第2話 キミのことをおしえて
それ以来、おれは宣言通り、ヒューゴの店の常連となった。
さすがに毎日とはいかないが、仕事が早く終わった日は夕飯を兼ねて軽く飲んで帰宅。
早く切り上げればうまい飯にありつける、となると日々の高効率化にもつながる。
金曜は、カウンターの奥の端の席に「Reserved」の札が置かれ、おれが店の扉を開けるとそれが取り除かれる。これは間違いなく常連と自覚して良いはずだ。
時折、社内の誰か——-大抵は金子君だが、と誘い合って店に行くこともある。
おれのバイトのことはなんとなく言えていないままだけれど、弊社は副業推奨だし、いつか機会があれば話そうと思っている。
バイトは自分から積極的に入るようにしていて、急なグループ客が来た場合など、ヒューゴに頼まれるより先に自らバイトウェイターへ変身する。
飲んでる最中に働かせるなんて申し訳ない、とヒューゴは言ってくれるが、実は飲むより働いている方が楽しいんだ。
接客モードのヒューゴとは硬い会話しかできないという寂しさも取り除かれるし、なにより、ヒューゴとの作業は快適で無駄がなく、例えば運転の上手いドライバーの助手席に乗っている感じ。ブレーキを踏むタイミングが合うような。
必然的に涼子さんと顔を合わす機会が減ってしまうのは残念だが、時間が許す限り働いていたいと思わせる。
おれもチームメンバーに、働きやすさを感じてもらえるようにと思いヒューゴの所作を盗み見ているが、なにがどうというテクニックは無いらしい。
強いて言えば丁寧さであったり、雰囲気であったりといった目に見えないもののコンビネーションが『快適さ』を醸し出して、それをうまくヒューゴが纏っているのかも。
すぐに真似できるものではなさそうだな。
そんな調子で、金曜はほぼ毎週飲みに行き、バイトをしない日であっても閉店後にクローズを手伝って、そのまま朝方までだらだら飲む。
都合が悪い日もあるだろうとヒューゴには毎回確認しているものの、今のところ金曜の深夜は空いているらしい。
それにしても、毎週毎週、飽きずによく話すことがあるなとは、我ながら思う。
映画の話題が多いのは自覚できているが、他は何か決まった話題があるわけでもないのに、何時間も会話が尽きない。
そりゃお互い無言でぼーっと飲んでる時間もままあるけれど。
あ、でも、バイトとしての立場から印象に残った客の話や、ランチメニューの相談に乗ることができるようになったのは客兼バイトの特権かな。
おれはあの酔いつぶれた日以来『きちんと一人で家に帰れる程度』を限度として飲むことにし、ヒューゴも様子を見ながら酒を作ってくれている。
二人で飲んでいると寛いでしまい、家にいる感覚で酒量が増えてしまうから。
ヒューゴはいつも穏やかで、おおらかで。
おれの他愛もない話に時折挟まれる低く優しい相槌の声を聞いていると、仕事で疲労している神経がじんわり緩んで、回復してくる。
いまではこの『ヒューゴとの時間』もおれの大切なリフレッシュ手段となった。
ある金曜の夜、例によって閉店後に二人で飲んでいると、ふいに、
「今日でちょうど10ヶ月だ」と、ヒューゴが言いだした。
「何かの記念日?」
「透がこの店に来た日から、ちょうど」
携帯を出してカレンダーを確認すると、まったくその通りで。
「よく覚えてたな」
「15日、覚えやすい日だから」
「もう転職して1年か。あっという間過ぎて怖いな」
「仕事のこと、聞いていいかい?PMだとは前に聞いたけれど、具体的にどんなプロジェクト持ってるの?」
めずらしくヒューゴから具体的な質問をされた。元来、自分語りはあまり好きではないがヒューゴには自分のことを話したい。知ってもらいたいと心が弾む。
「答えたくなかったらいいんだよ」
「いや、聞いてくれ」
おれは一通り会社や業務について説明すると、ヒューゴは同じような職種の人間を知っているのか、1言えば10知る感じの理解力ですぐに把握したようだ。
今任せているシステム開発会社が海外なことから、国内ではありえないような齟齬や気苦労がある。でもこのあたりのグチめいたことは、なかなか国内の同業者から共感を得難いから、外で話す機会はほとんどない。だから事情を知っている社内の金子君と飲みながらストレスを発散させるしかないわけだ。
「スッキリした顔してる」
話し終えてグラスを煽るおれにヒューゴは微笑みかけてくれた。
顔に出るほど鬱憤を出し切ってしまったか。
「ごめん、グチだったかも」
「いや、面白かったよ」
「でも外国人の悪口みたいな、嫌な発言になってなかったかな」
おれはどうも、この目の前の金髪碧眼の男が外国人なことを忘れがちだ。
「そっか。僕、日本人じゃないのか」
驚いたようにヒューゴが言うから笑ってしまった。
「外見は違うねぇ。でも中身が日本人すぎて、おれも忘れてた」
「透も?」
「うん、稀に思い出すけど。それより、アンドロイドかなって思うよ」
「どういうこと」
「テキパキ働くじゃん。オーダーも正確だし、ずーっと笑顔で、整った外見で……ある意味人間離れしてるから」
「僕が?」
「そ」
おれはキャンドルの炎で緑色に見える瞳を見据えて、簡潔に肯定した。
「アンドロイドみたいだって?透は僕のことを全然分かっていないな、もう知り合って10ヶ月も経つというのに」
そう言うとヒューゴはスッと席を立って、厨房に行った。
その立ち姿や軸がしっかりした動きがよりアンドロイド感を増大させるんだよな。本人は全く気づいていないだろうけど。
「これは今夜、お祝いに食べようと思って取り寄せていたザッハトルテです」
テーブルに戻ってくると、アンドロイドはそう言って細長い体躯を折り曲げテーブルにチョコレートでコーティングされたケーキを置いた。
「今の今まで、このことをすっかり忘れていた。10ヶ月のお祝い。アンドロイドなら忘れないだろ」
「10進数で覚えているくらいだしな」おれは賛同してやる。
「まあ、実のところ、これを取り寄せる理由が欲しかったんだ。久しぶりに食べたくなって」とヒューゴはケーキを指差してにやりと笑う。
ザッハトルテという名前は知っていたものの、初めて食べるケーキは見た目ほど甘ったるくはなく、中に挟まっていてるジャムがしっとりと濃厚で美味い。酒によく合った。
「どこから取り寄せたの?」
何気に聞くと、「オーストリア」と予想外の答えが返ってきた。
「え!?わざわざ?」
「それを忘れたんだから、人間らしいでしょ」
「ごめんって。もうアンドロイドなんて言わないから」
それにしても海外から取り寄せるとは、スイーツにもこだわるんだな。
ヒューゴは自分用に切り分けたケーキを早々に食べ終わり、2切れ目に手を伸ばした。2人で1ホール食べきるつもりか?
