おいしいじかん
鮎月
第1話 ランチはイェーガーシュニッツェル
梅雨の足音が聞こえてきそうな6月の金曜日、おれは東京を離れ、中学・高校の6年間を過ごした地方都市に引越した。
通っていた学校は、各種のスポーツにおいて強豪として名高い私立の中高一貫校で、棒高跳びを主種目とした陸上選手として遠方からの推薦入学だった。
自分を含む特待生は大半が県外出身者。完全寮生活と多忙なトレーニングで自由時間など皆無で、学校外のことはほとんど知らないまま、スポーツ推薦で東京に進学した。
それ以来、この土地を訪れる機会は無かった。
それゆえ、”戻ってきた” という感覚にはイマイチなれないものの、転職活動中に見かけた古知の地名に、親近感のような、なにか惹かれるものがあったのは確かだった。
独身男の荷物量なんてたかが知れたもので、引越し業者は昼前には引き上げていった。
あとは細々とした小物が入った段ボールが数個と書籍類が残っているだけだ。
ざっと掃除機をかけてから財布と携帯だけをポケットに入れて、愛車のロードバイクを部屋から出す。
寝床と仕事道具さえ出しておけば月曜の出社には困らないから、残りは暇を見つけて、ぼちぼち片付ければいい。
なにしろまだ金曜日だし、せっかくの有給を部屋の片付けだけで潰すのは惜しい。
学生時代に友人に進められてロードバイクを始めてからそろそろ10年。ポタリングからキャンプまで、今では欠かせない相棒だ。
今までは都内の狭い賃貸で自転車と同居しているようなものだったが、新居にはガレージのように使える自転車専用の部屋を用意した。これから天候や夜間を問わず、好きな時に自転車いじりができる。タイヤの種類を交換したり、微妙な位置調整なんかも。
2LDKのマンションに一人暮らしなんてやや贅沢だろうけど、おれも今年で30歳で、そろそろ ”寝に帰るだけ” の部屋を卒業し、プライベートな時間も大切にしたい。
ロードバイクを片手で担ぎ、自室のある3階から1階まで階段を使う。さほど広くないエレベーターに自転車を乗せるのは気が引けるから、部屋選びの際に階段が使える階数を選んでおいた。建物自体は12階建てで、最上階にも空き部屋が出る予定とのことだったがさすがに12階を階段で上り下りするのはつらい。見晴らしの良さに、かなり後ろ髪を惹かれたが。
外階段からマンションのエントランス前に出て愛車に跨り、スマートフォンをホルダーに固定する。MAPアプリには会社の住所を目的地として設定してある。
週明けからは、念願の自転車通勤。
息の詰まるような——実際に詰まって倒れる人もいる——満員電車とは、もうこの引っ越しで縁を切った。
アプリが表示する最短ルートによると会社までは自転車で約15分。とりあえず指示に沿って漕ぎ出す。
自宅マンションがある住宅街を抜けるとすぐに東西に伸びる大きな街道にぶち当たる。それを西に向かって直進すると、10分足らずで駅周辺まで到着した。
街道には自転車専用レーンがあり、上手くスピードに乗ることができたが、出勤時は渋滞に備えたルートも探しておいたほうがいい。経験上、ラッシュ時の自転車専用レーンはバスや停車中の車でふさがっていることが多い。
この街は駅を中心としたドーナツ上に計画されているらしく、駅を取り囲むように高層の商業施設群があり、その外周に中層のビルが立ち並ぶ。
さらに外側になるにつれマンションが混ざり始め、円の一番外側は一軒家の多い住宅街となっている。
夜に上空から街を見下ろしたなら、きっと雨が降る前の晩の月みたいな、ぼんやりした輪になっていることだろう。
そういうわけで、今回の新居を決める時には、会社から円の外側となる住宅街側に直線を伸ばした辺りに目星をつけた。
自転車通勤は居宅と駅までの距離に縛られないから、家賃面でも住環境でもメリットがある。
そのまま社屋周辺をぐるりと回って自転車置場を確認する。屋根付きで、かつ車輪止めがあるためアースロックが掛けられて安心だ。
帰りは、来た時に通った街道ではなく、MAPアプリを徒歩設定に変えて出てきた経路を試してみようと、そのまま社屋裏手の小道でペダルを家方向へ進める。
自転車の場合、徒歩経路のほうが交通量が少なくて走り易く、結果的に早く到着することがよくある。
ただ、徒歩設定だと階段や歩道橋が出てきてしまうから下調べは必要だ。
どうやら、こちらの経路の方が正解だったようだ。道は細いが、車通りが少なくて大変に漕ぎやすい。
初の自転車出勤日はコッチを使おうと決めてペダルを進めていくと、マンションが少しずつ増えてきて、オフィスエリアと住宅エリアの境目辺りに差し掛かったことがわかる。特に急ぐわけでもないからポタリングを兼ねてのんびりと漕いでいると、突然、目先の空が開けた。
どうやら、広い公園があるようだ。
たどり着いてみると、道路側に生い茂る植え込みの傍に遊具と藤棚が見えた。少し遠くには大木が何本もそびえていて、古くからある公園のようだ。
公園を左に見ながら脇の小道を進むと、池やベンチが見えてきた。
思ったよりも規模の大きい公園だ。
小道の右手側には、どれも邸宅と呼ぶ方が相応しい豪邸ばかりが建っている。いい場所には、良い家が建っているもんだな、とつくづく思う。
公園散策に有給の午後をあてるのも悪くない。
一旦どこかで昼食を取って、コーヒーでも買って戻ってこようか。
と、会社があるオフィスエリアの方へ引き返そうとしたその時、やや前方の角に、石造りの洒落た建物があるのが目に入った。
周囲の豪邸と比べるとこじんまりとしているがずいぶん本格的に欧風で、どしんと重そうな年季の入った石壁が古城のようだ。
公園の木々とその建物だけを切り取ってみれば、誰もここが21世紀の日本だとは分からないかもしれない。
なのに、周囲の住宅と不思議とうまく混ざり合って違和感は無い。
近づいてみると年季が入っているように見えたのは石壁にびっしりと蔦が伸びているためで、建物自体はさほど古くなさそうだった。石壁からは公園の小径に向かうように、おなじ石の階段が数段伸びている。
まるでヨーロッパの童話本にある挿絵のような風景で、ちょっとした異空間だ。
写真を撮りたいが民家だとマズイよな、と躊躇しながらも近づいてみると、階段元に ”OPEN” と書かれたスタンド黒板があった。
「店か!」とつい喜びの独り言が出てしまう。
店舗ならおそらく写真を撮らせてくれるだろうし、それにこんな素敵な外観だもの、もちろん中も気になる。
しかしこんな閑静な住宅街で、一体何の店なんだろう。駅から徒歩で来るのも厳しそうだが。
道路側からは黒い格子のはまった窓ガラスが見えるが、公園の木々が鏡のように映り込んでいるせいで中の様子は伺えない。
階段脇にはちょっとした駐車スペースがあり、自転車を邪魔にならないようできるだけ隅において、改めて階段に向かう。
上がりきると、黒茶色の重厚なドアと、その横には背の高いランタンが2つ置いてある。
正直、何の店かも分からず入るのは勇気がいる。美術ギャラリーのような専門店だったら場違いすぎるし。
もしそうなれば外観の写真だけ撮らせてもらってお暇しよう。
ま、なるようになれ、だ。
重厚なドアには真鍮の取手があり、握るとカチャリと小さい音がしてアンロックされたことがわかる。
そのまま引くと、見た目通りどっしり重い。
ちょうど身体が入るくらい扉を開けたところで、コロン、と小さく鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
低く、よく通った声が身体にズンと響く。
声の矢に身体を貫かれたような衝撃だった。
反射的に顔を上げて更に驚いてしまう。
スラリと背の高い白人男性がにっこりと微笑んでいる。白いシャツに黒いエプロン、オールバックにした金色の髪。
この建物にあまりにマッチした容姿で、ジェットコースターのように急激に現実感が薄れて行く。
……ここ、日本だよな……?
