第4話 だが嵐は突然やってくるもので
週末が明けて月曜、いつも通りに出社してメールアプリを起動すると、Urgentと書かれた件名が目に飛び込んできた。
差出人は現在開発を任せているインドのベンダーだ。
念の為読み直して、速水君に転送する。
メールの内容は悲惨なもので、先方の従業員の大半がボイコットを始めたとのことだった。あちらのプロジェクトマネージャーから、コアエンジニアたちをどうにか説得しに来られないか、という懇願だった。
炎上した原因は他社案件らしいが、ボイコットしているエンジニアたちは弊社のプロジェクトにもアサインされているため、こっちは完全にとばっちりだ。
「高屋さーん、俺行けるよ!」
そう言いながら速水君は開いている打ち合わせスペースを指さした。
今日は一日2人で籠もり、航空券の予約やらスケジュールの調整だ。
とにかく早く行って早く帰るをモットーに、明日出発のコルカタ行きを予約した。帰りは終わり次第すぐに帰れるよう、オープンチケットだ。
インドの方には直近の作業のためにこちらから開発担当者1名を連れていくと返信した。もちろんボイコット組の説得役はおれだ。
こっちは納期重視の日本社会だ。うちの案件だけでもやってもらわないととんでもない被害になる。おそらく先方のマネージャーはそれを見透かしていて、おれに連絡してきたのだろう。
それにしても、他社は何をやらかしたんだろう。経験上、インドの会社は大抵のことでは怒らないはずだ。
翌朝5時。
成田空港でカツサンドを食べながらコーヒーを飲んでいると、速水君に「マジ面倒でしょ」と同情される。
「うん。でも『呼んだけど来なかったから納品できませんでした』ってこっちの落ち度にしかねないからね、彼ら」
「あるある過ぎ。だから海外に仕事頼むのしんどいんだよなあ」
速水君は伸びて大あくびする。本当にその通りだ。
「日本に頼める先があればいいんだけど、技術力がね。速水君レベルのエンジニアはレアだもん」
「あ。褒めてくれるんだ。窓際座る?」
「おれ通路側派」
飛行中、おれたちはエコノミーの狭い座席で足腰を強張らせながら、「ま、めったにないことだから」とお互いを励まし合った。
デリーで国内線に乗り換え、コルカタ空港に到着する。
「あっっっちぃ!!高屋さん!!」
「速水君はインドは初めて?」
できるだけ冷静を装いたく、ヒューゴの物言いを真似てみる。あいつ常に涼し気な感じするもんな。
「初めてだよ!!40度超えてんじゃん!!なに、高屋さんインド詳しいの?」
「いや、初めてだし、正直もうこのまま引き返したいよ!なんでこんなに混んでんの?」
残念ながら、おれには到底クールな振る舞いはできないようだ。
ねっとりと生暖かい空気が苛立ちを加速させる。
空港内は大混雑で、うねった大行列で埋め着くされ歩く隙間もない。一体何をどうすればこんな行列ができるんだ。
人をかき分けてようよう外に出ると、いきなりの土埃。
「とりあえずホテルに移動しよう!終わり次第さっさと帰る!暑すぎる!」
四方八方から鳴らされるクラクションがうるさくて、叫ばないと会話が成り立たない。
ホテルは壮観なビクトリア調で、こんな良い所もったいないなと思うほどだった。何枚も写真を撮ってしまう。
帰ったらヒューゴに見せなきゃ。いろんな国のことを知っているようだけどインドの話は今のところ出たことがない。
エントランスの床の天然石はよく磨かれていて、高い天窓からステンドグラスを通して差し込む光りを照り返している。美しい建物だ。
ただ、いざ部屋に入ってみるとwifiは全く使い物にならず、水回りもこれでスイートかと疑うレベルの粗末さだった。
とはいえ、掃除は行き届いているし、デスクやベッドの大きさも十分だ。ルームサービスもちゃんとある。お湯は出ないが、どうせ暑いんだから水シャワーで構わない。
さっそく常温の水シャワーを浴びて、Tシャツとハーフパンツに着替える。
ベンダーの拠点はホテルから遠くなく、すぐ移動できるようフロントにタクシーを頼んでおいた。
土埃をわんわんさせながらタクシーは未舗装の道路をすごい速度で走り、突然道幅が広くなったかと思ったらすぐに停車した。