「よく聞く名前だけど、日本でも売ってるんじゃないの?」
「たしかにザッハトルテ風のものはよくある。でもこのケーキは、ホテルザッハのザッハトルテ」
そしてヒューゴは、ホテル『ザッハ』のトルテ(ケーキ)だからザッハトルテだということすら知らなかったおれに、いろいろと諸説交えて話してくれた。レシピを巡っての裁判があったりと、ケーキひとつに面白い歴史がある。それほどウィーンという土地に菓子文化が根付いているのか。
「ヨーロッパはね、南の方がスイーツは豊富だしおいしい。地続きなのに地域差が大きいんだ。フランスとか。きっと王宮があり貴族がうようよ居て、菓子職人も必要だったんだろう」
「スウェーデンにはねえの?」
「そういえば、透は、ヨーロッパに行ったことがある?」
ヒューゴは少しだけおれを見て、別の質問をしてきた。答えになってはいないが、無いってことだろう。
こんな風に、答えが継続する会話に影響しない場合、ヒューゴは返答をスキップする癖がある。おれにはこのリズムが合うんだ。まどろっこしくなくて心地良い。
「一応ある。弾丸出張でドイツ5日間。でも空港と会社とホテルの3箇所しか行ってないから、あれはヨーロッパでもどこでもない気がする」
「でもドイツなら、ホテルの朝食が良かったでしょ?」
「よく知ってるなぁ。それだけは今でも忘れられないよ」
おれは多種多様なハム、チーズ、パンがずらりと並んだ朝食ビュッフェを思い出す。フルーツに、ミューズリーに、ヨーグルトに……熱々のゆで卵、際限なく勧められる濃いコーヒー。
「朝食を思い出したらドイツに行きたくなってきた」
「どうせならヨーロッパ周りたい、アフリカにも行きたい」
ヒューゴが規模が大きいことを言う。まあ我々日本人サラリーマンには取得できる休暇に限りがあるから、そんなこと夢のまた夢だよな。
「いつか……」と、ヒューゴがショットグラスに視線を落とす。
そうだな。
おれは、いつかおまえと一緒に旅行に行けたら楽しいだろうなって思うよ。
しかしおれはそれを口に出さず、代わりにモスコミュールを飲み干す。
言えばきっとヒューゴは同意してくれる。でも口約束なんて軽くしたくないんだ。実現したいことが、口約束の安心感で叶わなくなりそうで。
せっかくの本物のザッハトルテを堪能すべく、コーヒーを入れて2切れ目にとりかかる。
来店10ヶ月目か。覚えていてくれたのは単純に嬉しい。
久しぶりに食べたくなったと言っていたが、前回はいつなんだろう。取り寄せたのか、現地で食べたのか。
あと、本人は無自覚のようだったがザッハトルテの発音がときどきドイツ語風になっていたし、ホテルの朝食も知っているようだった。ドイツに住んだことがあるんだろうか。おれはヒューゴのことを殆ど知らないな。
「あのさ、ヒューゴってあまりおれに、というか他人に興味ないタイプ?」
「ん?」
ヒューゴは飲み干そうとしていたショットグラスを途中で置いて、驚いたようにおれを見る。
「どうしてそう思うんだ?」
「お客さんと個人的な話をしているところを見たことないし」
おれとも同様だけど。
ああ、そういうことか、とヒューゴはグラスを置いた。
「それはたぶん誤解。僕はお客さんに個人的な質問をしない」
「そうなの?」
日本人はまず相手のステイタスを確認しないと、落ち着いて話せないような文化だもんな。
「年齢、職業、学歴、年収、宗教、これらはまず聞かない」
「じゃあヒューゴは、おれともあまりパーソナルな話はしたくない?」
ヒューゴの言う通り、もう10ヶ月もこうして二人で飲んでいるというのに。
「いや?こちらから聞かなくても、大抵のお客さんはたくさん質問してくるし、酔うと結構個人的な話をしてくるよ。透でしょ?自分のこと話さないし僕に何も聞いてこない」
そう捉えられていたのは意外だった。
「じゃあ今夜はたっぷり質問しようかな」
おれは少しおどけて聞こえるように言ったが、ヒューゴの目から視線を外さなかった。本当に興味があるから。
「透には、僕のことを知ってほしい。なんでも聞いて」
ヒューゴは置いたグラスを再び持ち上げて一気に飲み干し、深く呼吸すると、低く囁くように言った。
空気が震え、少し胸の奥がくすぐったい。
「ずっと、お前のこと知りたいと思ってた」
ヒューゴは微笑み、「たとえば?」と促してくれる。
「まずは名字。あとは、店に居ないとき……休日の過ごし方とか」
しかしそういうことを知らないまま、10ヶ月も飽きずに話題があったってことだよな。それはそれで面白いのかもしれないけれど、少しさみしい。
「そうだな」とヒューゴは少し考えるように間をおいて続けた。
「明日、休みだろ?僕の家に来るかい?」
「それ、今からでもいい?」
ほとんど反射的に言ってしまった。
ヒューゴは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと笑って、
「もちろん。じゃあ、タクシー呼ぶよ。続きは家で飲もう」と快諾してくれた。
ちょっと困らせてしまったかと不安になるが、でも、善は急げだ。
「急にごめん。あのさ、おれ、ヒューゴのことをもっと知りたいのは本音だけど、それと同時に、別に知らなくても良いとは思ってるんだ」
「どういうこと?」
「知って何か変わるってわけでもないし……それに、これから2年、3年と経つうちにわかることもあるだろうし」
「僕も同じだよ。でもね、いい機会だし、少し進もう」
そう言うとヒューゴは携帯電話を取り出して、タクシーを呼んだ。
タクシーの中でヒューゴの名字を聞いた。
何度聞いてもうまく発音できないおれを「僕もね、実は英語の方が楽なんだ」と慰めてくれたが、おれは英語もいまいちだ。
「涼子さんとはスウェーデン語だよね?」
ヒューゴは簡潔に事情を説明してくれた。
日本で育ったヒューゴを突然スウェーデンの小学校へ転入させるのは辛いだろうと、ご両親は英語で学べるインターナショナルスクールを選んだという。以来、現地の学校へは一度も行かないままイギリスの大学に進学したそうだ。
涼子さんは移住当時まだ小さかったため、そのまま母国語がスウェーデン語となったということだった。
「だから僕らは見た目と中身が逆でね。家では、涼子が僕のスウェーデン語の先生だったな」
ヒューゴは少し茶化し気味に言う。
「日本語は、二人でたくさん練習したんだ。僕は絶対に日本に『帰る』つもりだったし。涼子はもちろんルーツが日本にあるからね」
タクシーの窓ガラスに、すこしだけ悲しげなヒューゴの顔が反射していた。いつもの笑顔に混ざった悲しみは一瞬だけで、ヒューゴはおれがそれを見ていたことに気づいていないだろう。
見た目から期待される中身が、それぞれ異なる兄妹。
ふたりとも容姿には恵まれているけれど、スウェーデンでも日本でも、楽しいことばかりじゃないんだろうな。
なにか力になれることがあるだろうか。さっきのような、悲しい顔を一瞬でもさせないように。
ほどなくして、タクシーは白いマンションの前に停車した。
部屋は最上階にあたる5階の角部屋だった。
ヒューゴは「ミカサ スカサ」と言っておれをソファへ座るよう促してくれる。
ぐるりと見回すと、広めのL字型の1LDKのようだ。
