにしたのは初めてだ。日本語の時より更に低く、少しかすれる声が空気を振動させる。


店内は至るところにキャンドルが灯されていて、まるで、秘密の儀式が行われる洞窟のような雰囲気だ。

ドラキュラか何かの集まりだろうか。


カウンターにたどり着くと、ヒューゴはおれを一番隅の席に座らせた。


「透。絶対にここから動かないでくれ、わかったね?」


そう強く念押ししてカウンターの中へ入った。


「えっ、働くの?」


さきほどの短髪がおれの前に急いでやってくると、耳元で大きい声で、「ボク、クリス。よろしく!」と手を差し出してくれた。

つられて握手を返す。


「ゴメンネ!すこしヒューゴ貸してネ!!」


かろうじて聞き取れたが早口で、踵を返すとオーダーにきた客の相手を始めた。

ヒューゴは袖をまくり、すでに臨戦態勢になっている。仕事着なのはこのためか。


「もし僕以外から酒を貰っても、絶対に絶対に飲まないで」


そしてまたしても念押しし、見たこともないカクテルを置いていった。

口をつけると、ウォッカの後からとろりと桃が甘くて。贅沢にもまるごとの桃をつぶしてある。こんな甘美系カクテルをヒューゴがおれに出すなんて意外だな。


ヒューゴはそれから恐ろしい速さで酒を作り続け、カウンター越しに飛ばされるジョークに時折笑いながら返し、自分の店での接客とは真逆、まるで別人の荒っぽさでバーテンをやっている。


おれは見ていられなくなってしまい、思わずカウンターに突っ伏してしまった。

かっこよすぎるだろ……

こんなの見せられたら、誰だって憧れるよ。

おれには時折しか見せてくれないけれど、こんな粗野な面の方が素なのだろうか。


ふと後ろから、トントン、と肩を叩かれて振り向くと、ぴったりしたワンピース姿の派手めな白人の女性が立っていて。「隣は空いているか」と英語で聞いてきたがおれが答える前に座られた。外国の空港を思わせる香水がキツくかおる。