先方の会社が入っている建物前に到着したらしい。
タクシーのドライバーによれば、この辺りはIT企業が集まっている特区になるらしく、街なかとは異なり真新しい人工的な建物だけで構成されているらしい。
ファストフードの店も一通り揃っていて、インドらしさはないが利便性は高そうだな。
エントランスにはすでにマネージャーのクリシュナが待機していて、それはそれは大歓迎だった。
さっそくセキュリティカードを首にかけられ、オフィスへ案内される。専用のデスクまで用意してくれているらしい。
速水君は荷物を置くやいなや、すぐに会社に残っているエンジニア数名と作業に取り掛かっている。本当に頼もしい限りだ。
こちらはまず、PMのクリシュナから各個人に電話を入れてもらう。
通話がつながった相手には、「君を必要としている人が日本から来ている」と伝えてもらい、おれが今までの協力の感謝と、これからも頼りにしていることを熱意を持って話した。
多くのインド人は誇り高く、賢く、正しい判断ができる。きっと何名かは戻って来てくれるだろうが——
ただ、部長からはリスク回避が最優先だと指示されている。
戻ってきたとしても、人数がプロジェクト遂行に満たないと判断されたら、このベンダーとの契約は終了することになっている。
弊社としてはそっちの線を有力視していて、2、3日で結論が出なければ終わりだ。
それをおくびにも出さないで相手を説得するわけだが、正直、罪悪感がある。
おれの弱い所だと自覚はあるんだけど……。
ま、クリシュナも気付いているだろう。今日明日で何人戻ってくるかが勝負だ。
初日はそれだけでもう夜となり、クリシュナの招待でレストランに行くこととなった。ここらで一番旨い店だと聞かされ、期待が高まる。
「ウェルカムウェルカム!」
ウェイターは大げさに両手を広げておれたちをテーブルに案内した。
ビュッフェ形式の高級レストランで、あちらこちらに大輪の派手な花が飾られている。
ウェイターによれば、だいたいが北インド料理で辛さはマイルド、一応パスタやサラダなどイタリアンもあるらしい。
「果物は大丈夫?」
美味そうに熟れたマンゴーを横目に見ながら尋ねると、クリシュナは首を縦に振った。
「カットされているものは止めておいた方がいいヨ」
Yesが首をヨコに振り、Noが首にタテに振るという我々のジェスチャーとは逆だ。知識では知っていたが、実際目の当たりすると混乱する。
混乱 ——まさにインドを表すに相応しい言葉だな。
翌朝、ホテルの自動モーニングコールでおれは飛び起きた。なんて爆音だ。
シャワーを浴び、洗濯サービスの袋に昨日着ていたものを全て突っ込む。
1階のレストランでは朝食が始まっているはずだ。
リュックに身の回りの物を詰め、最後に充電器に繋いでおいた携帯電話を……
「ない!?」
デスクの上には何もなかった。念入りに床やデスクの裏側、ベッド下も見てみるが見当たらない。
部屋を駆け出して速水君の部屋をノックした。
「携帯が無い!寝る前はあったのに」
「マジで言ってる?とにかく一緒に探しますよ。部屋のどこかに落ちてるでしょ」
家具類を動かし、カーペットも捲って、徹底的に探したがスマホはどこにも見当たらなかった。
「オレも高屋さんが携帯持ってるの見てたから、間違いないね。これは……やられましたな」
「やっぱそうかぁ」
どうやら寝ている間に侵入されたようだ。
就寝前にふと思い立って枕カバーの中に入れておいたパスポートを確認する。こちらは無事だ。こういうのを虫の知らせって言うんだろうか。
「とりあえず朝食行ってから考えるよ……」
社用携帯とPCは昨日ベンダーに置いてきているが、自分の物には無頓着だったのが原因だ。
まあでも、最新機種でもないし、ここは勉強代ということで忘れるしかないだろう。
速水君と同じキャリアだったのが幸いして使用停止の連絡は簡単にできた。ただ、盗難証明書の提出をするよう強く求められた。10年以上使ってきた番号が変わるのも面倒だし仕方がない。
滞在1日で、もうヒューゴに話せるネタができちゃったな。
会社に到着し、クリシュナに相談すると現地の警察へ同行してくれることになった。顔見知りがいるらしい。