家具は、ソファとテレビの間にカフェテーブルがあるだけで、まるで生活感のカケラもない。リビングと、その向こうを分けている間仕切りが木の枝そのままをいくつも並べてできていて、白い壁と調和してあたたかみがある。
「スッキリした部屋だね」
オブラートに包んだ感想を述べると、「ほとんど店にいるから」と。たしか店の上階に部屋があると言っていた覚えがあるから、そっちが生活の主体なのかもしれない。この部屋には毎日帰るわけじゃないのかも。
「テレビが大きい」
「観たい映画があればダウンロードしていいよ」
部屋の主はリモコンをおれの前に置き、浴室へ行ったようだ。
何か観たいものあったかな。おれはストリーミングサービスの新作リストを前後しながら探す。
どうやら日本向けのサービスではないようでタイトルリストを眺めているだけでも新鮮だ。
なかなか視聴タイトルを決めあぐねていると、シャワーを浴び終わったらしいヒューゴがリビングに入ってきた。
「タオル出しておいたから」
振り向くと、スウェットを履いただけのヒューゴが髪を拭きながら立っていて。
「お前……」
髪を下ろしたヒューゴは、まるで別人だった。
濡れてやや濃くなった金髪が顔にかかり、前髪の隙間から、青く光る瞳が見え隠れする。上半身の鍛え上げられた筋肉は、元アスリートのおれでも目を見張るほど絞られている。よほどストイックな生活をしていないとできないはずだ。
「なに?」
ヒューゴはバサバサとタオルで乱暴に髪を拭きながら、おれを視線で射抜く。
「お前さ、そんなに鍛えてたのな」
あ然とした顔は隠せなかったかもしれないが、おれはなんとか返答した。
「特になにもしてないよ」
余裕しゃくしゃくで半裸の男は答えると、おれの隣にどかりと腰を下ろしてソファの背もたれに両腕を広げた。
すぐ近くにある肩が、シーリングライトを反射して滑らかに光り、顔を寄せるとボディソープの香りがする。
「おれもシャワー借りるね」
急いで自分をソファから引き剥がし、浴室へ向かった。
隣りにある長い手や広い肩幅が醸し出す包括的な雰囲気に飲まれ、そのままもたれかかりそうになってしまった。
通常なら、スキンシップで済む程度のことだと思う。なのに、ヒューゴが相手だと思うと奇妙な罪悪感のような自意識が出てしまった。
ただ、触れたいと思ったのは取り消し用のない事実だ。
胸の奥に湧いたザワザワした感覚を洗い流したくて、おれはしばらく頭から熱い湯にあたり続けた。
風呂から上がりリビングへ戻ると、ヒューゴはさっきと同じ姿勢のままで、映画のタイトルリストを眺めているようだった。
「服、貸して」
「奥にクローゼットがあるから、適当に取っていいよ」と頭で間仕切りの方を指して言う。
木の間仕切りの裏へ行くとベッドがあり、脇を抜けるとウォークインクローゼットになっていた。いい部屋だな。
未開封の下着やTシャツがすぐ手前の棚に置いてあり、用意してくれたんだと知る。あとは、手近なところにあったハーフパンツを借りることにした。
リビングに戻るとヒューゴはキッチンに移動していて、「モスコミュールでいいよな」とシェイカーを振っていた。
まだ上半身裸で、腕や胸の筋肉が動いているのがよくわかる。店で着ているシャツの下はそういう風に動いていたんだ。
見ていると———またいけないことをしている気がして、おれは急いで視線をそらす。
「いつも家では何してるの?」
「映画観るか、寝るか。見ながら寝落ちしている場合もあるけどね」と言いながらヒューゴはソファに戻り、グラスとつまみの乗った皿をおれの前に置いてくれる。
「冷たいものしかないけど」と出してくれたのは見たことがない組み合わせのピンチョスだった。
「これ、一緒に食べるの?」
「そう。グレープとチーズとオリーブ。3つまとめて」
ヒューゴはひとつ摘んでおれの鼻先にもってくると、くいと顎を上に動かすようにして頭を少し上に動かす。口を開けろってことか。
おれはそのとおりパクリと口に入れた。ヒューゴがスティックだけをおれの口から引き抜いて、「どう?」と聞いた。
塩気と果汁の混ざり具合が非常によく、今まで知らなかったことが悔しいくらいだ。
「これは酒が進みますね」
肯定すると、ヒューゴは目だけで同意した。
「映画、オススメある?」
「そうだな、たぶん透はB級映画が好きなようだから」
ヒューゴはおれの検索結果をそのままスクロールして聞いたこともないホラー映画を表示する。「たぶんゾンビもの……」
おれはヒューゴが言い終わらないうちにリモコンを奪い、再生ボタンを押した。
しばらく黙って飲みながらB級ならではのまどろっこしいストーリー展開を楽しむ。楽しんでいるのはおれだけかもしれないが。
真剣に観ているのがバレたのか、「涼子もね、ゾンビものが好きみたいだよ」とヒューゴが笑う。
「透、兄弟は?」
「姉が一人」
「どおりで」とヒューゴが呟く。「甘えるのが上手いと思った」
「そんなことない」
一応否定してみるが、実際心当たりがある。
ヒューゴの親切に甘えてばかりだもんな。ほとんど毎週飲ませてもらって、美味い飯食わせてもらって。今夜なんて快く泊めてくれて
。
「甘えられると嬉しいものだよ」
妹の涼子さんのことを思い出しているのか、血の繋がっていない兄は優しく微笑む。
店での様子からも見て取れるが、この兄妹は血の繋がりなどまるで意に介さず相当に仲が良い。当たり前のようにお互いを思いやる姿は見ていて心があたたまる。
「おれも、姉より兄が欲しかったなぁ。ヒューゴみたいな優しいお兄ちゃん」
「ひどいな。僕ら同じ年なのに」
ヒューゴはシルバーに輝く目でおれをキッと睨みつけた。口元は笑ったままだ。
「おれの歳知ってるの?」
1年近く付き合いがあればどこかで年齢の話しくらい出たのかもしれないが、おれはヒューゴの歳を知らなかったし、それに落ち着き払った態度から勝手に年上かと思いこんでいた。
「知ってるよ。でも誕生日は知らない。いつ?」
「8月1日。おまえは?」
「11月」
なんだよ微妙に年下かよ。おれ、もっとしっかりしなきゃなあ。
「今日はヒューゴのことがけっこうわかったよ。なんにもないけど良い部屋に住んでる、名字は発音できない」
それと一切のムダがない筋肉質な身体、髪を解くと伸ばしかけの前髪が顔にかかって、とんでもなく男らしくて危なそうな雰囲気が出ること。オフのヒューゴを見られたことは、常連を越えて友人になったことが実感できて、かなり嬉しい。
「透のことも少し分かった。お姉さんがいる、ゾンビ映画が好き、夏生まれ」
おれたちはお互いの情報の少なさに、同時に吹き出した。
時計を見ると、すでに朝の3時を少し回っていた。
「続きはまたにして、今日はもう寝ようか。おれ、ソファ使うから」
「いいよ、透がベッド使って」
ヒューゴはおれの返答を待たず早々にソファに横になった。しかし、さすがにそれは悪い。急に泊まりに来ておいて。
クローゼットに行く時にちらりと見たベッドは、シングルサイズ2つ分はある大きさだった。でも男二人となれば、おれはともかくヒューゴには窮屈かもな。
でもこの背の高い男はもうソファから動きそうになく。
またしても甘えさせてもらうとしよう。
「じゃ、お言葉に甘えて。ベッド行くね」
「おやすみ」
ソファの上で伸びをするしなやかな体躯が、まるで金色のヒョウみたいだ。
「おやすみ」
そう返して、一人には広すぎるベッドに横になった。