「空いているお席にどうぞ」
男が全く訛りのない日本語で促してくれ、ハッと我に返る。
言われるがままに周りを見渡すと、カウンター席と、窓際にはテーブル席がある。
最初に目に入ったカウンターの一番奥に向かうと、「こちらに」とスツールを回して着席を勧めてくれた。
内装からして海外の老舗ホテルにあるバーのようだが、コーヒーの香りが微かに鼻孔をくすぐる。この時間に営業しているからにはカフェバーなんだろう。
分厚いカウンターテーブルに、弾力のあるスツールが座り易い。
朝から何も食べていなく渡に舟ではあるものの。雰囲気や立地を鑑みると、少々高い店かもしれない。
いつのまにカウンターの内側にいたのか、金髪碧眼の男は水やおしぼりを手早くおれの前に置き、メニューを手渡してきた。
「ようこそ」
囁くような低音なのにビリビリと鼓膜が震え、少しだけ戸惑いながら顔を上げると、正面からまともに目が合った。ずいぶん端正な顔立ちだが、微笑みが優しくて温かみが感じられる。
髪は長髪を後ろで結んでいるようで、オールバックが完璧なシンメトリーの顔を際立たせている。
ギャラリーかと予想したのはあながち間違いじゃなかったな。芸術品みたいな容姿の人間がいるなんて。
バーテンダーが少し小首を傾げているのに気付き、おれは凝視してしまっている不躾さを恥じた。あわてて視線を外してメニューを開く。
全く心構えなく飲食店に入ったこともあり、目が滑って内容が全く頭に入ってこない。
言葉が分からない旅行先のレストランに来ているのかと錯覚しそう。
いっそ、尋ねてみるか。
「あの、食事って、できますか?」
「はい、ランチがまだあります。今日はイェーガーシュニッツェルですが、いかがですか?」
「それって、」
恥ずかしながら初めて聞く料理だ
バーテンダーは料理内容を丁寧に教えてくれた。まったく訛りのない日本語から予想するに、おそらく日本生まれだろう。低く、落ち着いたトーンで、話の内容がスッと頭に入ってくる。
イェーガーシュニッツェルは仔牛肉をよく叩いて薄くしたカツに、キノコ数種類をグレービーと生クリームで煮込んだソースが掛かっているようなものと理解した。
ただしこの店では仔牛ではなく、より入手しやすい豚肉を使用しているとの断りが添えられた。確かに、仔牛だと気軽にランチとはいかない値段になるだろうな。
とにかく、美味そうじゃないか。
料理が来るまでの間、カウンターから振り向いてゆっくり店内を見渡す。
窓際には4人がけのテーブル席が3つ。窓のない方の壁は天井までびっしり本が詰まった棚が造りつけられていて、その横には奥に続く廊下が見える。しかし赤いロープが張られ立ち入りはできないようだ。
あとはおれがいるカウンター。
全体的にシックな深いトーンで、映画で見るような海外の古い図書館を彷彿とさせる。
店内の観察が終わって、再びメニューを手に取った。
ようやく気持ちが落ち着いたのか、今度はまともに内容が把握できる。
19時からはバータイムで食事は見当たらず、チーズやナッツなどのつまみ類のみだ。
酒はウイスキー、ブランデー、テキーラなどが数種類。カクテルやワインは知っているものも、知らないものも。
住宅街のカフェバーか。まさに、隠れ家的な店だな。
これまで独りで呑みに行く習慣はなかったが、こういう静かな場所をお気に入りのお店として持っておくのは大人の男のようでとても憧れる。——なんて思う時点でまだ大人になりきれていないか。
「お待たせしました」
滑らかな声に、反射的に顔をあげる。
皿からはみ出す大きいカツに、キノコがたっぷり入ったベージュ色のソースが浸るほどかかり、その横には薄切りのじゃがいもを炒めたものが山盛りになっている。サラダの小鉢も一緒に。
「ボナペティ」
皿を並べ終えたバーテンダーはそう言って微笑むと、少しの間おれの目を真っ直ぐ見てから、ゆっくりと瞬きした。
それが驚くほど優しい表情で、また見入りそうになってしまう。
「え、あ……ありがとうございます」
つい呆けた返事をして、おれはとにかく目の前の料理に取り掛かった。
そうか、パンやライスじゃなくこのじゃがいもが主食になるのか。普段はカツといえば米だが、この料理には断然じゃがいもが合う。カリカリに炒められたベーコンと玉ねぎが主張しない程度に入っていて、とてもコクがある。じゃがいもの端の少し焦げたところと、シュニッツェルのクリスピーな衣がキノコのソースと混ざりあうと、途端にクリーミーになるのがいい。
おれは初めて出会う美味さに夢中になってしまった。
こんな美味い店を発見できたなんて、自転車通勤に大感謝だ。多少高くったって構うもんか、とおれはすでに再来を決意していた。
ある程度食べてひと呼吸しようと水を飲んでいると、カウンター越しにバーテンダーと目があった。
もしかしてがっついてるの見られていたか。
「当店は初めて、ですよね」
グラスを拭きながらバーテンダーが聞いてきた。
「あ、はい。今日引っ越してきて」
「そうでしたか」バーテンダーはグラスを置いて「片付けは終わりましたか?」と続けた。
「今日の寝床だけはなんとか。でもせっかくの休みなので、今日はもうやめて明日に持ち越すことにしました」
「いい決断ですね」
青い瞳が柔らかく細まる。
残りの食事を平らげ、美味しさの余韻に浸っていると、カチャリ、とコーヒーカップとデザートが載った皿が前に並べられた。
「サービスです。疲労回復にどうぞ。コーヒーはおかわりできますから。時間が許す限り寛いでいって」
一口すすると、香ばしさが身体に染みる。深煎りで美味い。
デザートは表面に焦げ目がついたプリンのような見た目で、こちらもカラメルがほどほどに苦くて調和がとてもいい。
疲れが溶け出していくようだ。
1度コーヒーをおかわりして、気がつくと結局3時間近く経っていた。
おれの話し掛けに、落ち着いた声で返ってくるカウンター越しの言葉が心地よく、去りがたさを感じてついついダラダラと寛いでしまった。
会計を済ませ、自転車のロックを外していると、コロンと小さく鐘の音が鳴ってドアが開いた。
バーテンダーはわざわざ傍らまで降りてきてくれ、
「よかったら、明日も息抜きに来て」と店の名刺を差し出し、ふんわりと微笑む。
これが営業スマイルだとすれば相当なもんだ。
「来ます!あ、あと、食事すごく美味しかったです」とおれの方はお世辞抜きで応え、公園脇の小道へと漕ぎ出した。
最初に心配していたランチの価格は懸念で終わり、毎日とは言わないが平日にも通える価格だった。ただし、1時間の昼休みじゃもの足りないよなぁ。居心地良すぎて。
なにより、あのバーテンダーの醸し出す優しげな雰囲気にすっかり癒やされてしまった。
明日も、立ち寄ってみるか。
料理がこれだけ美味いのなら、きっとカクテル類も期待できる。
************
翌朝。
いつもの土曜日なら二度寝をするところだが、引っ越し直後となればそうはいかない。
目覚めたままに起きてすぐにシャワーを浴び、軽く体をほぐすと、さっそく片付けをはじめた。
とりあえず片っ端から段ボール箱を開け、リビングの壁面収納にどんどんしまい込んでいった。細かい配置はそのうちでいい。暮らすうちに、自然と使い勝手で配置は変わってくるだろうから。
昼前には全ての箱を空にし、引越し業者に回収の依頼をすることができた。
もともと、おれは持ち物が少ない。ミニマリストを気取るわけではないが、ほぼ外食のため調理器具等が不要なのと、服装にあまりこだわらないためだ。
通勤着に同じような服を5着、外出着が2着、あとは自転車用ウェアが2着。これに少しの上着類。
これは中高6年間の寮生活による影響だと思う。収納スペースが限られていることと、学外へ出ることがほとんどなかったから毎日トレーニングウェアでどうにかなった。
大学時代も、転学するまでは陸上漬けで……。
とは言え、引っ越しで部屋のサイズも変化し、自転車通勤は時間的な余裕を与えてくれるだろうから、物が増えていく予感はある。夏の通勤には着替えをもっていくことになるかもしれないしな。
ほこりっぽくなった身体を熱いシャワーで洗い流し、部屋を見渡す。
うん、困らない程度には片付いたな。
朝から集中して作業をしたおかげで、まだ外は十分明るい。梅雨の時期にも関わらず、引っ越しが雨に降られなかったのは本当によかった。
さっそく自転車を持ち出し、街道へ出ると東へと向かう。昨日とは逆で、つまり会社がある駅方面から遠ざかる。
暑くもなく寒くもない今の時期の晴れは、自転車乗りにとって最高の気候だ。ほんの少しの時間でも乗っておかないと勿体ない気さえしてしまう。
ペダルを進めていると、少しずつだが工場のような建物が混ざってくる。おそらく準工業用地になるんだろう。
さらに漕ぎ進むと、ホームセンターとショッピングモールが見えてきた。MAPアプリで目星は付けていたが、さすがの郊外店舗だけあり予想よりだいぶ敷地が広い。
その背後には、40階はありそうなタワーマンションが数棟ぴったりと建っていて、低層の工場や空き地に囲まれて一種異様な景色だ。
おれはこういった ”さあどうぞどうぞ、ここに住んでここで買い物してください!” といかにも準備万端に提供されている感じがどうも苦手だ。利便性が良いのは理解できるが、あまりに人工的すぎて。
しかし、家からの近距離に、大規模なショッピングモールにホームセンターまで併設されているのは大変ありがたい。
まずモールのテナントを確認して、次にホームセンターへ。めざすは自転車売場だ。
店舗の隅の方にさしかかると、タイヤ独特の匂いが漂ってくる。これが苦手な人もいるんだよな。ガソリンスタンドの匂いに好感を持つのは若い女性に多いという記事を読んだことがあるが、タイヤの匂いを好む層についてはまだ聞いたことがない。
嬉しいことに、売り場はかなり本格的な品揃えだった。トライアスロン向けの輸入自転車まで取り扱っているとは大したもんだ。
もし何か必要になったらまずここへ来て相談だな。ネットで何でも揃うとは言え、個人輸入は稀にトラブルがある。この品揃えだったら、自転車に詳しいスタッフが居そうだ。
十分に満足し、ホームセンターを後にする。
次に目指すは、引越し前に見つけておいた川沿いのサイクリングロード。
たしか高校の授業中に先生の雑談として聞いた話では、街の中央を流れるその河川は大雨の度に氾濫していたため、江戸時代から大規模な治水工事が繰り返し行われたそうだ。もう氾濫することはないが、極稀に河川敷に作られたテニスコートや野球場が水没することがあるらしい。
