一章 婚約破棄の手続きはお済みですか?③

 数日後。

 パトリシアは荷物をまとめ、長く暮らしていたセインレイム家の正門に立っていた。

 長い旅になるだろうことから、ワンピースに厚手のコートを着ている。くつも長時間いていても足を痛めない慣れたブーツ。ぼうだけはれいじようらしく、可愛かわいらしいデザインのものにした。

 かみは編み込みで一つに束ねている。

「もう出発出来ますか? パトリシアおじようさま

「ええ。ありがとう、カイル」

 旅の馬車を手配してくれたカイルがぎよしやと共にパトリシアの前に来た。パトリシアが持っていた大きなかばんぎわ良く取ると馬車の中に積み込む。

 カイルは長くパトリシアに仕える従者の一人だった。

 彼は元々ライグ商会に仕えていた少年で、ライグ家とセインレイム家のこんやくと共に両家のつながりとしてつかわされた。

 幼いころからの付き合いのためか、お嬢様と呼ぶ割に時々タメ口をくぐらいには親しい関係でもあった。時々パトリシアの我がままに付き合わされてうんざりすることもあっただろうが、それでも付き合い良くパトリシアに仕えてくれた。

 彼こそパトリシアにとってゆいいつの友人であり、唯一の切り札でもあった。

「長い間お世話になりました。いや、まさか本当に実行に移すと思わなかったけど……」

「今まで世話になったわね。資料作りは貴方あなたがいなくては出来なかったから、本当に感謝しているの」

 こんやくに関する資料や両親へのプレゼン資料の情報はすべてカイルから仕入れたものだった。

 前世を思い出したからといってパトリシア自身には情報を手に入れる力は無かったため、周囲の力を借りた。それがカイルだった。

 カイルは頭の回転が速く、初めこそ我が儘な令嬢が何を言い出すのかとけいかいしていたが、集めた情報をまとめるパトリシアの姿を見て気持ちを入れえた。

 その気持ちの切り替えの早さこそ、カイルが商人としてすぐれている証明でもあった。

「必要があればいつでも呼んでください。今のお嬢様のところになら喜んで行きますよ」

「ふふ。その頃の貴方はもしかしたらクロード様より大物になっているかもしれないわね」

「それは最高だな」

 カイルが笑う。

 パトリシアはカイルへの最後のほうしゆうが入ったふくろわたした。前々からめていたパトリシアのお金はほとんど情報のために彼に渡しているが、それでもクロードから受け取ったばいしよう金により倍になって戻ってきた。今渡したものが、最後の報酬だ。

「今のお嬢様は別人みたいですね。あの頃のお嬢様もきらいじゃなかったですけど。やっぱ女ってのはしつれんで変わっちまうんでしょうかね」

 カイルはパトリシアが以前と大きく変わったのは、クロードにられたからだろうと考えていた。

「あら、カイル。それはちがうわ」

 パトリシアは人差し指を口元に当てて、ないしよばなしのようにカイルにささやいた。

「女は初めから殿とのがたの前では別人のように振るうものなのよ」

「…………お嬢様。あんた本当に十六歳です?」

 まるで男を手練手管であやつっている女性のような発言に、カイルは引きながら聞いてしまった。

「十六歳なのだけれど、精神ねんれいだけが上がっちゃったみたい」

「なんですかそりゃ」

 本当のことなのだが。

 パトリシアは笑った。

 そのがおは何一つ変わっていないなと、長年かたわらでパトリシアを見守ってきたカイルは目を細めながら思った。

「……本当に修道院には行かないんですか?」

「ええ。行かないわ」

 荷物をかくにんしながらパトリシアは答える。

 そう。彼女は両親に説明した修道院に行くつもりは全くなかった。賠償で得た資金を元に家を出て自立するつもりでいたのだ。

「目的地はネピアのままですか?」

「そうよ。湖水地方のネピア」

 パトリシアが告げる湖水地方ネピアは修道院とは真逆の南西にある田舎いなか町だ。ていからいくらかはなれており、ものが立ち入ることも少ない小さな町。広大なネピア湖の周辺に数百人程度の町人が暮らしている。

「そういや何でネピアなんですか? 俺がすすめたほかの場所も悪くなかったと思うんだけどなぁ」

 パトリシアが修道院に行かず独り立ちする計画は最初から決まっていたことだったため、新しい居住先の候補地をカイルに相談していたのだ。女性が一人で移住することでへんけんや村八分のような目にいたくなかったためだ。カイルがしようかいしてくれた場所はネピア以外にもいくつかあった。だが、パトリシアはとある情報を得た上で目的地をネピアと決めていたのだ。