友達の家に泊まるなんて、何年ぶりのことだろう。懐かしいような、新鮮なような。
さすがの酒量のせいかすぐに寝入ったらしく、喉の乾きで目を覚ますと部屋に薄明かりが差していた。
キッチンでペットボトルの水を見つけて飲みながら、ヒューゴに直射日光が当たってしまわないようブラインドの隙間を閉じる。
「ん……?」
しまった。逆に起こしてしまったか。
ヒューゴが少し上体を起こした。
「水、飲む?」
飲みかけのペットボトルを差し出すと、ヒューゴは角張った長い指でそれを受け取って飲み干した。
今なら。
「おい」
おれは空いたペットボトルを受け取る次いでに、ヒューゴの腕を引っ張る。
「ベッドいけよ」
「ん。そうする」
寝ぼけているのか、ヒューゴは大人しく長身の身体を引きずるようにベッドへ向かった。どさり、と音が聞こえるから着くやいなや倒れこんだんだろう。
交代にソファで寝直そうと思いながらキッチンでペットボトルを捨てていると、いきなり寝室からずかずかと大股でこちらへ来る音がした。
寝たんじゃないのか、と言おうとしたところで、ヒューゴはおれの手首をグッと掴み、そのまま寝室の方へ連行してしまった。
そして無言で、薄く開けた目でおれをじっと見たかと思うと、自分はベッドに潜り込んで片側を空けた。
「狭くね?」
おれの呟きに返事はなかった。
できるだけ静かに空いている隙間に潜り込み、ヒューゴに背を向けて横を向く。隙間と言ってもシングルベッド1つ分はあるからおれには十分だ。
規則的に聞こえてくるヒューゴの寝息につられ、おれはすぐにうとうとと心地よくまどろみ始めた。
しかし寝入りばなに、ギッとベッドが軋んで目が覚めた。
一瞬身体がこわばる。ヒューゴが後ろからおれの腹に腕を回して、引き寄せた。
呼吸で上下する胸が背中に当たるほど近い。
「誰と間違えてんだよ」
おれは腕から逃れようと身じろいだ。
「……透、でしょ」
ヒューゴは腕にぐっと力を入れてさらにおれを引き寄せて、ほとんど耳に唇が当たる。掠れた低い声が身体を伝って、一瞬で動けなくなった。
すっかりおれを抱きまくらにしてしまったようだ。
それにしても、自分より大きいものに包まれるなんて経験、したことがないわけで……
正直、強烈な安堵感だった。暖かくて、弾力があって、おれは自分の身体の芯からじんわりとほぐれていくのを感じながら眠りに落ちた。
***************
「おはよ」
ぼんやりした視界のまま顔をあげると、ベットサイドに座りおれを見下ろすヒューゴと目が合った。いつのまにか起きて、おれの抱き枕は解除されていたようだ。
「よく眠れた?」
「熟睡」
夢すら覚えていないし、起こされなかったら寝続けていたかもしれない。
「それはなにより。コーヒー淹れてくる」
ヒューゴは立ち上がり間仕切りの向こうへ行った。
少しすると、キッチンからコーヒーのいい香りが漂ってくる。
とりあえず起きるか。肘で支えて上体を起こすと、マグカップを持ったヒューゴがベッドに戻ってきた。
ヒューゴはカップをおれに手渡し、ベッドの端に腰掛ける。
「おれ、ベッドでコーヒー飲むなんて初めてだ」
湯気と一緒にコーヒーの香りを思い切り吸い込んでから、こぼさないよう気をつけて一口すする。うまい。
「淹れてくれる人、いないの?」
「いねぇよ」
おれはあえてぶっきらぼうに答えた。
「ふーん。モテそうなのにねえ」
「そりゃお前だろ」
コーヒーを飲み終えると、ヒューゴは少し走ってくるという。毎週休みの日はまずそうする習慣だとかで、おれは単純に感心する。
やっぱりあの身体は何かして維持してるんだ。
一緒に走るかと誘ってくれたが、おれはランニングシューズがないことを理由に断った。
そして、右足首に手をやる。
ケロイド状に残った傷に指先が触れると、今でも少しだけしびれがある。
中高校時代、棒高跳びでそこそこ良い記録を持っていたが、大学でダメになった。
踏み切った時の、あの足首の痛み。
元々、スポーツ推薦で大学に進んでいたから、怪我をきっかけに別大学へ編入した。
アスリートとして飯が食えるような実力では無かったんだ。
それがあったから、今の仕事に就けたのもあるし、結果的によかったんだと思っている。
挫折感や惜しみはとっくに乗り越えているから後悔はない。
ただ、もう思うようには走れない。
「今日も泊まっていくよね」
玄関でシューズを履きながら、ヒューゴはこっちを向かずに言う。問いかけというより決定のような口ぶりだ。あまりのさり気なさに聞き逃すところだった。
「え?あ、うん」
一緒にいるだけでなんか楽しいし、酒も飲み放題だし、もっと映画も一緒に観たいけど。そんなに甘えていいのだろうか。
「今度、自転車で付き合うよ」
ドアを開けて出て行くヒューゴの背に向かってそう言うと、ヒューゴは振り返ってにっこりと微笑み、親指を立てた。
家主が帰ってくるまで特にすることもなく、おれはソファにだらりと寛ぎ、ストリーミングサービスのタイトル一覧を眺めたり、スマホを触ったりして過ごした。
初めて来た他人の家だというのに、自室のようにリラックスできてしまう。
店の延長線上にあるような慣れからくる感覚なのかと思ったが、もしかすれば『場所』という入れ物より、ヒューゴの傍にいることに慣れているからか。
さて、今日は土曜日だ。
このまま家でのんびりするのもいいし、遅くまでどこかに遊びに出るのもいい。今日も泊まっていけと言うのが本音ならば。
誰かと週末まるごとを過ごすなんて久しぶりだ。
そういえば、と独りつぶやき、あらためてスマホを取り出してMAPアプリを確認する。
店からタクシーで10分も掛かっていないようだったから、家からそう遠くないはずだ。マンションから現在地までを経路検索してみると、予想通りで自転車で20分少々と表示された。
次は自転車で来よう。
ジョギングに付きあって、あの美麗な完全体がヘトヘトになった姿を観てみたい。
どちらかと言えば一人でも楽しめるタイプであまり孤独を感じたことはないけれど、今ではもう、ヒューゴに会う前の自分が金曜の夜に何をして過ごしていたか思い出せないほどだ。
カチャリ、と鍵を開ける音がし、もう走り終えたのかと若干驚きつつも急いでドア前まで行く。
開くと同時に「おかえり」と出迎える。
「えっ?」
しかしドア越しに聞こえてきたのは女性の戸惑った声だった。
一瞬、嫌な考えが頭をよぎる。勘弁してくれ。早速かよ……
「あっ!」
ドアを開けたのは、驚愕した顔の涼子さんだった。
「透くん!?」
涼子さんは玄関に突っ立ったまま呆然として、
「うそ……すごい」とつぶやく。すごいって何だ。
「あ……お邪魔してマス……」
おれは見知らぬ人でなかったことに心底安堵する。ヒューゴとの週末がなくなるんじゃないかと一瞬ゾッとしたんだ。
「ごめんね急に。ヒューゴに電話したら、入ってて良いって言うから」
とりあえず上がってもらう。俺んちじゃないけど。
涼子さんはキッチンへ持ってきた紙袋を置いて、「そうかぁ」と一人で何やら納得している。
俺がソファに座ると、涼子さんも隣に座る。
「お店、今日は休み?ヒューゴも休みだって言ってたけど」
「今日はアルバイトの人がいるから大丈夫」