サイクリングロードは下流に向かって河川敷の左側に設置されていて、道案内によれば河口の港まで行くことができるようだ。歩行者を巻き込むストレスがないのはありがたい。ロードバイクはスピードに乗るまでに結構な力が必要だから、いちいち歩行者を避けていると、ただしんどいだけのライドになってしまう。
軽く下見のつもりが、平面の滑りがよく、どんどん漕げて楽しくなってしまった。
気がつくとすでに日はとっぷり暮れている。
「さて」
おれは一人つぶやき、昨日見つけた公園横のカフェバーまでの道のりをシミュレートする。MAPを見ずとも辿り着くだろう。
バーテンダーの営業トークを真に受けてしまう形になるが、3連休の中日を独り、インターネットがまだ開通していない部屋で過ごすのはキツい。
そりゃ駅前まで行けば今でも映画のレンタルショップくらいはあるだろうけど。
などと、いろいろ頭の中で言い訳を考えてしまうが……要は、また行きたいんだ。
それに、あのバーテンダーが『明日も来て』とおれに言ってくれた声には、心が込もっていたような気がして。おれは、自分の返事を嘘にしたくないと思った。
自宅付近をそのまま通り過ぎて、オフィス街に差し掛かる前に左折する。
昨日と同じ様に急に視界がひらけ、公園の木々が見えてくる。傍で、群青の空に浮かぶ石造りの建物は、切り取ってすぐにでも絵画にできそうなほどしっとりと美しかった。
近づくと、ランタンの明かりがOPENの立て看板をぼぅっと浮き立たせている。
昨日と同じ場所に自転車を停めようと駐車スペースの隅へ行くと、小さなガーデンライトが刺さっていることに気付いた。淡い明かりでロックがやりやすく、とても助かる。
やや遠慮がちにドアを開けると小さく鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
軽く会釈して、カウンター席へ向かう。店内はほどよく混んでいるがカウンターはおれ一人だ。
バーテンダーがおしぼりと水を出しながら、「来てくれたんですね」と、極上の笑顔を向けてくれた。昨日と同じく、低く響く声に身体を射抜かれる。
夜の店内は、全てのテーブルにキャンドルが置かれ、カウンターにも1席ずつに小さいキャンドルが。
店内の明かりはほんのり間接照明で、バーテンダーの手元を照らすライトだけがやや明るいくらい。
キャンドルでメニューを照らしながら、今日は思いがけず体力を使ったことだし、ちょっと甘めがいいかなと思いながらページを捲っていくと、珍しい産地のビールが目についた。
「すみません。この、スウェーデンのビールと、オリーブの盛り合わせを」
バーテンダーは見たこともない黒いラベルのボトルから、これまた見たことないほど黒いビールを冷えたグラスに注いで出す。
口をつけてみると見た目通り濃厚で、ほんのりバニラの風味がある。苦味と甘味のバランスが絶妙だ。
「うまい」
思わず声に出してしまう。
「スウェーデンで一番人気があるビールです」
バーテンダーがラベルをこちらに向けながら応えてくれた。
頼んでいたオリーブの盛り合わせは、グリーンオリーブとブラックオリーブの中にアンチョビやパプリカの入ったもの、オリーブのサイズとおなじくらいの丸いモッツァレラチーズ、プチトマト。それが丸いガラスの器に彩りよく盛られていて、まるでビー玉のようにつやつやと光を反射している。
「引越しの方はどうですか?」
「うん。もうほとんど片付いて、午後は自転車で近所をウロウロしてました。大きなショッピングモールとホームセンターがあった」
「ああ、僕もたまに行きます。映画館もあるから。……食事は?」
「モールで適当に。今日はここで飲むつもりで」
「おまかせでよければ、夜も食事のご用意できます。覚えてて」
「あ……いいんですか。嬉しい。今度から食べずに来ようかな」
テーブル席の1つは女子会のようで賑やかだ。時々、ワッと笑い声が上がる。
酒もフードも旨い、雰囲気もしっとり落ち着いていて良い。しかも半端ないバーテンダーの美青年ぶり。そりゃ女性が来るのも納得だ。おれも2日連続で来てるし。
バーテンダーは忙しそうに手元を動かしながら、カウンターに一人でいるおれに何かと話しかけてくれる。
さすが客商売の聞き上手で。静かな相槌や問いかけが心地よく、まるで昔からの常連になったような錯覚に陥りそうになる。
何杯目かのモスコミュールを飲んでいると、女子会グループが会計をして、バーテンダーが出口まで送っていった。見渡すと客はおれだけになっていた。
腕時計の針は22時を回っている。楽しい時間はあっという間だな。
カウンターに戻ってきたバーテンダーに閉店時間を尋ねると、特に決めてはいないが、だいたい0時前にはCLOSEすることが多いとのことだった。
「日曜と月曜が休業日ですが、貸切パーティーはいつでも。ちょうど明日の日曜も予約が入っていますね」
「結婚式の二次会とか?」
この店の雰囲気ならまずハズさないだろう。
「そう。20人で立食とのことなので、今夜はこれからその準備があります。だから、ゆっくりしていって」
バーテンダーがにっこり笑う。
容姿と仕草とセリフとが完全に一致していて、この営業能力はずるい。
そりゃ、おれももう少し話していたいが、最後の客というのはどうも居座りが悪い。明日の準備もあるそうだし。
「でも、そろそろ……」
残っていたグラスを空け、帰る決意をする。そのとき、コロンとドアの鐘が鳴った。
こんな住宅街の店で遅い時間に客が入るとは意外だが、少しだけホッとする。他にも客がいればもう1杯くらい飲んでもいいだろう。
すると「ヘイ」とバーテンダーがドアの方に声を掛けたのでつい振り向いて見てしまった。
女性が独り、店に入ってくるところだった。こちらを見ると「いらっしゃいませ」と微笑んで、店の奥の廊下へと消えて行った。
従業員さんか……いや、こんな時間だし、奥さん?いずれにしろ関係者なのは間違いないから、やっぱり帰ろう。
立ち上がりかけたところで、目の前にコトリとモスコミュールが置かれた。
「僕も飲むから、よかったら付き合って」
バーテンダーはカウンターから出てくると腰に巻いていたエプロンを外し、椅子にドサッと投げかけた。そんなちょっと荒っぽい動作すらいちいち絵になる。
そしてショットグラスを持って窓際の席へ行くと、「こっちに」と頭を傾げるようにして窓際のテーブル席におれを促した。
「あ、はい」
つい言いなりにグラスを持って移動する。なんだか操られてしまうな。
窓際のテーブル席は2人用で、真ん中にキャンドルが置いてある。
「僕、ヒューゴ。改めて、よろしく」
ショットグラスを傾けてくるから、それに合わせておれもグラスを近づける。
さっきまでとは全く異なる、砕けた口調が心地いいな。
「あ、トオルです。高屋透」おれのほうがなぜか丁寧語になってしまった。
「タカヤ トオル。トオル タカヤ……いい名前だね」とヒューゴは言い、グラスを一気に煽ってホッと息を吐いた。
「あの、もう仕事終わり?」
「うん。さっきのグループが帰ったときに、CLOSEにしてきたから」
「お疲れ様です」
「ありがとう。強引に引き留めたかもしれないけれど、大丈夫?」
「いや、おれももう少し飲みたかったから」
「よかった」
ヒューゴは囁くように言うと席を立ち、カウンターからボトルやライムを手掴みで持って戻ってきた。
なんだろう、さっきまでとは別人のような印象だ。バーテンダーの時は、悪い意味じゃなくアンドロイドのように完璧な……やや無機質な印象だった。
エプロンを外したヒューゴは生身の人間感がする。
「いつも……」
「ん?」
くし切りにしたライムをかじってショットグラスを飲み干しながら、ヒューゴは横目でこっちを見る。
顎から長い喉に続くラインがシャープだ。食道を酒が流れたのか、喉仏がゆっくり動くのも見える。
おれも、こういうかっこいい飲み方できないもんかな。
「いつも、閉店後は飲むの?」
「ここで?」
「うん」
「いや、ほとんど無い、かな」
「そうなんだ」
単純にこの特別感が嬉しい。まだ来店2回目の客だというのに。
「週末だからね。僕も飲みたい」
ヒューゴの前にあるのは見慣れないボトルだった。
「それ……テキーラじゃないよね?」
シンプルなデザインの小振りな瓶の中身は透明だ。
「これはウォッカ。スウェーデンの」
「へぇ。こういう飲み方するんだ?」
「ウォッカは、なんでもアリだよ」
「飲む?」
ヒューゴがショットグラスを差し出してくれたが、さすがにきつそうだ。
「今日は遠慮しとくよ」
「じゃあ飲みたいものがあったらなんでも言って。作るから」
なんだかすごくラッキーな日だな。しかし、もうクローズしているということは、
「あのさっき来た女性はスタッフさん?」と、おれは廊下の方へ視線をやりながら尋ねた。
「妹だよ。親同士が再婚してね。ずっと小さい時だけど。人種が違うから兄妹には見えないでしょ」
「そうなんだ。もしかしたら奥さんかと思った」
「そういうことにしておく場合もある」
ヒューゴはおれの知らない言葉で店の奥に向かって何か言うと、ほどなくして妹さんが出てきて、「涼子です。よろしく」と手を差し出してくれた。
「透です。はじめまして」と握手を返す。
「逢えて嬉しい。さっそくだけど、明日の料理の味見してくれる?」
涼子さんはおれとヒューゴを交互に見て聞いた。
「もちろん!喜んで」
おれは真っ先に弾んで答えてしまった。
妹さんが厨房に戻ると、すぐにバターの良い香りがし始めた。
「引っ越して来る前はどこに?いや、詮索するつもりじゃないけど」
ヒューゴがショットグラスを手で転がしながら聞いてきた。
「東京。でも中高の6年間はこの街に住んでたんだ。たまたま転職先がここになって」
「そうか、戻ってきたのか……」
「戻ってきたという感覚は全くないんだけどね。全寮制でほとんど学内から出てなくて、土地勘ゼロだから」
キッチンから涼子さんが何か言っているのが聞こえ、二人でそちらに顔を向ける。
「嫌いな食べ物はないかって聞いてる」
「おれは全くないよ」
ヒューゴは少し大きな声でキッチンに向かって返事をした。ものすごく低音なのに、空気がパンと張るような、よく通る声だ。
「それって、英語じゃないよね。何語?」
「ああ、ごめん。スウェーデン語」