「タカヤのおかげで、今日は6名が出社してきました!ありがとう友よ!」
ボイコットしているエンジニアは10名で、全員が弊社のプロジェクトに関わっていた。半数超がすぐに戻ってきてくれたのは幸先が良いといえる。
もし明日までにあと2名戻ってくれば、契約終了にはならないだろう。
皆、話をするととても優秀なことが分かる。当然ながら炎上した他社プロジェクトとは切り分けて考えてくれ、できる限り急ぎて作業を再開してくれることになった。
おれはクリシュナをせっついて警察署へ連れて行ってもらい、盗難届を申請した。書類は英語だったが会話は全く理解できない。
「1週間ダネ」
「ええ!?」
「最優先で進めるよう割り込んだから、1週間後には受け取れますヨ。とっても早い!」
だめだ、時間の感覚が輪廻転生基準だ。
「すごく助かります。でも念の為に聞くけど、もしかして1週間より早くなるなんてことは?」
「どのみち、こっちも時間がかかるでしょう。ホテルも長期滞在のつもりで選んでおきましたので」
警察からの帰り道、ガタガタと揺れる道を器用に運転しながらクリシュナが言った。
「そんな……」
どうしよう。
おれ、ヒューゴに連絡してないぞ……。
「街で一番良いホテルですが、こんなことになって申し訳ないですね」
そう肩をすくめるクリシュナに、「自分のミスだから」と言うと、「インドでも『盗まれる方が悪い』と言う人がいますが、そんなことはないですよ」と慰めてくれた。
インドに来なければこんなことにならなかったんだが……。ま、久しぶりの海外で気が緩んでいたな。
会社に戻ると1名が退職届を送ってきたと報告を受けた。残り3名、個人面談まで漕ぎ着ければ、説得する自信はある。
おれは一旦ホテルに帰り、策を練り直すことにした。万が一残りの3名もロストした場合にどうするかだ。
腹が減ってはなんとやらで、ルームサービスのメニューを開く。見開きで写真も載っていて解りやすく、写真のないものにはWetまたはDryの記載がある。汁気があるものはWet、そうでないものはDryらしく、大変に親切だ。
左ページはインド料理だと分かるが、右ページが中華風に見える。焼きそばや餃子の大きいやつやら、あと角煮みたいなものも。
ミャンマー辺りからの料理人がいるんだろうな。
何事も時間がかかることを思い出し、急いでフロントに内線をかける。
なかなか出ないなと思っていたら、コンコン、とドアをノックし「ルームサービス!」の呼びかけ。おい電話の使い方間違ってるだろ。
注文を取りに来たスタッフは丁寧にも、長期滞在客はメニューには載っていないものもその日の材料次第で提供できると教えてくれた。
飯が旨いなら多少の延期もアリだな、とおれはさっそく状況を前向きに捉えはじめていたが、あらためて『長期滞在』と聞くとハッとしてしまった。
1日目はボイコット組にコンタクトを取り、2日目は6名が帰還、エンジニアのボイコットなんて異例中の異例だ。他社でよかったとは言え、明日は我が身だ。温和な彼らをここまで怒らせるなんて、一体何があったんだろう。
しかし、すぐ6名帰ってきちゃったんだもんなぁ。おれのつたない英語が同情を誘ったか。
とにかく進行不能に陥らなかった以上なんとか継続させなければならないし、同時に、ボイコットが再発してポシャった場合に備えて、別の手も必要だ。
おれはリストアップしたアイデアの中で最も有効と思えるものに星印を付け、あとは速水君と検討することにした。
ベッドに横になり、手帳を広げる。しかし書いた覚えが無いものは当然無いわけで……
「……ヒューゴの連絡先、わっかんねぇんだよな」とおれは独り言ちた。
来られない週末は知らせてほしいと何度か言われていたし、当然そうすべきだ。
おれは性格的に、相手が店だろうが人だろうが、関係性に関係なく、連絡無しでキャンセルすることができない。
ふと財布にいれておいた名刺が思い浮かぶが、私物はクレジットカード1枚と現金とスマホしか持ってきていない。
電話番号なんて自分のもの以外暗記していないし、そもそも店に行けば居るわけで、連絡取ったことなんてないんじゃないか……?