そういえば平日のランチの話になったときに阿部ちゃんから聞いたな。おれは未だに話す機会がないが、一度帰り際らしいところをちらりと見かけたことがある。ヒューゴとは違う感じで顔立ちの整った若者だった。おそらく日本人ではないだろう。
「あ、そうだった」
涼子さんはスッと立ち上がりまたキッチンへ向かい、少ししてから戻ってくると、「はい」とカラフルなグラスをおれの前に置いてくれた。
「アイスアップルティ」
グラスの中にはびっしりと果物が入っている。
「これ、紅茶とアップルジュースとね、それにブドウとオレンジとブルーベリーを凍らせたのを氷の代わりに」
見た目も華やかで、みずみずしくて、見ているだけで喉が乾いてくる。
特別感があるな、これ。
「美味しい」
一口飲むと、ふわりと鼻から抜ける爽やかなりんごの香りがたまらない。
「よかった。透くんが気に入ったならもうヒューゴには聞かなくてもいいかも」涼子さんは笑い、「でもビックリした」と続けた。
「ごめん。おれが居るなんて思わないよね」
「私、嬉しいの。嬉しくてビックリした」
「なんで?」
フルーツをストローで突いて溶かすと、また違う風味になる。
「そうねえ、まず彼が誰かを家に置いて外出するなんて、ありえないから」
どういうことだ。
「ヒューゴね、家に他人を入れないのよ。たぶん私と、私の彼氏くらいじゃないかな」
じゃあ……恋人も家に呼ばないのだろうか。それとも、恋人以外で、という前提条件があるのかもしれない。
おれは尋ねたい気持ちをぐっと堪えた。
本人がいないところで、そんなこと知ってどうするんだ。本当に知りたいかどうかもわからないくせに。
「おれ、居てもいいのかな」
「当たり前じゃない。透くんがヒューゴと仲良くなってくれてよかった。本当に」
「そう?そう言ってもらえると、嬉しいけど……」
閉店後に店で飲ませてもらっている客なんて、おれが知る限るでは他に居ないし、平日のバータイムでもお構いなしで食事を出してくれる。傍から見れば『常連』の特権といえばそうなのかもしれない。でも、常連になる前から、10ヶ月前にはすでにこうだったわけで……
しかも今、その店のオーナーの家でおれは寛いでいて。あらためて、自分の置かれている状況の例外さを実感する。
「ねえ、透くん知ってる?たぶん最初にキミがお店に来た日なんだけど」
涼子さんもストローでアイスティの果物を小突く。シャクシャクと小気味良い音が涼しげだ。
「ヒューゴったら帰りに突然私の家に来たの。連絡も寄越さないで。そんなこと滅多に……もしかしたら初めてだったかも」
おれはなにか面白そうな話が聞けそうだと身を乗り出したが、そのときガチャリと玄関のドアが開いた。
「なんだよ」
今度こそヒューゴだろう。
「タイミング良すぎ」涼子さんはおかしげに笑った。
ヒューゴはTシャツを脱ぎながら部屋に入ってきて、おれのアイスティのグラスを引っ掴んでストローを使わずに飲んだ。
「あ、おれの……美味いやつ……」
「あとで作ってあげるからね。酒入りで」
ヒューゴはウィンクしてグラスをテーブルに戻す。やたら自然で、こういうところはひっくり返っても真似できねえなあと思う。
「名前、どうするの?」
涼子さんが自分のグラスを掲げてヒューゴに尋ねた。新メニューになるのか。
「トオル」
そう即答するヒューゴに涼子さんは目を大きく開いた。
「聞くまでもなかったわ」
「えっ、おれ!?」
「冗談だよ。名前は後で考える。来週から出そうか」
「決まりね。じゃ、私帰るね」
「もう?もっと話そうよ」
さっきの話の続きも聞きたいし、それに、おれは二人の間に流れている温かい空気を感じるのが好きだ。家族愛なんだろうけれど、同時に親友のような絆も見て取れる。
「ありがと透くん。でも、これからデートなの」
「どこ行くの?」
ヒューゴがバスルームの方へ向かいながら尋ねる。
「お家デート。あなたたちと一緒よ」
涼子さんはにっこり笑って帰って行った。
おれがヒューゴに顔を向けると、兄は外国人みたいに肩をすくめて見せただけで否定せず、そのままバスルームに消えてしまった。
涼子さんに誤解されたのならまずい。
おれが無理やり泊まりに来た経緯は知らないだろうが、なんだか、今していることは、傍から見れば、ヒューゴに連絡先を渡す客たちが望んでいることなんじゃないか?
たまたま同性だから、友達のように扱ってくれているだけじゃないだろうか……
シャワーから出てきたヒューゴはそのまま寝室へ行き、着替えてくるとおもむろに車のキーを掴んだ。
「どこか行こうか。リクエストある?」
今すぐにでも出かける様子だ。
「おれ、来てよかったのかな」
ヒューゴは前髪の間から覗く目をキラリと光らせた。
「涼子が何か言ったのか?」
「いや……」
彼女は、おれとヒューゴが仲良くなって嬉しいと言ってくれていた。その言葉には真実の響きがあったし、涼子さんは嫌味を言うような人ではない。
「仲良くなって嬉しいって言ってたけど……。おれさ、昨日の夜に無理やり来たでしょ。迷惑じゃなかったのかなって、今さら」
「最初は僕が誘っただろ」
「それは、”今日”のことだろ。あの場で急にじゃなく」
「同じことだ。僕はずっと、金曜に透を連れて帰って来たかった」
そう言うとヒューゴは軽く髪を掻き上げ、車のキーを指先でも手遊びながら続けた。「ほら、行くぞ」
「あ、うん。……おれのマンションにも寄ってほしいかな。PC取りに」
二人して靴を履き、ヒューゴが支えてくれているドアから出る。
「仕事?」
「ってほどじゃないけど、仕上げたい資料があって。残業よりマシだろ」
「働くねぇ」
「ただの飲んだくれじゃないってこと」
胸の辺りに、ざわざわとしたこそばゆさが生まれて、建前上の会話でやり過ごすのが精一杯だ。
エレベータで地下の駐車場に降りると、すぐにヒューゴはロックを解除したようで目の前の青い車のヘッドライトが点滅する。
ヒューゴは助手席のドアを開けておれを促すと、すぐに運転席に回り込んだ。
部屋を出る際にも思ったが、面倒見が良いというか、エスコートが手慣れている。そりゃエレベーターのボタンホールドなんかはおれだってできる。でもそれはビジネスマナーだったり、もっと前なら部活の上下関係だったりと、おれがやってるのはいつも「見かけ」だけだ。
「SAABなんて、おれ見たの初めてかも」
「自分の車を輸送してきたんだ。日本はまだガソリン車に乗れてよかったよ」
「もう長いの?」
「そりゃあね。頑丈だけがとりえ」
「へえ。おまえみたいだな」
「どういうこと?」
車は年齢を感じさせることなく発進し、駐車場から道路へと続くスロープを上がる。ヒューゴの右手の動きで、はじめてマニュアル車だと気付いたほどスムースだ。
「健康だってこと」
事実、体調不良だと聞いた覚えが無い。
「他にもいいところはあるだろ。料理が上手いとか、いろいろ」
ヒューゴは助手席に座るおれを横目で一瞥する。この優しく責めるような視線がかわいらしく感じられて、好きだなと思う。
料理については、自画自賛するまでもなく事実めちゃくちゃに美味いものを作る。
それに運転も上手いようだ。正直、良いところなんてありすぎて挙げられない。
おれが感じるヒューゴの良さは、物質的なものを取りあげて表現できないんだよな。
声や顔が良いのは認めるし、料理も酒も美味いものを作り出す。