おれは即座に納得した。道理で北欧全開な見た目なはずだ。
「でも、日本語に訛りが全くないよね」
「子供の頃はこっちで過ごしたから。親がスウェーデンに帰ることになるまで」
ヒューゴはテーブルに肘をついて手に顎を乗せ窓の方を向くと、何かつぶやいた。
聞き取れないけれど、スウェーデン語っていい耳障りの言葉なんだな。
「ヒューゴの良い声とよく合ってる」
つい口をついて出てしまった。おれは急いで「歌手みたい」と冗談めかした。
ヒューゴは横を向いたまま、目だけをおれに向けてじっと見たかと思うと、ゆっくり瞬きをした。
昨日も思ったんだ。
その仕草をされると、とても優しい気持ちになる。
涼子さんが試食にと出してくれたフードはどれもおいしく、見た目も華やかで。明日のパーティのゲストは必ずこの店に通うようになるだろう。
ヒューゴは「引越し祝いだから」とおれの支払いを固辞し、言葉に甘えるがままに奢られてしまった。
「よかったら……。いや、またすぐに来て」
「ん?もちろん、必ず来るよ!」
改めてここに引っ越して来てよかったとしみじみと思う。
***************
月曜日。
新居からの初出勤は快晴に恵まれ、爽やかな漕ぎ出しだ。
転職先は、自社で開発したアプリケーションが成功し、とある業界のスタンダードにまでなった実績あるソフトウェア開発会社だった。過去形なのは、開発部門を早々に子会社化し、今の母体は企画や営業中心のコンサルタント会社だからだ。
子会社と言っても名目上だけでビルも同じ。別フロアに開発部隊が居る、という感覚だ。
名刺の上ではおれの役職はコンサルタントだが、実際は自社アプリのプロジェクトマネージャーだ。顧客のニーズに合わせたカスタマイズをしたり、内部と外部の開発会社との調整をしたり。
前職場では開発部門のリーダーで、一応は次の異動でプロジェクトマネージャーになる予定ではあった。しかし、配属される予定だったチームの責任者とメインの開発者のどちらも休職中、という地獄のような状況で。
顧客からの頻繁な仕様変更と、毎月の契約更新のたびに費用面で難癖をつけてくることが原因なのは明らかだったが、課長にかけあってみても「まあ修行だと思って」以外の返答はなく——元々なんとなく転職活動を始めていたおれにとって、退職の良い理由にはなったが。
『会社よりも「人」で選べ』新人の時に担当チューターだった先輩の言葉だ。
先輩はすでに転職していたが、在職中からたまに飲みに行く関係で、今でも仲良くしてもらっている。
おれが転職を考えていると打ち明けた時、先輩は真っ先にそう言った。それがとても印象的で、帰り道何度も頭の中で呟いたのを覚えている。
その言葉通り、転職活動では人を尊重するという当たり前のことが浸透しているかどうかを重視した。
結果、引っ越す価値があるほどの良い職場に出会えたと思っている。
いきなりのマネージャー枠での中途入社だが、チームメンバーからの純粋な力添えのお陰で円滑にやれているし、なんと言っても職場の雰囲気が明るい。
メンバー同士がリラックスして働いていて、コミュニケーションも活発だ。
ある日、正午を過ぎてそろそろ空腹を感じ始めたころ、職場付近の美味い店の話になった。各自それぞれお気に入りがあるらしく、名前が出た店舗を記憶しておく。
「高屋さんはもう美味しい店、見つけた?」
開発の金子君が話をふってくれた。
「そうだなあ……」なんてさり気なさを装ってみたが、おれはとっくに決めていて、「ちょっと離れてるけど、大きい公園の……」
「かっこいいガイジンさんがいるところでしょ!」
おれが言い終わるより先に、チームメンバーでUIデザイン担当の阿部ちゃんという女性が身を乗り出してきた。
「そうそう。行ったことある?」
「もちろん!どこかのブランドのモデルみたいなの!」
今年新卒で入った渡辺君は「へえ、そんなにイケメンなんですか」と、こっちは行ったことがなさそうだ。
「明日のお昼、みんなでどう?」
かなり期待をこめて言ってみるが、阿部ちゃんはつまらなさそうな顔をして、「いいけど、お昼はいないんですよ、その彼」とのことだ。
「え?そうなの?」
「お昼はアルバイトがやってるみたいで、遭遇率低いんですよ。でも夜は必ずいるはず。うちは子供が小さいから、まだ数回しか行けてないけど」
「そうか、残念だな。こないだの週末さ、遅めのランチに行ったんだけど、すごく美味しかったから」
「どうせならみんなで夜行きませんか?今のプロジェクトが落ち着いたら」
渡辺くんからの提案だ。
なるほど。
「そうだね。打ち上げってことで。あ、いいのかな?最近飲み会に誘うとダメとかあるでしょ」
「部下から誘う場合はアリなんじゃないすか?」渡辺くんが軽やかに言う。
「私も日時決まってる飲み会なら行きやすいし、そうしましょうよ」
家庭がある阿部ちゃんも乗り気だ。
「じゃあ、そうしよう。納期が…あと3週間か」
「がぜんヤル気が出てきました」
そう言ってデザイナー女子と渡辺くんは笑い合う。いいチームだな。
おれは打ち上げをモチベーションにして、差し迫る納期に向けて黙々と仕事を進めた。残業は少ないが、外注先の海外ベンダーが土曜は出勤日のため休日返上だ。
それでも、朝は川沿いにあるサイクリングロードに寄ってからから出勤したりと、少しの気分転換はできていた。
ただ、週末の時間の無さのせいで、あれからヒューゴの店を再訪できていないことだけが残念だった。
3週間後——プロジェクトは検収も無事終わり、打ち上げの日程を決めたくチーム内にメールを回すと、嬉しいことに全員が参加することになった。
メンバーの希望は翌週の金曜日で、週末を希望するとはみんな飲む気満々なんだな。
おれは部長に許可を取って、チームのプロジェクト費から打ち上げの費用も確保した。転職して最初のプロジェクトにしては納期も品質もOK、幸先の良いスタートだ。
その日は定時で会社を飛び出し、ヒューゴの店へ向かった。
とにかくこの3週間の疲れを癒やすべく、店で落ち着いて酒が飲みたかった。あと肝心な打ち上げの予約と。
最後の週末以来、すでに1ヶ月ほど経ってしまっているから、ふいに来た客のことなんてもう覚えてないかも……な。と少し不安になりながらも自転車を向かわせる。
重い扉を引くと同時に、コロン、と低く鐘が鳴ってヒューゴが見えた。
「いらっしゃ……」
「こんばんわ」
一応笑いかけてみた。覚えてるかな。
「トオル!」
目が合うとヒューゴが名前を呼んでくれる。
よかった、覚えててくれたんだ。
店内のお客さんがみんなこっちを向いてしまって恥ずかしかったけど。ヒューゴも自分の声が大きかったことに気がついたのか、少しバツの悪そうな顔をして肩をすくめていた。
カウンターに一つだけ空いていた席につき、モスコミュールを頼んだ。平日なのに結構な繁盛だ。
飲みながらヒューゴに、来週の金曜日に5名で来てもいいか確認すると、二つ返事でOKだった。予算をベースに簡単に内容を相談していると、
その夜は混んでいたせいか、会話は少なかった。
うーん、やっぱり覚えてないのかな。まあそもそも今日が3回目なわけで、そりゃ事務的な接客で当然だろうけれど。名前を覚えていてくれたのはさすがに客商売のプロなんだろう。
「食事、お願いしてもいいかな?」
「もちろん」
軽く微笑んでヒューゴはキッチンに消えた。
テーブル席は2つ埋まっていて、カウンターにも女性客しかいない。ヒューゴが見えなくなってから、途端に女性客の士気が下がったのが目に見えてわかるのが面白い。退屈そうにタバコを吸い始めたり、お代わり持ってきてもらお、と言い合って一気に飲み干す女性たち。みんな可愛らしいなあと思う。
ヒューゴはカリカリに焼けたチキンが乗ったサラダを出してくれた。トマトも、キュウリも新鮮そうに輝いている。
「美味しそう……」思わず呟いてしまった。
ヒューゴは飲み物を運ぶ以外はずっとカウンターの中にいて、グラスを拭いたり、手元を片付けたりしていた。忙しそうではあるが、その動きは優雅で、見ていると面白い。
手の動きを止めずにカウンターにいる他の客と数言交わしたり、時折テーブル席へ呼ばれたりするが、ヒューゴはほとんどずっとおれの向かいに立ってくれていた。
しかし、いろいろと話しかけてみても、「そうなんですね」「なるほど」などとよくできたアンドロイドのような性格な相槌しか返ってこず。
その対応は、1ヶ月前に二人で飲んだのが幻だったかのように事務的で、砕けた感じは一切無かった。
表情は柔らかく終始微笑んではいるけれど。それが余計に壁を感じさせる。
なんなんだ、先日とのこのギャップ。
それでも食事は大変美味しく、特にチキンソテーに掛かっていた柚子風味のドレッシングが爽やかでたまらなかった。おれはレタスの一欠片も残さず平らげ、食後にコーヒーを頼んで一息ついた。
店内はテーブル席に女性2人連れと、あとはカウンターにも2名の女性が残る。
圧倒的に女性率の高い店だ。ま、このバーテンダーの美貌じゃ、仕方ないか。
コーヒーを飲み終え、席を立つと「もうお帰りですか?」と声をかけてくれる。
おれは、急いでカウンターから出てこようとしてくれるヒューゴを制止して、「うん。また金曜日に」と笑顔で去った。
後ろから、ボソリと、「待ってる」と言うのが聞こえたような気がしたが振り向かなかった。
先日のもてなしで特別感を感じられて、ちょっと調子に乗っていた自分が恥ずかしい。すっかり常連気分だった。
そうだよな、客商売なんて最初が肝心だもの。
今週はチームの打ち上げでまた来るし、少しずつ本当の常連になっていけばいい。
仲良くなりたいなんて、思っちゃいけないのかもしれないな。
心なしか、金曜日はオフィス全体がリラックスしている。
弊社は3連休が取得しやすいよう、必須でない会議を金曜日に入れないことが奨励されている。そのため常時数名が有給を取得しているか在宅勤務を選んでいる。働き方改革バンザイだ。
それに、一部の海外ベンダーの担当者や、海外在住の契約エンジニアは、金曜の午後に連絡がつかなくなることが多い。聞けば、天気が良い金曜日は早めに出社し、午後は早々に退勤してハイキングやBBQをやるのが風習らしい。
そんな事情もあり、夏になるにつれ、のんびりした金曜が増えている。資料作成やナレッジ整理など、自分の仕事がこなせるのがありがたい。
