一章 婚約破棄の手続きはお済みですか?③
数日後。
パトリシアは荷物をまとめ、長く暮らしていたセインレイム家の正門に立っていた。
長い旅になるだろうことから、ワンピースに厚手のコートを着ている。
「もう出発出来ますか? パトリシアお
「ええ。ありがとう、カイル」
旅の馬車を手配してくれたカイルが
カイルは長くパトリシアに仕える従者の一人だった。
彼は元々ライグ商会に仕えていた少年で、ライグ家とセインレイム家の
幼い
彼こそパトリシアにとって
「長い間お世話になりました。いや、まさか本当に実行に移すと思わなかったけど……」
「今まで世話になったわね。資料作りは
前世を思い出したからといってパトリシア自身には情報を手に入れる力は無かったため、周囲の力を借りた。それがカイルだった。
カイルは頭の回転が速く、初めこそ我が儘な令嬢が何を言い出すのかと
その気持ちの切り替えの早さこそ、カイルが商人として
「必要があればいつでも呼んでください。今のお嬢様のところになら喜んで行きますよ」
「ふふ。その頃の貴方はもしかしたらクロード様より大物になっているかもしれないわね」
「それは最高だな」
カイルが笑う。
パトリシアはカイルへの最後の
「今のお嬢様は別人みたいですね。あの頃のお嬢様も
カイルはパトリシアが以前と大きく変わったのは、クロードに
「あら、カイル。それは
パトリシアは人差し指を口元に当てて、
「女は初めから
「…………お嬢様。あんた本当に十六歳です?」
まるで男を手練手管で
「十六歳なのだけれど、精神
「なんですかそりゃ」
本当のことなのだが。
パトリシアは笑った。
その
「……本当に修道院には行かないんですか?」
「ええ。行かないわ」
荷物を
そう。彼女は両親に説明した修道院に行くつもりは全くなかった。賠償で得た資金を元に家を出て自立するつもりでいたのだ。
「目的地はネピアのままですか?」
「そうよ。湖水地方のネピア」
パトリシアが告げる湖水地方ネピアは修道院とは真逆の南西にある
「そういや何でネピアなんですか? 俺が
パトリシアが修道院に行かず独り立ちする計画は最初から決まっていたことだったため、新しい居住先の候補地をカイルに相談していたのだ。女性が一人で移住することで
「源泉があるからよ」
「源泉?」
「そう。源泉があるってことは……温泉があるかもしれないでしょう?」
「なんか……お嬢様、やっぱり
カイルの何気ない一言にパトリシアの表情は僅かに
源泉という単語に
仕事一筋で生き、『鉄の主任』というあだ名が定着するような女性だったが、それでも人並みに
何も考えずぼんやりと旅館で過ごし、熱いぐらいの温泉にゆっくりと
明子は仕事こそ
人並みに恋愛はしてきた。新入社員として入った会社では、同期で入社した
(あの時は確か
次に好きになった人は仕事が出来る明子に対して甘い顔をするだけして利用し、最後は「
その時は好きだった男の代わりに引き受けていた仕事を全てお戻しした上で消化していなかった代休と有休をふんだんに使い
ちなみにその後、明子を利用するだけ利用した男の横領や職務
それ以来、恋を
自身の余命を知った後、愛犬を知人に
「まあ、ネピアなら移民に対しても寛容で穏やかな町だからいいんですけど。にしても、仕事はどうするんです? 当たり前ですけれど、手持ちの金で一生を暮らすには限界がありますからね」
カイルの声にふと我に返る。そうだ、今はパトリシアとして新しい生き方を考えなければ。
「ええ……わたくしに何が出来るかを考えないとね」
仕事。今までのパトリシアでは考えられなかったこと。カイルは心配そうにパトリシアを見ているが、当のパトリシアは期待に胸を
けれどパトリシアは悲観などしていなかった。これからの新しい生き方に、労働をして対価を得る喜びに期待を膨らませていた。
(ふふ……まるで新入社員のような気持ち。その前に就職活動だけれども)
「そうだ。
カイルが
「あら、なあに? これは」
「
改めて受け取った荷物の中を確認してみれば、質素なデザインのワンピース等、衣類が入っていた。
「わざわざ用意してくれたの?」
「そうですよ。この先絶対必要になりますから」
「……そうなのね」
パトリシアの反応にカイルが深々と
「お
「……
受け取った荷物を
前世の記憶を思い出すまでのパトリシアは、自分で言うのも何だが
味方も少なく、自身の感情のやり場も分からない少女だったパトリシアにも、こうして心配してくれる友人がいたことに。本当に、心から喜んだ。
「ネピアに着いたら手紙を書くわ。貴方にとって益になりそうなことがあったら第一に
「ははっ……! 困ったことがあったら手紙を
「ええ、勿論……! ありがとう、カイル……!」
馬車に乗り、出発する間もずっとカイルに手を
両親すらも見送りにこないパトリシアにとって
ずっと、ずっと。
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