ただそれら全てを上回って、おれはヒューゴの持つ独特の寛大さや、纏わりつく優しい空気感や、周囲に与える居心地の良さを素敵だと思う。
そういうことを本人に向けて言葉にしてしまうと、まだチープになりそうで。
「他には……ちょっと思いつかないなぁ」
「はは、じゃあもっと頑張るよ」
ヒューゴは楽しげに笑った。おれのからかいに乗ってくれたようだ。
昨夜は深夜で周辺景色がほとんど見えていなかったが、どうやらマンションは高台の住宅地にあるようで、車はなだらかな坂道を下って街の方へ進む。
外は快晴で、年々、梅雨が梅雨らしくなくなってきているのも気のせいじゃないかも。
車の中で行き先を尋ねると、巨大モールの名前が返ってきた。
でも、土曜は地獄のように混んでいそう。ヒューゴ目立つだろうし。
と、思いながら運転席を見てギョッとした。
「髪……、結んでない?」
「もしかして今気づいた?」
「うん」
「トール君、もっと人に興味持ったほうがいいんじゃ……?」
これは絶対にすごく目立つ。あんまりカッコイイのも手放して喜べないよなあ。
モールの駐車場は想像通りの混雑で、おれは駐車位置の目印がある柱を携帯で撮った。
ヒューゴはそれを見て笑う。いやいや、忘れるんだって。
館内へと続くエレベーターに乗り込む。
「おでかけデートだね」とおれがふざけて言うと、「それでは遠慮なく」という返事が返ってくるやいなや、手が強く握られた。
それから、おれはこの大きい外国人に手を引かれるままに店内を連れられ、振りほどこうにも握力が叶わず、ガッチリと繋がれたまま歩くはめになった。
そんなおれたちを追い抜いてからわざわざ振り返る人も何人かいて。
もういたたまれなくなってきた頃に目的の店に着いたらしく、そこでようやく手を離してくれる。
「ヒューゴよ」
「ん?」
「覚えてろよ」
「はは、あとでアイスクリーム買ってあげるからね?」
子供じゃねーよ。
ヒューゴはこの店だけで全て揃えるつもりらしく、日用品や下着やらをどんどんカゴに入れていく。
「ずいぶん買うね」
「これ全部、透の」
「はあ?」
素っ頓狂な声をあげたおれに、「毎週泊まりに来るでしょ」と当然のように言う。
「ちょっとまって。本気で言ってる?」
おれは、商品をかごに入れるヒューゴの腕を掴んで制止し、顔を覗き込んだ。
「あのね。おいで、透」
ヒューゴは買い物かごをそのまま床に置くと、おれを併設されているカフェの方へ連れて行って座らせた。
注文したアイスコーヒーが運ばれてくると、それまで無言だったヒューゴが口を開く。
「場所が場所だし、今はこれしか言わない。よく聞いて」
少し怖いとも取れる真面目な顔でジッとおれの目を見ながら、低く落ち着いた声で言った。
「僕は、透と過ごす時間を作る。強引と思われても構わないと決めたんだ。会えない時はいつでもそう言ってくれていい」
お互いのグラスから水滴が落ちる。
じっとおれを見ている青い瞳はいつもより光りを湛えていて、こんな真摯な視線から目をそらすことは到底考えられなかった。
会う時間を作るってことは、会いたいと思ってくれているんだよな。
おれだって、ヒューゴとこれから更に親交を深めていきたい。もう常連客ではなくて友人として。
「わかった。これから週末は、ヒューゴの家で過ごす。お前も来てほしくない日はちゃんと言えよ。—— 戻るぞ」
おれはアイスコーヒーを飲み干して席を立った。
ヒューゴは髪をかき上げ、そのまま少し考えるように頭上で手を止めると「強引すぎたか」とおれを見上げた。
「いや、嬉しいよ」
再びきちんとヒューゴの目を見つめ、思ったままに返した。柔らかい笑顔が返ってきて、胸の辺りで何かが弾け、それは温かくじんわりと身体に染みてくる。
おれはなぜか、この瞬間を、たぶん一生忘れないだろうなと思った。
おれたちは買い物を終えるとすぐ駐車場へ向かった。ヒューゴもおれと同じく、モールの騒々しい人混みは好きじゃないようだった。
ヒューゴは車を停めた場所をちゃんと覚えていて、携帯の画像は削除行きとなった。
モールからおれのマンションに向かう道すがら、目に入ってくる景色はすべて目新しい。開発による変化もあるだろうけれど、中高校時代のおれは本当に部活しかしてなかったんだなと今更ながら残念に思う。あの頃は棒高跳びが生活の中心で、外の世界のことなんて眼中になかった。時間的にも余裕が無かったのもあるが。
マンションに到着すると、おれはとりあえず明日の着替えと会社PCを持って急ぎ階下へ降りて行く。
ヒューゴはエントランス前に横付けた車に寄りかかって立っていた。風に髪がなびくままにさせている。離れて見ても、いい男だなと思う。
おれが近寄るとすぐに助手側のドアを開けて、「じゃ、アイスクリーム食べに行こうか」と弾んだ調子で言う。
てっきり冗談かと思っていたが本気だったのか。
特に甘いものを食べる習慣はないけれど、蒸し暑い日のアイスクリームは大歓迎だ。
「少し、海の方へ行く」
と、ヒューゴは思い当たる店があるようだ。こいつが連れて行ってくれるのなら味はまず間違いないだろう。
車窓から通る風が気持ちよく、今日はこのままドライブがいいかなと思う。
「風が気持ちいい」と思ったままに言うと、「暑くない?」と気遣ってくれる。
「暑くはないけど……」
答えながらレジスターに手をかざすと弱冷風が当たった。それを見て、運転席のヒューゴが困ったように肩をすくめる。
「これ以上冷たい風が出ないんだ。だから、夏は地獄」
「マジか」
「車、買い換えようかなぁ。毎年どんどん気温が上がっている気がする。ドライブする機会が増えるなら……」
「自転車はどう?涼しいよ?」おれは自分で言いながらも(直射日光がジリジリ熱いけどね)と黙って反論した。
「それはそれで、近々買うつもりだ。選んでくれる?」
「喜んで!ホームセンターの自転車売場でもいいし、どこでもいいよ。ヒューゴの身長なら、取り寄せになる可能性があるから早い方が……明日はどう?」
「本当に好きなんだな」
はしゃぐおれを見てヒューゴは笑った。
サイクリングロードをのんびり流すのも、テントを持っての遠征も、きっと楽しい。
海沿いの街道をしばらく進むとちょっとした駐車スペースになっている車寄せで停車した。
「着いたよ」
との掛け声に窓から反対車線の歩道側を覗くと、小さな小屋が建っている。
「ジェラトリア……?」
書いてある横文字を子供みたいに声に出して読んでしまった。
「そう。ここは春から夏の週末だけしか開いていないんだ」
往来に気をつけながらドアを開け、小走りで店内へ向かった。こんな小さな店、よく知ってるなと感心する。
店内には8種類のジェラートがあって、そのうち半分はバニラやチョコレートなどよく知るものだったが、残りは全て野菜の名前が書いてあった。
「トマト、オレンジ……、あとヤギミルクとチョコレートにします」
ヒューゴが手早くオーダーすると、「はいよ。こちら試食ね」と店主らしいおじさんが、スプーンで2つ別々のジェラートをすくって差し出してきた。
「こっちがバラで、こっちがキウイ」
「バラ?」
受け取りながらつい呟く。花のジェラートなんてあるのか。
「知り合いがバラのハウス栽培をしていて、試作品ですけどまあどうぞ」
口に入れると、ハッと息を呑むほど豊かで上品な香りが鼻腔に流れてくる。
「どう?」
キウイの方を食べたヒューゴが聞いてくる。