「あっ」
そうか、店の固定電話ならネット上に……
と勢いよく起き上がったものの、またバタリとベッドに突っ伏す。営業や迷惑電話が頻繁にかかってくるせいで、もう番号も載せていなければ電話機も外してあるんだった。
SNSもやっていない隠れ家バーの弱点……ではないな。
出張の知らせを怠ったおれの落ち度だ。
おれは、いつでもヒューゴに会えることにあぐらをかいていたことを自覚して、猛烈に反省した。
連絡が取れなくなる日が来るなんて—— 微塵も考えたことがなかった。
とにかく仕事を終わらせて早く帰国するしかない。この際、盗難届が間に合わなくてもかまうもんか。
翌日にはさらに2名の帰還があり、人材は8割の確保。
その上、部長と営業の遠堂君の功労で、発注元が納期を延期してくれることになった。
弊社との契約が続行することが分かり、マネージャーのクリシュナは握手だけでは足りないと、おれに熱いハグをくれた。
はるばる来て携帯を盗まれた甲斐があったというものだ。
まあ、今から自社の開発部門に文句言われながら引き継いでもらったり、別のベンダーを探すのも恐ろしい手間だから、万事順調と言えるだろう——
しかし、体制の立ち直しのため、おれたちの出張はたっぷり1ヶ月に延期された。
**********
毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。
喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。
そこが基準となるから、自然と金曜のランチも他の曜日に比べて凝ったものになる。
もう何ヶ月もそうなっているため、ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。
普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、下ごしらえから調理まで自ら行う。
今週はシュヴァインブラーテン&クロース。祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。
ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。
あの日はヨーロッパの夏の森のような爽やかな日で、ふとドイツ料理が食べたくなって珍しく昼から店に出ていたんだ。
ドアベルが鳴った瞬間。
まるで空に放り出されたような、凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。
何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。
何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。
クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。
食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。
透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。
それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。
金曜はほとんど朝まで飲むんだから、悪酔いさせないようにしっかり食べさせないと。
ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。
客が続くようならばカフェメニューを出し、気配がなければ閉めてもいい。半分営業の状態だ。
透が来るのはいつも19時頃だから、それまでにクロースを茹でるだけの状態にしておく。
しかし……
その日は、0時を回っても、透は姿を見せなかった。
僕はそのまま店に残り、透を待つことにした。
いずれにせよ金曜は朝方まで一緒に飲む習慣で、そのうち顔を出すだろう。
仕事でトラブルでもあり、連絡する間もないほどの忙しさかもしれない。
朝方、一度だけ電話を掛けてみるも、電源が入っていないか電波が届かない……というアナウンスが流れた。
日が高く昇ってからも、透からの連絡はなかった。
僕がなにか不愉快にさせるような発言をしただとか、自覚のない不手際があってのことだろうかと、
少し思い返してみるものの、透が不快に感じているような反応をした記憶はなかった。気付いていない可能性もあるだろうが……
いや、僕が理解している限り、透は公平に相手と向き合うはずだ。関係性に関わらず。
こんな一方的な行為は、透の人間性からかけ離れている。
先週は、いつも通り週末を一緒に過ごし、透は日曜の夕方頃にロードバイクで自分のマンションへ帰った。
僕と透は、まめに連絡を取り合うことはしない。
平日に店で会うこともあるし、週末はもうずっと僕と過ごしてくれているから、
よほどのこと—— 正月に実家へ帰るなどの特例的な用事を除いて、僕らは週に2,3日は会っていることになる。
だから、連絡を取るという物理的な手段を使う必要性がなくて。
一体、いつから携帯が繋がらないのか。
それが昨日今日じゃない可能性に気付き、僕は血の気が引くという感覚を初めて知った。
それから毎日、折を見て電話を掛け続けた。
でも毎回同じアナウンスが流れ、留守電にすら繋がらない。
いてもたってもいられなくなり、透のマンションまで車で向かったりもしたが、
どこか頭の片隅で、もしこれが透の意思だとしたら……という恐れが拭いきれず、マンションの前を通り過ぎることしかできなかった。
会社の連絡先は分かるものの、僕に何ができようか。不審に思われて終わるだけだろう。