「源泉があるからよ」

「源泉?」

「そう。源泉があるってことは……温泉があるかもしれないでしょう?」

 ほおわずかに染め、うれしそうに告げるパトリシアにカイルは絶句した。見違えるほどしっかりしたパトリシアから出てきた言葉が、温泉。

「なんか……お嬢様、やっぱりふんが変わりましたねえ」

 カイルの何気ない一言にパトリシアの表情は僅かにこわったものの、すぐさま平静な表情を取りもどおだやかに微笑んだ。

 源泉という単語にかれたのは、明子のおくが原因だった。

 仕事一筋で生き、『鉄の主任』というあだ名が定着するような女性だったが、それでも人並みにつかれもする。そんな彼女の生きが温泉旅行だったのだ。

 まりに溜まった有休をどう使うかといえば、かんさんのタイミングに一人で海や湖沿いにある景色の良い温泉街にまりに行くことだったのだ。

 何も考えずぼんやりと旅館で過ごし、熱いぐらいの温泉にゆっくりとかる。そうして心も身体からだいやされることが生き甲斐だった。

 明子は仕事こそゆうしゆうだったけれど、残念ながられんあいは今と同じでえんがなかった。

 人並みに恋愛はしてきた。新入社員として入った会社では、同期で入社したどうりようこいをしたこともあった。しかし相手から「お前っておもしろくないよな」といつしゆうされ、あえなく失恋。

(あの時は確かいん温泉郷まで一人あん旅行をしていたかしら……)

 次に好きになった人は仕事が出来る明子に対して甘い顔をするだけして利用し、最後は「かんちがいした方が悪いだろう」と一方的に非難されて恋が終わったのだ。

 その時は好きだった男の代わりに引き受けていた仕事を全てお戻しした上で消化していなかった代休と有休をふんだんに使いはんの温泉街に行って癒されたことを思い出す。

 ちなみにその後、明子を利用するだけ利用した男の横領や職務たいまんしようそろえて告発し退職して頂いたこともついでに思い出した。

 それ以来、恋をあきらめた明子はワンルームマンションを買い、ついでに愛犬をむかえ入れていたのだが。

 自身の余命を知った後、愛犬を知人にたくしたことを思い出す。可愛かわいかった愛犬との思い出は、実はそこまで多くない。元々仕事がいそがしすぎて知人に散歩や世話をお願いしていた。おそらく明子よりもなついていた知人と家族になったのだから、きっとだいじようだろう。ほんの少しさびしい気持ちにはなるが。

 くなったことに対しては何一つこうかいが無かったパトリシアだが、愛犬のことを思い出したらほんの少し悲しくなった。

「まあ、ネピアなら移民に対しても寛容で穏やかな町だからいいんですけど。にしても、仕事はどうするんです? 当たり前ですけれど、手持ちの金で一生を暮らすには限界がありますからね」

 カイルの声にふと我に返る。そうだ、今はパトリシアとして新しい生き方を考えなければ。

「ええ……わたくしに何が出来るかを考えないとね」

 仕事。今までのパトリシアでは考えられなかったこと。カイルは心配そうにパトリシアを見ているが、当のパトリシアは期待に胸をふくらませていた。労働をすることはもちろん生半可なかくで出来ることではない。からかやってきた身寄りのない成人女性を、しかも元貴族ともいえる身分の者を受け入れてくれる場所を探すのもひと苦労かもしれない。

 けれどパトリシアは悲観などしていなかった。これからの新しい生き方に、労働をして対価を得る喜びに期待を膨らませていた。

(ふふ……まるで新入社員のような気持ち。その前に就職活動だけれども)

「そうだ。わたすのを忘れてた」

 カイルがあわてて手に持っていた小さな荷物を手渡してきた。

「あら、なあに? これは」

いつぱんたみが着る服ですよ。絶対役に立つから持っていってください」

 改めて受け取った荷物の中を確認してみれば、質素なデザインのワンピース等、衣類が入っていた。

「わざわざ用意してくれたの?」

「そうですよ。この先絶対必要になりますから」

「……そうなのね」

 パトリシアの反応にカイルが深々とためいきく。

「おじようさまはしっかりしてきたようで、やっぱりまだけてますね。まあ、きっとこれからいやというほど理解するでしょう。まずはだまって受け取っておいてください」

「……貴方あなたが言うのならきっとそうなのでしょうね。ありがとう」

 受け取った荷物をめ、パトリシアは心から感動した。

 前世の記憶を思い出すまでのパトリシアは、自分で言うのも何だがむすめでは無かった。ずかしい行いは数知れず。けれども、悪い人間では無かった。

 味方も少なく、自身の感情のやり場も分からない少女だったパトリシアにも、こうして心配してくれる友人がいたことに。本当に、心から喜んだ。

「ネピアに着いたら手紙を書くわ。貴方にとって益になりそうなことがあったら第一にれんらくするから」

「ははっ……! 困ったことがあったら手紙をしてください。元気かどうかだけでも知らせてくれればいいからさ。益とかどうとかよりも、俺はお嬢様が心配なんでね」

「ええ、勿論……! ありがとう、カイル……!」

 馬車に乗り、出発する間もずっとカイルに手をった。

 両親すらも見送りにこないパトリシアにとってゆいいつとも言える友人の姿が見えなくなるまで。

 ずっと、ずっと。

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