「何か奢らせて」と言うやいなやカウンターに向かって手を上げた。


ヒューゴがこちらに向き、瞬時に眉をひそめた。初めて見る険しい表情だ。


「どうした?」


ヒューゴは瞬時におれの前に移動してくると、おれの前髪をかきあげて額に口付けた。


カウンターに居た客たちも、周囲も、一瞬シンとなり、おれはうつむいてしまう。ヒューゴ、こんなところで、しかもなんで今なんだ。

隣に座っていた女性は、肩をすくめるとヒューゴとおれを交互に見て、「Oops」とつぶやきすぐに去って行った。


「だから連れてきたくなかったんだ」


そう言ってヒューゴは、おれの顎に指を添えてついと上げさせ、何か読み取ろうとするかのように目をじっと見つめた。


「あとで怒っていいから、もう一回」


再び額に短く口付け、にこりと笑うと汗だくで酒を注ぎ続けているクリスの元へ行った。


フロアを振り返ると、殆どの客がグラスやボトルを片手に好き好き踊っている。しかしどこにこんなにいるのか、見事に外国人ばかりだ。

ワアッ!という一際大きい歓声が上がり、驚いてそっちをみると、クリスがヒューゴのシャツを剥ぎ取ったところだった。

ヒューゴは首を左右に振って呆れ顔だ。


この忙しさじゃ、助っ人としてヒューゴが呼ばれたのも頷ける。

おれは珍しいヒューゴが見られて嬉しいし、それに少しだけ、優越感を感じてしまっている。

あそこにいるかっこいい人、ぼくのことナンパから守ってくれたんですよ。とみんなに言いたい。


少し客足が落ちついたのか、ヒューゴはカウンターを離れ、おれを奥にある個室へ誘導した。壁にくり抜かれた穴にはキャンドルが置かれ、メインフロアよりさらに薄暗い。


「おまたせー」


ビール片手にクリスがおれの隣に座る。待ってねーよ、とヒューゴはぶっきらぼうに返すが、顔は笑っている。


「ヒューゴ、これを着なさい。いつまで裸でいるつもり?」とクリスは店のロゴが入った黒いTシャツを差し出していた。


「クリスはヒューゴのこと、よく知ってるんだね」


「どうして?」


「こんなに似合うようにカットできるなんて、ヒューゴのこと相当好きじゃないとできないと思って」


クリスは飲もうとしていたグラスをもったまま、一瞬絶句して、英語でヒューゴに何か言うがヒューゴは首を振っただけで。


「ごめんね。今のは……」


おれは、いいよいいよと手を振り、


「クリスもヒューゴも、英語だと声が違うのが面白い。聞いてて心地良いからもっと喋ってほしいくらい」


「あら、でも仲間ハズレみたいで嫌でしょ?」


そんなこと、思ってもない。


「必要ならヒューゴが訳してくれるだろうし、それに」とクリスとヒューゴを交互に見て、「二人の話もあるだろうし、ね?」とモスコミュールを飲み干した。


透はこういうやつなんだ、というようなことを言った気がする。かろうじてヒューゴの英語は少し聞き取れる。


クリスが満面の笑みでおれの両肩をさすり「トオルでよかった」とだけ言うと席を立ちカウンターへと戻って行った。

たしか涼子さんにも同じようなことを言われたな。


「クリスっていいやつだね」


「そうか?」


「すごく優しい」


「透にはわかるんだな」


「初めて英語喋るヒューゴ見たよ」


「そうだっけ」


ヒューゴは水が入った自分のグラスを飲み干し、空になっているおれのも見て、目だけで聞いてくる。うん、もう一杯欲しい。


「おれ、いってくるよ」


クリスに、おまかせのカクテルとヒューゴ用に水を頼むと、「はあ?あいつ飲んでないの?」と驚かれる。


「うん、車できてるから」


「いつも車よ?で、バカみたいにヴォッカ飲んで帰るのに。うちにくるロシアンでもあんなに飲まないっつの」


「じゃあ次はおれが運転して帰るよ」


「また来てくれるの?」


「うん。酒が美味いし、クリス優しいから……来てもいい?」


「ヒューゴが隠しておくはずだわ。はークラクラしちゃう」


クリスは片手を額にあてて、もう片方の手で顔を扇ぐ仕草をした。


「じゃあ、彼の友達やめたらまたおいでね」とバッチリとウインクする。


ドリンクを受け取り個室に戻るとヒューゴが訝しげな表情で待っていた。


「何か言われただろ」


「次はおまえと友達やめたら来ていいって」


ヒューゴは舌打ちして、余計なことを、と更に忌々しい顔になる。

クリスが作ってくれたカクテルに口をつける。梨とジンだ。


「実は友達やめたくなるほど酒乱だったりして」


「この店、酒だけは最高に美味いからな」


ヒューゴは髪をかきあげ、それが思ったよりも短かったことを思い出してすぐに手を仕舞う。額にはまだ汗が残っているようだ。


「土曜は透と過ごすからもう手伝えないって話はしてあったんだが、今日は特例でね」


「別に構わないのに」


「そう言うなよ。さ、そろそろ帰ろう。帰って映画の続き」


カウンターで目まぐるしく動いているクリスに手を振ると、にっこりわらって、口が「またね」と動く。

人がもっと増えてBGMも大音量でクラブみたいになっている。おれたちが個室にいる間に、アルバイトの人が到着したようだ。

後ろからヒューゴがおれの肩に腕を回して、人混みを割ってドアに向かう。なんか護衛されているみたいだ。

喧騒の中、背後からヒューゴを呼ぶ声や指笛があちこちから聞こえていた。

おまえ、毎週こんなところで遊んでたんだな。


車に乗り込み、時計を見ると0時近い。


「結構賑わっていたね」


窓を開けながら言うと、まだまだ少ない方、とヒューゴも自分側の窓を下ろす。


「クリスは経営が上手い」


ヒューゴもそうじゃん。


「自分の店をクローズしてから行くと、だいたいクリスはもう酔っ払っていてね。危なっかしくて見ていられないから手伝うんだけど、あんな店だから、みんな飲み方がヒドイ。ドラッグにも気をつけていないといけないし。バイトが平然と客に混じって騒いでたりするともう僕も飲まないとやってられないって気分になる」さらにヒューゴは続ける。

「バイトがちゃんと時間通りに来るとか、クリスが復活したら、客に戻る」


「だからみんなヒューゴのこと知ってるのか」


「そういうこと。あそこにはハマるなよ」


「いつもと違うヒューゴが見られて面白かったよ」


「そう?」


「うん。いつもと全然違って、ワイルドだった、と思う……」

おれは妙に照れてしまって声が尻すぼみになってしまう。


「それはたぶん、僕の日本語がちょっとフェミニンな話し方なんだと思う。ずっと母が練習相手だったからね」

嫌なんだけど、とヒューゴが苦笑いする。


「どっちもいいと思うよ。それに、その腹筋でフェミニンはないだろ」

まだTシャツ着てなかったのか。


ヒューゴはやや俯いて自分の腹を見る。


「たしかに……」


「そういえば、さっき、なんでキスしたの?お店で」


おれはついでのように聞いてみる。

さらっと聞けばさらっと返してくれるかと思って。改めると聞きづらいし、飲んでる場のことは水に流してしまいたいかもしれないし。


ヒューゴは少しだけバツが悪そうな笑みを浮かべて、うーん、と唸る。


「魔法、じゃなくて、魔除けか。誰も透に声を掛けないように。僕の服も香水も効かなかったからね。嫌だったか?」


ああ、それで……。


「いや、ちょっとだけ嬉しかった」


火照る顔を少しでも冷ますために、窓を全て下ろした。

週末にもう連絡させない、と断言してくれた上に、他人からおれを守るなんて。

自分の独占欲が刺激されて胸がぞくり震える。



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