「美味い。でも少しでいいかな」
本音を言ってしまい、やや慌てる。「あ、すみません、悪い意味じゃ……」
「いいよいいよ、お兄さんの言う通り。これは香りが強すぎて一口で十分。それ以上は気持ち悪くなっちゃう」
そう言いながら、おじさんは手際よくカップにジェラートを詰めてくれた。
カップを2つ受け取ると、ヒューゴは店外へ出て、日陰に置いてあるガーデンベンチに座るやいなや、「あとカプチーノ2つください」と思い出したように声を掛ける。中から「はいよ!」と威勢のいい声。八百屋か魚屋を思わせるような。
「おすすめは断然、トマト」
ヒューゴはうっすら赤みがかったジェラートを指差した。
「とりあえず全部シェアしよう。いい?」
「もちろん」
おれはまずヤギミルクを試してみた。あっさりしていて優しい味だ。まあ想像通り。
次に、ヒューゴのおすすめのトマト。
「!!!」
透明なトマト味とでも言えばいいのか、さっぱりした甘さの次にトマトの風味がちゃんとくるのが堪らない。
「これは美味いよ、ヒューゴ」
ヒューゴは運ばれてきたカプチーノにさっそく手を伸ばしながら、目だけで(だろ?)と応答した。
すぐに4種類とも食べ終わり、カプチーノのカップもそろそろ空きそうな頃にヒューゴは店内へ戻った。
店のおじさんと楽しげに話す声が聞こえていたが、すぐに両手にカップを持って戻ってきた。
「残りの4種類、とトマトのおかわり」
ジェラートで2ラウンドなんてしたことないが、大歓迎だ。
「ナス、キウイ、ホワイトチョコレート、ラムレーズン。毎週同じものがあるわけじゃないんだ。あるときに全部食べておかないと後悔することになる」
ヒューゴは全てのカップをテーブルの中央において、「トマトは全部食べていいよ」と譲ってくれた。
「さすが、美味いもの知ってるなあ」
全て甘さ控えめなのに味は濃厚、野菜も果物もフレーバーがガツンと来る。
「連れて来た甲斐があるよ。小林さんっていうんだけど、うちのデザートも作って貰っているんだ」
「あ、そうなの?ヒューゴか涼子さんが焼いてるのかと思った」
「ぼくら凝ったものは作れないから。小林さんはイタリアのレストランで長年デザートを担当していたんだ。納得の味でしょ」
「すごい人がいるもんだなぁ。こんな海辺に」
すると「道楽ですよ」と言いながら小林さんはビール瓶を片手に店から出てきた。
「あっちは定年が早いから、帰国して今は釣りとサーフィン三昧。ヒューゴをサーフィンに誘ってるんだけどね、お兄さんもどう?」
なるほど言われてみれば、仕草のこなれ感が日本人と少し違う。ちょいワルおやじってこういうタイプを指すのかな。
「釣りなら付き合いますって」とヒューゴが澄まし顔で返答する。
「それじゃナンパできねえっつうのに、いつも断りやがる」
ヒューゴは小林さんを親指で指しながら「動機が不純だろ?」とおれに向かって言った。
「全部こいつに持っていかれますよ」
今度はおれがヒューゴを親指で指して小林さんに忠告した。
「そりゃそうだ!」
小林さんは日焼けした顔をクシャクシャにして大声で笑った。
実際のところ、忠告は半分冗談半分本気だ。
想像に難くなかったとはいえ、ヒューゴはよくモテていた。
バイトに入るようになり客とは違う目線から見ると、それは羨ましいなんて生ぬるいものではなく、気苦労でしかないようだった。
お客さんである以上は無下にもできず、しかしホイホイと付き合うわけにもいかず。
とにかく波風を立てないように穏便に、をモットーにしているようだ。
以前、涼子さんのことを奥さんだと思われても否定しない、と話していた意図は十分理解できた。
ヒューゴの接客は間違いなく丁寧だが、おれがアンドロイドだとからかうように、やはりどこか機械じみているのは人間関係で問題を起こさないためだろう。
そんなだから、商売をしている以上、ナンパだとか、後々面倒くさいことになるようなリスクは負わないはずだ。
ま、小林さんとのやりとりを見る限り、このお誘いはいつもの冗談なんだろう。
おれたちは小林さんに別れを告げると、近くにある適当なイタリアンレストランで遅めのランチをしてから少し海辺を流した。それにしても、『適当な店』というやつは大抵がイタリアンだな。
店を出て車に向かうと、ヒューゴがまた助手席のドアを開けてくれる。楽なんだけど……。このランチにしても、ヒューゴが時々作ってくれる賄いパスタの方がずっと美味しいと感じてしまった。
いろいろ慣れつつある自分がちょっと怖いな。
ヒューゴの運転は快適でどこまでも乗り続けてしまいそうだったが、おれは仕事が残っていることを思い出してしまい、ドライブは2時間ほどで切り上げることになった。
ようやく夕方になろうかという健全な時間にマンションに到着し、着替えが入ったバッグを寝室のクローゼット付近に置く。
『本当に毎週来るけどいいのか』とおれは心の中だけで問うた。
ありえないとはいえ、「やっぱりだめ」なんて答えが返って来ないように。
PCを小脇に抱えてリビングに戻ると、ソファでTVのリモコンを操作しているヒューゴの隣に滑り込んであぐらを組み、そのまま資料作成に取り掛かった。
「映画観てていいよ。気にならないから」
実際おれは周囲の音があまり気にならないし、資料はすでに内容が固まっているから、あとはただ手を動かすだけだ。
しかしヒューゴはTVを消し寝室からタブレットを持ってくると「ちょうど読みかけの本があるから」とソファに体躯を投げ出し横になった。座ったままのおれを足の間に挟み込むようにして。
いっそこの長い足をPCデスク代わりにしてやろうかと思ったが、すぐに思い直して、太ももの上に乗っているヒューゴの右足を持ち上げて足の囲いから脱出した。
さすがにヒューゴの体温がまとわりついたまま仕事に集中できる自信はない。
ふと画面から視線を上げると、正面に読書中のヒューゴが見える。
いつも微笑んでいるからそういう地顔かと思っていたが、どうやら素の表情は異なるようだ。切れ長の目はすぅっと氷のように光を蓄え、細く真っ直ぐに伸びた鼻梁と薄い唇。黙っていれば冷酷そうに見えなくもない。
しかしまあ、どんな表情で何をしていても、悔しいほど様になるのは変わらない。
資料作成のお供として美男鑑賞をきめることにし、頭の中にある構成を資料に落とし込んでいく。
まあこんなもんかな、と作った資料をざっと確認する。
「ヒューゴ、ちょっと見てもらっていい?」
せっかく語学に堪能なやつがいるんだから、翻訳しやすいかどうかチェックしてもらおうと思い声を掛けた。社外秘の資料ではないから。
ヒューゴは起き上がるとおれの後ろに回り込み、ソファの背もたれに軽く腰掛けてPCを覗き込む。
「あ、ちょっと戻って」
スクロールすると
「その表、グラフにした方がいいよ」
「コレ?」と、おれはエンドユーザーのアンケート結果をまとめた表を指す。
「そう。あと他にも、できればもっとグラフィカルにしたくない?」
振り返えると少し申し訳なさそうな表情のヒューゴと目が合った。
「ごめん、口出して」
「いや、全然いいよ。もっとアドバイスして」
資料は見やすい方が断然いいに決まっている。
「表は数字で書いてあるから分かり易そうに思うけど、実は数字はできるだけ読ませない方がいいんだ。ちょっとまってて」