朝のチーム会議で、念の為、今夜の打ち上げについて店の場所と集合時間をリマインドしておく。デザイナーの阿部ちゃんは外食自体が久しぶりらしく、相当楽しみにしている様子だった。
もちろんおれもだ。
ここ最近はコンビニかプロテインだけで済ます生活が続いていたから、打ち上げとはいえ美味しい料理が食べられると思うと待ちきれない。一人5000円の予算だが、ヒューゴは飲み放題に料理を数品付けてくれるそうだ。
幹事でもあることだし、開始時間に遅れないよう、さっさと仕事にとりかからなければ。
次の案件に相応しい開発会社の策定やドキュメント化をして、そこまでちょうど定時寸前。開発の金子君と新人の渡辺君に声をかけ、区切りが良さそうなところで終わるよう促す。
残りのメンバーは出先から直接店に来る営業の田中君と、在宅勤務の阿部ちゃんだ。
自転車は会社に置いたまま、出社組とおれは店まで徒歩で向かった。ぶらぶら歩いて15分ほどだろう。
「楽しみっすよ、噂のイケメンがいるって」
「ショールームの女性たちが頑張っているらしい」
興味津々の渡辺君に、開発の金子君がメガネの位置を直しながら言う。
「あー……きれいどころが揃ってますよね」
弊社ビルの1階には国内住宅メーカーのショールームがテナントとして入っていて、常時3,4名の制服に身を包んだ女性がいるのは知っているが、おれはまだ接点がない。見かけるだけだが、みな小柄で綺麗な女性たちだ。
「まあ外国人ってことを抜きにしてもヒューゴほどの美形は珍しいよね」
そう言うおれを、金子君がチラッとこっちを見る。
「あ、それあの外人の名前?」
「うん」
「意外だな。だって高屋さん最近でしょ、店見つけたの」
「まだ数回しか行ったことないんだけどね、自己紹介するタイミングがあって」
「さすがっすね。PMってやっぱ人とつながるのが上手いって能力がないとダメなんすね」
渡辺君が目をきらきらさせておだててくれる。
いやいや、たまたまだよ。ヒューゴの名前を知ったのも、PMになったのも。
「金子さんの方も意外ですよ」新人の渡辺君は続ける。「ショールームの人とどこで交流があるんですか?」
「ウチの奥さん、元ショールームだもん」
「ええー!」渡辺君は素っ頓狂な声を上げた。
確かに金子君は理知的な魅力があるけれど、ショールームにいるキラキラ系の女性と仲良くなるガッツがあるようには見えないもんな。営業の田中君なら納得だけれど。
しかし、「ちょ、ど、どうやってゲットしたんすか!?」本当に信じられない様子で詰め寄る渡辺君に、「後で教えてやんよ」とメガネをわざとずらして見せる姿はなかなか粗野で。
あ、こういう一面もあるんだな。そう思いながらおれは店の階段を駆け上がりドアを開ける。
いつもの鐘が鳴り、「いらっしゃいませ。こちらへ」と微笑を纏うヒューゴに案内される。
奥の窓際のテーブルはゆったり5人座れるように拡張されていて、既にデザイナーの阿部ちゃんがシャンパンを飲んでいた。
「おまたせ」
「いえいえ、もっと遅くても」と阿部ちゃんがニヤける。美男鑑賞中でしたか。
全員が席につくと、ヒューゴがドリンクメニューを持ってきて、今夜の料理について簡単に説明してくれる。
なめらかな低音でよどみない声は、まるで音楽を聞いているような心地になってくるし、向かいに座っている阿部ちゃんはすでに目を瞑ってすっかり聞き入っている。
一番ヒューゴの評判に興味を持っていた新人の渡辺君はと言うと、ぽかんと口も目も見開いてヒューゴを見ている。
「特に時間制限はありませんから。ごゆっくり」
にっこり微笑んでヒューゴはカウンターに戻る。
確か0時頃が閉店だから、今からだとたっぷり5時間くらいあるぞ。そんな店聞いたことがない。後で確認しにいかなきゃな。
最初はシャンパンで乾杯することにして、おれが打ち上げの挨拶を賜った。今回の成功はチームのみんなが支えてくれたからこその成功で、感謝しかないことを素直に伝えた。
入社時期が一番遅いおれがマネージャーなんてやりにくいことこの上なかっただろう。開発の金子君に至ってはおれよりもやや年上のベテランエンジニアなのに、献身的とも言える態度でプロジェクトの土台をがっちり築いてくれた。
「次の案件も、その次も、このメンバーで楽しくやっていこう。みんなありがとう」
薄いグラス同士が、キンと小気味よく重なった。
金曜日の店内はそこそこ賑わっていて、ヒューゴは涼しい顔でおれたち以外のもう一つのテーブル席も、カウンター客もこなしているようだった。
まさにアンドロイドモードだなと思う。
「あのバーテンダーヤバくないですか?聞きしに勝る美形なんですけど」
渡辺君がヒューゴに目線を向けつつ阿部ちゃんに同意を求める。
「でしょでしょ。あたしも久しぶりに見たんだけどさ、記憶より更に磨きがかかってる気がする」
「ショールームの人たちから人気があるのも納得っす」
「あー、はいはい。あの子達は基本残業ないからしょっちゅう来てるみたい。でも、落とせたって話は聞いてないのよね。まあ2年くらいで入れ替わるから、誰が彼を落とせたかなんて正確なことはわかんないけど」
「いないよ」
スモークサーモンをつまみながら金子君が言い切った。
「あ、金子さんとこ奥さんそうだもんね。知ってそう」
「そうっすよ!どうやってショールームの女子と結婚できたんですか!?」とそこから話は金子君の意外な武勇伝に流れていった。
前菜が無くなりかけた頃ヒューゴがドリンクのお代わりや料理の進み具合を確認しにやってきた。
料理はメインに進んでもらい、それぞれが飲み放題メニューから頼んでいく。
おれはヒューゴに手間をかけないよう他の人と同じものにしようかな、と最後まで待っていると、「透は?」とヒューゴがかがみこんでおれに優しく微笑んだ。
阿部ちゃんから「はうぅ」と変な声がした。
「金子君なに頼んだっけ」
不意に話しかけられてど忘れしてしまった。
「白ワイン」
「あ、じゃあおれもそれで」
ヒューゴはかしこまりました、と前菜の皿を手早くまとめはじめた。そういえば営業の田中君がそろそろ。
「ヒューゴ」
呼びかけるとちょっと手を止めておれを見る。
「もう一人、もうすぐ来ると思うんだ。遅れててごめんね」
「大丈夫。いらっしゃったら、案内しますね」
ヒューゴはゆったりと全員に微笑みかけた。
「ちょっと高屋さん。さっきのなんですか?」
「え、なに?」
「な、ん、で、な、ま、え、」
阿部ちゃんが眼光鋭く聞いてくる。
「俺もさっき聞いてさ、っていうか名前で呼び合う仲なの?意外だよね」
金子君が乗っかる。
「それは高屋さんのPMとしてのー」
また渡辺君がおだてるが「そういうのいいから」と阿部ちゃんが切る。
「言っとくけど、僕の奥さんすら名前知らないからね、結構通ったらしけどさ」
「 いや、引っ越してきたときに——」おれは経緯をかいつまんで話した。
「確かにこのお店って、外観も内装も男性向けなんだけど、極端に男性客が少ないのよね」
阿部ちゃんはメイン料理である骨付きのラム肉を一口齧り、おいしい!と言ってから、「だから高屋さんが一人で入って行って厚遇されたのも分かる気はする」と続けた。
「でも女性が来る店って、男も自然に集まるって言いませんか?」
もっともな意見を言う渡辺君に、「いやぁ」と金子君と阿部ちゃんが声を揃えた。
「無理っしょ。見てよあの淡麗な顔。それに高身長で身のこなしも優雅。自ら引き立て役になりに来るようなもんよ」
そう言って金子君はフッとタバコの煙を吐き出した。
「容姿もそうだけどさ、ヒューゴの声、すごく良いと思わない?超低音でよく通る。歌手みたいだなって……なに?」
そう阿部ちゃんに同意を求めるように言っていると、みんなの視線がおれの頭上に向けられていることに気が付いた。
「それはどうも」
ぽん、と頭に手が置かれた。振り返ると追加のドリンクを持ってきたヒューゴがおれの後ろにいて。
ヒューゴが去ってから、おれは軽く顔を覆った。
「聞かれちゃったじゃないか」
安倍ちゃんがそんなあたふたしている様子のおれに向かって「これはこれでアリ」と呟いた。
「何が?」
「高屋さん、仲良いんですか、ヒューゴさんと」
質問返しされてちょっと考える。
「うーん、普通の客かな。最初に見つけたときは2日連続で来たからたくさん話したけど、この間は全然。ずっと敬語だったし。最初だけは営業トークなんじゃない?」
そうこうしていると営業の田中君がやってきて、酒席は途端に賑やかになった。
彼は大手コンサルティング会社出身で横の繋がりも太く、いい案件を引っ張ってくることから社内で相当に重宝されている。
おれのような新人PMに割り当てられるなんて不憫だと思っていたが、そんな様子はおくびにも出さずにクライアントとおれの潤滑油を徹底してやってくれている。
新人の渡辺君のメンターも受け持ち、気のいい兄貴っぷりで後輩からの評判もよさそうだ。
遅れてきた田中君のために、ヒューゴは今日のコース料理全てが美しく盛られた大皿を出してくれた。残り物を食べさせるのではなく、ちゃんと冷たいものと温かいものを用意してくれる完璧なプロ精神に感心した。
ヒューゴは同時にバケットのおかわりと、長い木製のボードにいくつものチーズを乗せて持ってきた。
「サービスのチーズです。苦手なものもあるかも」
チーズは5種類、ブリーからロクフォールの強いのまで出してくれて、おまけにイチジクのジャムも付いている。宴会の支払いは予約時に済ませてあるが、5人でこんなにたくさん食べて飲めた上にチーズのサービスとはいささか安すぎやしないかと心配だ。
酒も食事も進んで、腕時計を見るともう3時間近く経っていた。ヒューゴは閉店までと言ってくれたけれど、常識的にはデザートを頼んで一旦お開きにしたほうがいいだろう。
みんなそれぞれいい具合に酔っていて、希望があればどこかへ二次会に行ってもいい。今日は金曜日だ。
カウンターの端に立って、機敏に動くヒューゴを観察していると、『なんだい?』と問いかけるように眉を上げて目を向けてくれた。
今夜はカウンターも満席だ。
ヒューゴは疲労を微塵も感じさせない微笑を顔に浮かべたまま、汗一つかいていないように見えた。この人数を独りで切り盛りできていることに感心する。
「そろそろ3時間になるから」
「ああ、大丈夫ですよ。閉店まで居ていただいても。他に予約は入っていませんし」
また、他人行儀モードになっている。さっき一瞬だけ、また仲良く話せるように戻ったかと思ったが。