待つことしかできないのだと分かって、僕は、ただ店に居続けた。
2週間が過ぎても、透は店に現れなかった。
今日は15日で、透が初めて店に来てくれた日付だ。僕にとってとても大切な記念日で、毎月何かしら小さいデザートを用意しておいて、透が来ない日であっても一人でひっそりと祝う。
再開できた瞬間の喜びは、何度思い出しても震えるほどに感動する。
しかし、今日は——
僕は、透が以前食べたいと言っていたピスタチオとラズベリーのマカロンを持って、彼のマンションへ再び出向き、とうとう意を決して部屋番号を押した。
もし在宅していて、何しに来たんだと言われたら ——このマカロンを渡したかったからだと言えば笑ってくれるだろうか。
いつもみたいに、僕を少しからかって。
だめだ。期待はしないほうがいい。
拒絶されたとしても、そこに透が居て、元気ならそれだけでいい。
また店に来てくれるようになるまで、待てば良いんだ。たとえ永遠だとしても。
だが、2度、3度押しても、どれほど待っても、応答は無かった。
僕はその足で、涼子のマンションへ向かった。
もう、一人で抱え込むことができないと悟ったからだ。
よほど憔悴していたんだろう、涼子が僕を迎え入れる態度は、まるで妹から姉に変わったかのようだった。
僕の話を聞いている間、彼女は終始信じられないという顔で、全て否定するように首を横に振っていた。
「あの責任感の塊みたいな透君が?信じられないよ」
「もしかして、僕の好意に気付いて、嫌悪したとか……?」
自分でも嫌になるほどネガティブな思考だが、涼子は真っ向から否定してくれた。
「それ、本意で言ってないよね?」
「優しさによる無言もあるだろう?僕は、透にまだ何も伝えられていないんだよ。否定する機会を与えてあげられていないんだ。だから——」
「分かるよ。でも私が見る限り、嫌悪感なんて微塵も感じられない。それに、理由がなんであれ、バイトをしてくれている彼から連絡が途絶えるなんてことは絶対に考えられないのよ。とにかく、物理的に連絡ができない状況にいるのは確かだと思う。ヒューゴに何か原因があるなんて、考えるだけ無駄よ」
「それなら……病気や怪我で……」
「そんなばかな」
涼子は突然明るい声で、「子供じゃないんだから心配することはないんじゃない?」と笑い飛ばした。が、その顔には消しきれない不安が滲み出ている。
透と僕の間には、明確な約束事は何もない。
そうなるようコントロールしていたのは、おそらく僕だ。透が自発的に店や家に来てくれることを暗黙の了解として。
いつか。
そのうち。
少しずつ。
もしキミさえよければ。
と、気長に構えているように見せかけて。
でもそれはただ、拒まれることを怖がっている自分を騙していただけだ。
友人のままでいい、なんて大人のふりをして、逃げて。
——この、奇跡的な再会を失うくらいなら。
僕は、高校時代に透に出会っている。
一方的な出会いであるから、本人は知らないことで、まだ話していないし、敢えて話すこともないかもしれない。
姉妹校の交換留学生として選抜され、7年ぶりに日本に帰って来た僕を待っていたのは、もう僕は日本人でないという辛い現実だった。
だれもが自分をガイジンとして扱い、理解してくれる教師もおらず、絶望した留学生活だった。
だから、まさか、僕のそれからの生き方に大きく影響する出会いがあるなんて思ってもなく————
放課後のトワイライトの中、ポールを飛び越える彼に魅了されてから、どれほどの歳月が経ったと思っているんだ。
このまま、もう二度と会えなかったら……
頭をよぎるだけで、吐き気がする。
それからも、休むことなく店に出続けた。
仕事終わりの涼子が毎日寄ってくれて、客に対しても、僕に対しても、今までにないほど酷く明るく振る舞ってくれているのがありがたかった。
何も食べられず、酒も飲めず、ただただ働いている姿は、透がよく言っていたアンドロイド状態だったと思う。
ただ、ドアが開く度だけ人間に戻ったかのように、心臓が破れるほど期待する。
悲しくて、気がおかしくなりそうだった。
————それは、透と連絡が取れなくなって4度目の週末、夜の営業が始まってまもなくの頃だった。
聞き慣れたドアベルの音が、ザクリと心臓に刺さる。その期待と絶望の痛みで、自分の顔が醜く歪む。
半ば無理やり顔を向けると、そこに——— 透がいて。
日に焼けて、少しやつれている様は、まるで陸上をしていた頃そのままのようで、僕はついに幻覚が現れたかと自分の目を疑った。
透は、ドアを開けた手をそのままに、僕を見て少し立ち止まっていた。
全身からこれまで見たこと無いほどの疲労が色濃く滲んでいる。
すぐに連れがいることに気付いたが、よく来店のある見知った顔であったし、雰囲気からしてビジネス上の関係なことは明白だった。
どこに行っていたの?なにがあったの?
安堵感で崩れ落ちそうな身体を奮い起こし、そのまま通常の接客を続けた。どういう関係の連れにしろ、同伴者がいる以上、透に迷惑をかけられない。
一通りの接客を済ませると、急く気持ちを抑えて、僕は透を店の奥へ呼び出した。
疲労を隠すように、同行した女性の話を聞いている姿が、見ていられないほど痛々しい。
パントリーに入ると、透は奥の方で身を小さくして、微動だにせず立っていた。
少し気まずそうに、でも僕の好きな透のアーモンド型の目は優しくうるんでキラリと輝いている。なんてきれいなんだ。
近寄ると、透がかすかに唇を開き——、僕の名を呼んだ。
僕はもう何も考えられなくなり、本能だけで透を掻き抱いた。
愛している。
愛している。
胸がギリギリと痛い。
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