ヒューゴは寝室へ行き、「はい、これ」と自分のPCを開いて見せてくる。細い黒縁のメガネを掛けて。
画面にはPDFが資料が表示されていて、たぶんスウェーデン語で書かれてあるのに、だいたいの意味が解る。
「これヒューゴが作ったの?」
「うん」
まじまじともう一度資料を見る。これマーケティング調査だよな。
「こんな風に、だれが見てもすぐわかるようにね、絵をたくさんにした方が」
「ちょっとまって。お前、店やってるだけじゃないの?」
「こっちは副業。契約しているだけだ。日本のことを調べて報告する仕事」
「スパイかよ」
ヒューゴの説明におれが笑うと、「名刺あげる」とヒューゴはまた寝室へ。
「この住所は実家ね。フリーランスだから」
受け取ってすぐ財布にしまい、念の為に持ち歩いている自分の名刺を出す。
「じゃあ、おれのも」
「へえ、透の名前ってこんな漢字なんだ」
今度はヒューゴが財布におれの名刺を仕舞った。
「捨てないの?」
いつも店で貰う連絡先は、くしゃりと握りつぶして即捨てるのに。
「捨てない。後でスキャンする」
真面目な顔で言うから、おれは少し照れくさくなって笑ってしまった。
それから二人で資料の文字を大幅に削ってグラフを増やし、ヒューゴの資料に近い形に仕上げていった。
ずいぶん見易く、洗練されたプレゼン資料ができあがる。なんていうか、プロっぽい。
「すごい。これなら翻訳に出さなくてもいい」
ヒューゴはメガネを外して、「翻訳もしてたの?」と目頭を揉みながら聞く。
「デベロッパーの中には外国人もいるから」
「へぇ。ちょっと休憩したら、映画でも観よう」
ヒューゴは長い身体をどさりとソファ投げ出し横になる。店にいる時よりずっと粗野な感じで、おれはこっちの方がリラックスしていいなと思う。
「ありがとうヒューゴ。来週のプレゼン、ちょっと楽しみになってきたよ」
「オヤスイゴヨウ、ですよ」
「目が悪いの?」
「眼鏡は夜の運転と、日本語を読む時だけ。似たような漢字の判別が難しい」
「じゃ、眼鏡姿は珍しいんだ」
コーヒーテーブルに置かれていた眼鏡を持ち上げてレンズを覗き込む。確かにあまり度は強くなさそうだ。
「僕のことを知りたいって言ってくれて、嬉しかった」
「他にも秘密がある?」
んー、とヒューゴはソファで軽く伸びて、「あるよ」といたずらっぽく笑った。
おれも何か意外な一面みたいな秘密が欲しいもんだ。
「コーヒー淹れてくる」
おれはソファから立ち上がりキッチンへ向かう。すぐにドリッパーがみつかり、そばにあった引いた豆を2杯分いれる。
今後泊まりにくる機会が増えるんだから、面倒見てもらうだけじゃだめだ。せめてコーヒーくらい淹れさせてもらわないと。
「いい匂いだ」
ヒューゴは起き上がってカップを受け取るやいなや、「あ!そうだ。クッキーがある」と立ち上がった。
カップをそのままテーブルに置くと、キッチンからアンティーク調というか古そうな缶を出してきた。
「なにこれかわいい」
薄い焼き色のクッキーに、押し花みたいにいろんなハーブが埋め込まれていて、とても春らしい華やかさがある。
「涼子の試作品。透がコーヒーを淹れてくれなかったら思い出せてなかったよ」
ヒューゴはチューリップのような柄のクッキーをひとつ手に取り、「葉の部分はローズマリー、花びらはたぶんトウガラシをカットして作ってる。周りの種みたいなものはクミンを散らしてるね」とそれぞれ説明してくれる。
「食べていい?」
「もちろん。3種類あるから、食べて透が一番好きなのを教えて」
「これもかわいい」
おれは薄いピンクの花びらに、黄緑色の細かい葉が添えられたクッキーを手に取る。
「そっちは、桜の花びらかな。ハーブはディルだね」
「じゃ、これは?」
今度はハーブが載っていないシンプルなクッキーを手に取ると、ヒューゴはおれの手を自分の口元に持っていきパクリとクッキーを食べた。
「これはチーズクッキーだ。すごい量のセサミが入ってる」
それは食べなければならない。
おれはすぐにその齧られたクッキーを口に放り込んだ。なんて香ばしさだ!これは絶対……
「ワインに合うな」
ヒューゴに先を越されてしまったが、まさにその通り。
「このかわいい花柄のと、さっきのゴマのやつ、3枚1セットでいいんじゃない?」
どれも脱落させるには惜しい。トウガラシのちょっとした辛さはきっとウイスキーなんかの香りが強い酒に合うだろうし、桜とディルはジンやウォッカに合いそうだ。
もちろん、クッキー生地の甘みもあるから、コーヒーや紅茶にも間違いない。
「涼子さんすごいなぁ」
次から次へとクッキーを口に運びながら感嘆を漏らす。
「自慢の妹だからね」
ヒューゴは満足そうに優しく微笑んだ。
「夕飯どうする?」
クッキーを食べつつ次の食事を気にするとは自分でもどうかと思いながら尋ねる。
「なにか食べたいものがあれば作るよ」
ヒューゴはすぐにそう答えてくれたが、休日にまで賄いを作らせるわけにはいかない。かといって今から外へ行くのも億劫だし、昼が遅めだったからそんな空腹でもないし。
「飲みながら、ダラダラしたい」
「僕もそれがいい。つまみと酒ならある」
頼もしいじゃないか。でも翌日何もできなくならない程度の酒量で抑えないと。
「そういえば、明日、何時頃まで居ていいの?」
ふと思いついて尋ねてみる。
確かお店は日曜と月曜が定休日だ。今日みたいに土曜日をバイトに任せることはそうそう無いだろうし、ヒューゴのせっかくの3連休をおれで潰させる気はない。
キッチンへ移動していたヒューゴはワインのボトルとワイングラスを2つ手にしたまま歩みを止めた。
「何時って……」
ずいぶん意外そうな顔をして突っ立ったまま、ヒューゴは続けた。
「透、明日は何か予定が?」
「ううん。何も無いよ」
「もう一度確認するけど、これからは週末はここへ来るんだろ?」
「そのつもりだけど……?」
ヒューゴはボトルとグラスをコーヒーテーブルに並べると、ゆっくりと低く話し始めた。
「ね、透。僕は全ての休日をキミと過ごそうとしているんだ。知ってると思うが、僕は月曜も休みだ。透さえよければずっと居てほしいし、用事があるのなら好きな時に帰ればいい。時間なんて、僕らの間ではどうでもよくないか?」
「そういうもの?」
「そういうもの。来られない週末は教えて。それだけでいい」
ヒューゴはよく冷えた白ワインをグラスに半分ほど注いでくれる。
「明日は自転車を見に行こうよ。おれ、休日の趣味はそれくらいしかないから。一緒に走ろう」
そうすれば、おれの時間もヒューゴと過ごせることになるよな。
「ん、もちろん」
「じゃあセサミのクッキーはいただきますね」
おれは最後の1個になっていた香ばしいやつを素早く取り、少しだけ齧ってからワインを口に含む。
チーズの塩気が強くて、予想していたより遥かにワインが進む。1枚で1杯は楽勝だな、なんて思いながら飲んでいると、ヒューゴがおれの頬をすっと撫でて、ふんわりと微笑んだ。
「おいしい?」
おれはこっくりと深くうなずいた。
優しい手が心地よくて、もう少し、触れていてほしいけれど。ヒューゴの休日と最後のセサミクッキーを貰っておいて、そんなわがままは言えないな。
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