「ありがとう。でも、だいぶ賑やかになってきたし、このへんでお開きにします。二次会に流れることになるだろうけれど」
「そうですか。お気遣いいただいて申し訳ありません」濡れた手を拭きながら「デザートお持ちしますね」と続けると、ヒューゴはキッチンへ消えた。
テーブルに戻り、デザートが終わったら一旦解散する旨を伝える。
阿部ちゃんはずっとヒューゴを見ていたいと後ろ髪を引かれていたが、どのみち時間的に帰らなければならないらしい。
気持ち的にはおれも同じで、ここでダラダラと飲んでいたい。でも自分以外は全員電車なわけで、早めに帰りたい人だっているだろう。
「二次会はきまりましたか?」と言いながらヒューゴはわざわざ中から出て来てくれ、店の隅の方へおれを誘導する。
「たぶん駅前の方で軽く行くと思う。一応幹事だから最後まで付き合わないと」
「そう」ヒューゴは短く呟いてふいにおれの耳に口元を寄せてきた。「お腹いっぱいになった?」
「え、あ、うん」
「ね、透。あとで戻ってきて。何時になってもいいから」
ほとんど息だけの低音で囁かれ、首筋から腰にくすぐったいような刺激が走り一瞬くらりとしてしまう。態勢を整えるためヒューゴの腕に少しすがってしまったのが気まずく、挨拶もそこそこに急いでみんなのところへ戻る。
おれ、耳弱かったっけ。一見客みたいな接客しておいて、最後の最後にこんなのずりーよ。
二次会は田中君の提案で会社にほど近いスペインバルになった。
「安くて旨いんで。それに」
ここはショールームの女子が結構来るらしく、社屋ではなかなか話しかけにくい彼女たちとの出会いをつなぐ場だそうだ。
もちろん金子君は知っていて、今の奥さんともここでの会話がきっかけらしい。
「高屋さんって、結婚してるんすか?」
渡辺君が気さくに聞いてくる。職場だとそういう質問も微妙だけれど、男同士酔ってもいることだし、おれも気にしない。
「いや、独身だよ。だから引越したり転職できたんだと思う」
「そもそも高屋さんてどうしてウチに来たんです?東京からでしょ?」
「いろいろあるけど、強いて言えば、もう少し人間らしい暮らしがしたいと思って」
「バリバリやってたんすよね」
「そんなことないけど……。仕事以外のことでも、いろいろ窮屈だなって」
「いつでも紹介しますよ、女のコ」
田中君が自信満々に言う。
「僕には?ねえ田中さん」渡辺君がしがみつくが「お前にはまだ早い」と腕を引き剥がされていた。
渡辺君の弟のようなキャラクターはみんなに可愛がられて得だな。田中君もやりやすいだろう。
おれは2人のやりとりを見つつ話を続ける。
「なんか億劫でさ。おれももう30だし、そろそろ見つけないと、なんだけど……」酒のせいか、本心が漏れる。
「それ仕事忙しいからでしょ」
田中君がフォローしてくれるが、金子君には「それに高屋さん植物系でしょ」と言われてしまった。
おれ、そんなに分かりやすいかな。
「僕まだ23ですし全然いけます!」再び渡辺くんが金子君の腕に縋る。
「おめー今アラサーに囲まれてるんだからちょっとは気を遣え」
今度は腕を外さず放っておいたまま田中君が続ける。「俺は遅かれ早かれなら早い方がいいと思って30で籍入れたけど、もしこの年で出会いそして結婚となると……想像するだけでドッと疲れる」
おれは深く頷いて同意を示した。
「でもまあ、夢中になれる相手がいれば別じゃない?面倒とかしんどいとか関係なさそう」と田中君。えらく前向きな意見だ。
「そういうもの?」
「え、高屋さん。まさかその外見で、ずっとフリーなんてことないっすよね?」
「少し前には居たけど、なんていうか……よく分からないな、と」
「IT系の人ってそういうイメージある」と渡辺くんがいきなりぶっ込んでくる。この世代ならではの素直さで。
エンジニアの金子君とおれは口元に手をやり、『た、たしかに』と顔を見合わせた。植物系なのか面倒くさがりなのか、もしかしたらそれらを併合しているのかも。
田中君は続けて、「かわいい子紹介しますよ」わざとらしくニッカリ笑い顔を作る。キミも振るねえ。
おれと金子君が渡辺君を見ると、口いっぱい唐揚げを頬張っていて、もうアラサーの恋愛話には興味がなさそうだった。
「おまえ、そういう所だぞ。田中を見ろよ、かわいそうに」
「えっ、残ってたから食べていいかと……」
「ちげぇよ!」
そんな金子君と渡辺君のやりとりが一通り終わると、田中君は作り笑顔を貼り付けたまま、「渡辺はおれと3次会決定」と言い放つ。
「ええー!また朝までコースっすかぁ」
渡辺君は口を尖らせるが、嫌がってはなさそうだ。仲良くてなによりだ。
そんなこんなでくだらない話をしながら楽しく飲んでいながらも、おれはさっきヒューゴに言われた言葉が気になって仕方がなかった。
言い方や雰囲気が、秘密を共有したような感じで。
それでも田中君と渡辺君の漫才のようなやりとりで笑わせてもらい、気付けば2時間近く経っていた。
こんなに楽しい職場の飲み会は初めてだな。
ギリギリ終電で帰れると駅へ走っていく金子君と、この後はカラオケに行くという田中君と渡辺君を見送って、おれは会社へ自転車を取りに向かった。
ヒューゴの囁やきを思い出して心臓がトクリと動く。
閉店後にまたあの時間が過ごせるのかもしれない期待に、胸が高鳴っているだけなのかもしれないけれど、少しそわそわした感じもあり、あまり覚えがない感覚だ。嬉しさに一番近いかな。
店の前まで来ると、窓から微かに明かりが漏れているのが分かった。
Closedの札が掛かったドアをそっと開けると、カウンターで飲んでいるのか、ヒューゴの背中が見える。
「来たよ」
ヒューゴは振り返り、「おかえり」と手に持っていたショットグラスをやや掲げた。
店内はすでに綺麗に片付けられていて、キャンドルの明かりだけがほの暗く揺れている。
「飲み直す気、ない?」とヒューゴが窓際のテーブルを顎で示す。
「よろこんで」
心が弾む。また2人で飲めるんだ。
「透は何飲む?」
「手間じゃなければ、モスコミュール」
「なんでも作るから言って」
ヒューゴはとても優しい口調でそう言ってくれた。
さっきの接客モードとは違い、もっと自然な笑顔で。
モスコミュールに口をつけながらヒューゴを見ると、ライムをかじってグラスを煽る。やっぱりかっこいいなと思う。こんな姿、阿部ちゃんが見たら失神するんじゃないかな、と思うくらい色気がある。
男に対してこの表現が合っているか分からないけれど、一番当てはまると思う。
「どうした?」
少し心配げに顔を覗き込まれて、しばし見つめていたことに気付いた。
「いや、仕草がかっこいいなと思ってさ」
「はは、ありがとう」
ヒューゴがはにかんだ。
「あのさ」
ヒューゴがなんだい?と目を少し見開いて応える。
「この間も思ったんだけど、時々、おれにも接客が他人行儀というか」
少し勇気が要ったが、おれは気になっていたことを聞いた。
「ああ、他のお客さんの手前ね」
「どうして?」
「僕はお客さんと親しくしないように気をつけている。普通に接していても、誤解がイロイロあって」
まあねぇ。向こうの男性は基本的に女性に優しいからな。それに。
「ヒューゴだからなぁ」
「僕?」
「そんな容姿で、料理も酒も旨いし。こんなのに優しく話しかけられたりしたら、そりゃな」
はは、とヒューゴは楽しげに笑いグラスを煽る。酒強いんだな。
「そんなに褒めてくれるの透だけだよ」
「でも、自覚あるでしょ?」
「そんなことはない。僕みたいなの、ヨーロッパでは普通だ」
そこで思い出した。世界の美女率ナンバーワンはストックホルムだと何かで見た気がする。ということは男も相当だろう。
「しかも、声も良いじゃん」
「たぶん発声が日本人と違うだけで、そんなに特別じゃないと思うよ。さっきも言ってくれてたね」
レジで震えた首筋がまたゾクリとする。
「いや、特別。今まで声が良いとか悪いとか気にしたことがなかったけど……最初に聞いた瞬間から、特別だなって思ったよ」
なんだか褒めすぎて、まるでおれがヒューゴを口説いているみたいじゃないか。
おれは少しだけ気まずくなって、それをごまかそうと残りのグラスを煽り取り繕うように言った。
「そう?」
ヒューゴは口角を上げて挑発するような目をしたかと思うと、おれの口元に手を伸ばし、親指でおれの下唇をなぞった。
「ついてる」
モスコミュールが唇に少し残っていたのか、拭った指が濡れている。
ヒューゴは何か言いたそうな目をしておれを見ながら、濡れた指を舐めた。
一瞬カッと身体が熱くなる。何にも分からなくて、でも視線や肌は不思議な緊張感を感知していて……。
「あ、ありがと……?」
ヒューゴは視線はそのままで少しの間無言でいたが、つと立ち上がり、「いいカクテルがある」とカウンターへ行ってしまった。
なんなんだよこれ……胸がざわつく。
戻ってくるなりショートグラスに入った琥珀色の酒を差し出す。
「どうぞ」
ウイスキーの味とスパイシーで花のような香り。
「なんていうカクテル?」
「ロブ・ロイ」
ヒューゴは端的に答え、スッとウォッカを煽ったかと思うと残り少なくなったボトルをかざして、
「残りはスクリュードライバーに。飲むでしょ」とおれに笑いかけた。
切り替えの早いやつ。
おれは自分の身体に溜まった熱を出すように長く息をついて、「飲むよ」と答えた。
顔がほてるのはアルコールのせいだけだろうか。
それから二人でめちゃくちゃ飲んだ。
映画の話と、おれは趣味の自転車についてよく話したように思う。
さっきの束の間の気まずさには一切触れないようにしているのは、たぶんお互い様で。
「ごめん、もう朝方だ。明日もお店あるよね」
だんだん窓の外が白じんできている。甘えて好きなだけ飲んでしまった。
おれは休みだけど、ヒューゴは土曜も営業日のはずだ。
そろそろ帰ると伝えると、
「夜中、飲みたくなったらいつでも連絡して」
と、ヒューゴはレジ横においてある店のカードに自分の携帯電話の番号を書いて差し出してきた。
「登録名はカタカナでいい?」
「いいよ。でも一応、知ってて」ヒューゴはおかしげに笑いながらカードにHugoと書き足してくれた。
おれは登録したての番号を鳴らして、Hugoの下に名前の漢字を書いた。
「漢字でもひらがなでもいいからおれの番号も登録しといて」
できたら掛けてきてほしいなと思う。お店が忙しいだろうし、おれからはなかなか掛けられなさそう。
「送っていくよ」とヒューゴが席を立った。
「近いからいい、大丈夫」さすがにそこまで甘えられない。
「少し歩きたいんだ。それとも、家を知られるのが怖い?」
怖いってなんだ。
「そういうのじゃないけど」
送ってもらったりしたら、余計に離れ難く感じそうなんだ。
ちょっと寝て、ブランチ食べて、どこかでかけて。
学生の頃はそんな友達いたよな。四六時中一緒にいるような。
おれがヒューゴに感じている離れ難さって、きっとそういうのなんだろう。
結局、申し出に甘えて送ってもらうことになった。
大人になってからも友達ができるなんて、幸運なことだと思う。
すっかり定位置になった自転車置場へ二人で降り、おれは自転車のロックを解除する。
ずいぶん軽いね、とヒューゴがおれの自転車を持ち上げる。
このロードバイクは社会人になって初めてのボーナスで買って以来ずっとメンテしながら乗っている愛車だ。
ヒューゴに自転車を任せ、だいぶ重くなってきた瞼を無理矢理こらえながら歩く。眠くてさっきからあくびがとめられない。
「酒、強いね」
「なかなか酔えなくてね。酔いたいけど」
ヒューゴは全くのシラフなのか、まるで早起きした人のように清々しい朝に馴染んでいる。
またあくびが出る。もう目が潰れそう。
「どれくらいで酔う?」
「酔ったことがあったかどうかも覚えてないな」
だめだ。眠くて倒れそう。家まであと少しなのに。
「ヒューゴちょっと腕」
おれはヒューゴの左腕を掴んで、「ここ真っすぐ、の……」とかろうじてマンション名を告げて目を閉じた。
もう無理。引きずって行くか捨てて行ってくれ。
「うそ、だろ……」
ヒューゴのつぶやきが遠くで聞こえた。
***************
焼け付くような喉の不快感で目を覚ましたおれは、水、水……と、まともに開けられない瞼のまま自分の周りを手探りでペットボトルを探す。いつも寝る前にはベッドサイドに置いておくのだが……
「起きたか」
ふいに部屋に低い声が響く。
がばりと上体を起こすと、ソファに大きい白人の男がいて、「おはよう」なんて挨拶してくる。
「え!?ここどこ!?」
おれは一瞬、学生時代に留学したカナダの寮にいるのかと前後不覚になってしまう。
「透の家じゃないの?」
よく見ると、引越して来たばかりの自分の部屋なのは間違いなく。
そうだ!おれすごく眠くて……
「ヒューゴ!」
「うん」
「連れてきてくれたの?」
「そ。何度か叩き起こしてね、自転車も一緒に」
「ごめんー」
「いいよ、飲ませちゃったのは僕なんだから」
ヒューゴは微笑み、「では、僕はそろそろ帰るけど」とソファから立ち上がり玄関に向かった。
おれは急ぎベッドから這い出し、キッチンにあったペットボトルのミネラルウォーターを流し込みながら後ろを追う。
「ほんとごめん。また飲も?」
引き止めたい自分を押し殺し、靴を履いているヒューゴに声をかけた。土曜はお店も忙しいはずだ。
「じゃあ……今夜もおいで。食事、用意しておくから」
振り返ったヒューゴの目に、窓から差し込む日光が反射してキラリと瞬く。
そういえば、明るいところでヒューゴを見るのは初めてだ。
「いいの?」
「必ず来て。待ってる」
そう言い残して背の高い男はかがむようにドアを潜って帰った。家の玄関にいたヒューゴは余計に大きく見えた。
閉じられたドアを見ながら、おれはついガッツポーズをしてしまった。今夜も美味い飯が喰える。
時計を見るとまだ辛うじて午前中だった。店を出たときは夜明け間際くらいだったと思うから、ある程度は眠れている。
その分、ヒューゴに時間を使わせてしまった。
置いて帰ってくれてもよかったのに、起きるのを待っていてくれた優しさが染みる。
今夜、よく謝らなくちゃ。
おれは二度寝の誘惑を引き剥がして少し熱めの風呂を用意し、とにかく酒を抜くことにした。せっかくの週末だ。
風呂から上がりサイクリング用のウェアに着替える。酒量の割に二日酔いの症状がないのがありがたい。
てっきり玄関先に置かれていると思ったおれの自転車は壁掛けのハンガーに正しく掛けられていた。
それにしても、寝落ちしたおれと自転車をどうやって部屋まで持って帰ってきたんだろ。おれの身体にも車体にも擦り傷一つ無いから、道路を引き摺ってきたわけでもなさそうだ。
7月末の昼間はもう真夏並みの日差しで、ライド時には日焼け止めとサングラスは欠かせない。
サイクリングウェアは吸水発汗性やUV効果が改良されて、半袖よりも長袖を着用している方がずっと楽だ。年々、肌に感じる日差しが強くなってきているのは気のせいではないだろう。
マンションの近くに流れている一級河川には、海まで続くサイクリングロードが並走している。極稀に散歩をしている人もいるから前方とスピードには気をつけなければならないが、それでも道路を走るのとは比べ物にならない快走感を得られる。もちろん信号もない。
なんとなく下流へとペダルを進める。
海まで行くつもりはなく、往復で3時間ほど漕げれば十分だ。
途中にある看板によると、いくつものサイクリングロードが県をまたいで繋がっており、うまくルートを繋げばぐるりと一周できるようだった。
山の方へ伸びているサイクリングロードは看板の途中で切れているものがあり、行き止まりなのか、そこへ行けば追加の道案内があるのかは把握できなかった。
探索の楽しみに胸が踊る。
再びベダルを漕ぎ始めると、停車中に吹き出した汗が、走行中の風で冷えて心地よい。
昨今の自転車ブームで土日はサイクリングロードの混雑も考えられる。もし本格的に山側のサイクリングロードを攻めるなら、体力を考慮してどこかで1泊したほうがいいだろう。キャンプもいいかもしれない。まあ平たく言えば野宿なわけだが、男一人だとなにかと身軽だ。
まだ彼女がいたころは、そう長くはない交際期間のうち2度ほど旅行に行った。虫が苦手な彼女の意向でキャンプには行けなかったが、強く誘っていれば付いてきたのだろうか。
おれは昔から、自分の意志や希望を通すことに抵抗があった。他人の意向を優先する方が精神的に楽だ、と信じていた。
だが本当は、抑圧され続けた自分の意思は無自覚のストレスとなり、小さな澱みを貯めていっていたんだ。それに気づいたのはずっと後で、小さな澱みは大池となり、生き辛さとしておれの日常に影響してきた。
このまま一生、不気味な違和感や我慢と共に生きていくのかと思うとゾッとしたんだ。いや、そのことに今まで気が付かなったことへの恐怖か。
我慢するのが人生ってものだ、なんて年配者の言に遭遇することがあるけれど、今なら全否定できる。
おれは我慢よりも、世界や自分の変化に寄り添う人生がいい。
結局おれは、自分を優先する生き方に方向転換し、そして一人になった。
今は何もかも好転しているように感じられるし、毎日充実している。
けれど。
過去に植え付けられた性格はまだまだ残っていて、自分を優先することに引け目を感じそうになる瞬間はある。
いつの日か過去を振り返ったときに、この決断を後悔することがあるんだろうか……などと思うこともある。
なんて、おれは詮無い思考に頭を委ねる。
自転車を漕いでいると無意識にどんどん思考が進み、気がつくと知らない場所にたどり着いていることなんてざらだ。
自分にとってこの時間はとても大切なもので『無の時間』と呼んでいる。思考はしているんだけど時間や場所を忘れてしまえる大切な切り替えポイントだ。この時間を週末に取れて初めて休息感を得られるんだ。
すっきりした頭で帰路につき、コンビニに寄って飲み物を数本買う。サイクリングの後は、飲みながら映画鑑賞をするのが週末の楽しみだ。
サブスクリプションサービスをザッピングしておすすめ映画を確認する。AIが抽出したタイトルに新しい発見もあるから侮れない。
でも今日は、ちょっと眠いかな……。今朝このソファにヒューゴがいたことがだいぶ前のことに思える。サイクリングで頭がリフレッシュできたせいかも————
ハッと気付くとすでに窓の外は真っ暗で、急いで時計を見ると19時を回っていた。知らずに寝入ってしまったようだ。さすがに30歳、朝方まで飲んだ日は昼寝しないと持たないか。
簡単に身だしなみを整えて家を出る。
相手の容姿があれだけ良いと、こっちも多少は小綺麗にしていかないと失礼な気がする。少しでも、あの店と、バーテンダーにそぐわしいように。
それにしても手持ちの服が通勤用しかないのは問題だ。……買いに行かなきゃな。
食事を用意してくれると言っていたが、様子を見て、もし混んでいるようならば少しだけ飲んで帰ろう。とにかく、今朝連れて帰ってもらった詫びが目的だ。
ドアを引くと、コロン、と優しく鐘がなり、ヒューゴが振り向く。
「あ、いらっしゃい透」
ヒューゴはカウンターでたくさんのキャンドルに順番に火をともしている。まだカウンター席に客はおらず、テーブル席が1つ埋まっているだけだ。
「今朝、迷惑かけた。ごめん。重かっただろ」
はは、とヒューゴは明るく笑って軽く首を振った。気にするなってことだろう。
「それでボトルでも入れようかと思ってさ」
「ボトル?なんの?」
ヒューゴは火をつける手を一旦止める。
「ほら、よくあるじゃん。常連が行きつけの店に自分専用の酒を1本キープしておくの」
ああ、あれか。と合点がいったようだ。
「常連になってくれるのか?」
「そのつもりだけど……」
「じゃあ、ウォッカかな。透はモスコミュールをよく飲むから」
「なるべく高価なやつな」
「そんな気を使わなくていいんだよ」
困ったような視線でおれを見てくるが、この方法以外に思いつかなかったんだよな。
「楽しかったから。また一緒に飲みたい」
「僕もだ。ね、食事用意してあるんだけど、どう?」
「そのつもりで、お腹空かせてきた」
ヒューゴはまずモスコミュールを出してくれて、それからキッチンへ消えた。
料理ができるまで、店内に据え付けてある本棚を覗いてみる。
床から天井まで、壁一面に作り付けられている大きな本棚の前には、スタンドライトと一人用のソファが2つ、小さいサイドテープルを伴って置かれている。その様子から、おそらくここでも飲んでいいんだろう。
本のラインナップは殆どが洋書で、英語でない本も多くジャンルが分からない。大判のものはおそらく写真集か。本だけでなく様々なデザインのブックエンドが使われているのも面白い。骸骨のような不気味なアンティーク調のものから、座ったアルパカのようなキュートな木彫りまで個々はバラバラだが、不思議と全体的にまとまり感がある。
これもヒューゴのセンスなんだろうか。
どんな本たちなのか推測してみようと端から順にタイトルをじっくり見ていると、「おまたせ」とヒューゴがキッチンから出てくる。
トマトソースの匂いが胃をダイレクトに刺激する。
「はまぐりのペスカトーレ。好きそうだと思ったから」
「うわ、絶対好き。いただきます」
一口目であまりの旨さに悶絶した。濃いめのトマトソースに凝縮された魚介の味、正直、今まで食べたパスタ料理の中で抜群に美味い。
ヒューゴは、カウンターの中に置いてあるスツールを俺の正面に持ってきて座る。
美味い美味いと連発しているとヒューゴははにかむけれど、そこには『当然だろ』と言わんばかりの自信も見えていて。
「作った人を見ながら食べて、直接美味いって伝えられるのって、とてもいいな」
おれがそう言うと、照れたような笑顔が返ってきた。言われ慣れてそうだが、意外な反応だ。
20時をすぎる頃にはカウンターも埋まり始め、ヒューゴはすっかり仕事モードになったようだった。おれには食後のコーヒーを淹れてくれて、各テーブルやカウンター席を移動しながら素早くオーダーをこなしていく。
「今日、あれから眠れた?」
食べ終わった皿を下げにきてくれたから声を掛けると、ヒューゴは立ち止まって「とても」と短く答えて少し思案するように間をおいてから、「店まで戻ってきて、そのまま上で寝て起きたらもう夕方だった」
両手がふさがっているヒューゴは頭と目線で天井の方を指す。
「部屋があるの?」
「うん。あ、ちょっと待って。電話だ」
エプロンのポケットにでも入れているのか、微かに振動音が聞こえた。ヒューゴは急ぎ足で厨房の方へ消えていく。
7席あるカウンターはほとんど埋まり、テーブル席はRiservedの札がある1席を残して埋まっている。
忙しそうだし、そろそろ帰ろうかな、とスツールから降りかけたとき、
「お知り合いですか?」と、ふいに隣に座っている男性客に声を掛けられた。
「あ、いえ、ただの客ですが……?」
まだ数回しか来ていないから、知り合いではないよな。
会話を終わらせるのは相手に申し訳ないと思ったおれは、スツールに腰掛け直して、
「常連さんですか?」と聞き返した。
男性客は会話が続くことに満足したのか軽く笑顔を作り、ウイスキーのロックらしき自分の酒を一口飲んだ。
「土曜日にね、よく来ます」
「そうなんですね」おれは思ったまま口に出した。いままで行きつけのバーなんて無かったから、こういう夜の店のコミュニケーションでは何を話せばいいのかいまいち掴めないな。
少しだけ居心地の悪さを感じて、やっぱり帰ろうと軽く身を乗り出して厨房を覗き込んでみる。厨房にはドアがあるから中は見えないが、隣客に対してのアピールだ。
すると、厨房の跳ねドアを押さえて電話をしているヒューゴと目があった。思ったより通話が長引いているのか、ドアを開けて店の方を気にしていたらしい。
「ん?」
ヒューゴがおれを手招きしている。
「失礼」
一応隣客に断って席を立ち厨房に向かう。なんだなんだ。
「大丈夫だよ。仕事がんばって」
近寄ると、ヒューゴはおれと視線を合わせたまま電話の相手に伝えてから切り、「お願いがあるんだ」と言いながらおれを厨房の中へと引き連れていく。
コンロが6つもある大きなストーブに、いくつもの鍋。想像していたより本格的な厨房をキョロキョロ見ながらヒューゴについていくと、奥に簡素な木の扉があった。
「涼子が仕事で遅くなるみたいなんだ。土曜は店を手伝ってもらっていて。今夜は予約が入ってるから一人じゃ厳しくてね」
扉の向こうはいわゆるパントリーらしく、食材の他にもテーブルクロスのような布類もたくさん置いてある。
「やらせていただきます!」
おれは先回りして答えた。ちょうどいい礼になるんじゃないか。それに、おれにはレストランでのアルバイト経験がある。多少は役に立てるはず。
「こんなこと頼むなんておかしいって分かっているんだけど。透を見たら、つい……呼んでしまった」
弁解しながらヒューゴは袋に入ったままの黒いエプロンと、白いシャツをおれに渡してくれた。
「涼子が来るまで、ドリンク運んでくれるだけでいいから。時給弾むね」
「いや、お給料はいらない。今朝のお礼にぜひ手伝わせてください!」
そう言いながらも、カウンターの中に入って一緒に働けるなんて楽しそうで胸が踊る。
パントリーの奥で着替えると、エプロンの他にジレも入っていた。どちらもLサイズでちょうどよく、おれはシャツの上からジレを着るとサイドのベルトで少し絞る。
アルバイトを何人雇っているのか知らないが制服として用意してあるんだろう。
それにしても懐かしいな。
大学時代にバイトしていたレストランはホテルに入っているそこそこ有名なお店で、まあおれはまかない目当てではあったけれど、厨房にいる多国籍のスタッフとの交流も楽しく卒業間際まで続いた。そんな唯一のバイト経験を活かせる日がくるなんて。
久しぶりのロングエプロンの纏わりと、ジレのタイトなフィット感に身が引き締まる。
念入りに手を洗いカウンターの中に入ると、さっき声をかけてくれた男性客の前に立ち、「急ですが、客からバイトになりました」と一声掛ける。
「やっぱりお知り合いだったんだ」
男性客は訝しげな様子ではあったがすぐに切り替えたようで、「じゃあお替りを」とさっそく注文してくれた。
「似合うよ」
グラスの縁にレモンをなすりつけながらヒューゴが笑いかけてくれ、おれはカウンターの内側に立つ姿はこうなっていたのかとまじまじ見てしまう。
ヒューゴはジレを着ていないが、着てしまうと絵になりすぎて今以上に現実味がないかもな。
それからすぐに予約の6名客が入店し、おれは飲み放題の過酷さを思い知ることになった。
酒豪揃いの女性6名で、とにかくじゃんじゃんオーダーが入った。
一見さんでは無いようだから、ヒューゴはこうなることが分かっていておれを頼ってくれたんだろう。
料理の方は軽食メニューから数品セレクトしたようで、チーズの盛り合わせなど簡単なものばかりだった。どう出すかをいちいちヒューゴに聞くのも悪いし、それに忙しすぎて会話する暇もない。
レストランのバイト時代に飽きるほど見た装飾パターンを思い出しつつ、予約表を見てプレートに盛りつける。念の為ヒューゴに見せてからテーブルへと運ぶが、今の所おかしなことはしていないだろう。
軽食はそれで良さそうだったが、6名客は誕生日パーティのようで、パントリーには四角いチョコレートケーキが人数分用意されていた。おそらくガトーショコラで、その大きさから察するにデザートをメインに据えているんだろう。こちらはヒューゴに仕上げてもらうしかなさそうだ。
おれはケーキを全てのプレート載せて、近くにあったフルーツを添え、厨房の作業台に並べる。たぶん他の菓子も載るはずだ。
厨房のドアを少し開き、目線でヒューゴを呼んで、湯煎しておいたアイシングペンを手渡す。
ヒューゴはわざと横目でおれを見ながら、チッチッチッと短く舌打ちし、「キミ、経験者でしょう?」と聞いてきた。
おれが知る限りだが、この舌打ちはヨーロッパの人がよくやる習慣で決して否定ではなく、感嘆の表現らしい。前職場のグローバル会議で、日本の運用プロセス資料が出た時に舌打ちが聞こえて驚いたが、後から聞くとそういうことだった。
フィンランドやドイツの会社との会議でも同様なことが起こったがアメリカでは聞いたことがなく、ヨーロッパ独特なのかもしれない。
日本語が自然すぎてついヒューゴが北欧人なことを忘れてしまうが、やっぱり身についた癖はそのままなんだな。
「昔ちょっとバイトしてただけだよ」
「思うに、かなりいいレストランだ」
そういいながら、長い指で器用にアイシングペンを摘み、皿の縁に筆記体でなにか書いていく。ハッピーバースデー的なやつだろう。
「それスウェーデン語?」
「そう。あのグループはスカンジナビアに住んだことがある人の集まりで、よくうちに来てくれるんだ。北欧のビールが置いてある店は少ないから」
なるほどな。ま、酒もそうだが、この北欧の代表みたいな外見をしているオーナーがいることも大きいだろうな。
ヒューゴは冷蔵庫からクリームが入った容器を出すと、たっぷりとガトーショコラの横に添え、さらにピンクと若草色のマカロンをいくつも載せた。コントラストが美しいし、なにより豪華だ。
おれも誕生日にこれやってもらおうかな。
「3枚、持てるでしょ」
返事を待たず、ヒューゴは仕上げを終えたデザートプレートをおれの腕に乗せる。
「こんなの余裕ですよ」と冗談めかすと、「時給、期待してて」と言いながらおれの口元に飾り付けで余ったラズベリーを持ってきた。
パクリと口に入れると、甘酸っぱく溶ける。新鮮なラズベリーなんてなかなか食べられないもんな。時給より、おれ、こっちの方がいいかも。
涼子さんは仕事が終わらなかったらしく、その夜は店に現れなかった。
ヒューゴに申し訳無さそうな顔をさせるつもりはなかったが、提示された時給は固辞した。
今朝の迷惑料に少しでも役立てたなら十分だ。それに本当に楽しかったんだ。
「あのさ、またバイトさせてほしい」
「もちろん!」
オーナーはおれの無謀な要望に即答してくれた。
「涼子が喜ぶよ、店に間に合わない日は、残業していても気が散るって言っていたから。だけど次はお給料受け取ってもらうからね。では、改めてよろしく」
「よろしく。客ときどきバイトってことで」
おれたちは合意の握手をした。契約成立だな。
普段、デスクワークで一日中PCに向かっているのと、ウェイターとしての立ち仕事は正反対に位置するように思う。その両方が経験できるなんてとても贅沢なことだ。
パントリーで着替えを済まして出てきたおれに「今夜はどうする?」とすでにエプロンを外したヒューゴが尋ねてくれた。
「1杯だけ飲んで帰るよ。おまかせしていい?」
「了解」ヒューゴは手早くエプロスパイスが香る琥珀色のカクテルを作ってくれた。初日飲んだものと同じものだろう。
「手伝ってくれてありがとう」
「こちらこそ、バイト、すごく楽しかったよ」
ヒューゴはショットグラスを煽り、おれはカクテルを一口飲み込んで、同時に深くため息をついた。
肉体労働後の一杯は言わずもがな、格別に美味い。
それをヒューゴと共有できたことに、おれは得も言われぬ充足感を感じていた。
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