第2話 ぼくは誰

「うーん。シーツは濡れてないし。ユーリくんはどちたのかな?」

「きゃっきゃっ」

「ううん、そんなのどっちでもいいわね。ユーリ、生まれて来てくれてありがとう。初めてだったから、私はとっても不安だったのよ。ね、ブラン」

「あぁ。バーバラはよくやった。ユーリもよく頑張ったな」

 

 父親の名前はブラン、母親の名前はバーバラ。

 この時期のユーリの知能は年相応。

 過去を思い出せるようになるのはもう少し先のことだ。

 ただ、このユーリという赤子は。


「バーバラ。ちょっとやりすぎじゃないか?」

「分かってるわよ。ジェラさんからも何度も言われてるわ。可愛いのは分かるけど、甘やかしすぎって」


 夫婦を悩ませることになる。とにかく育てるのが大変だった。

 直ぐに泣くし、直ぐに機嫌を損ねる。

 そんな育てるのに苦労をする子ユーリの態度が激変したのは、彼が一歳半になった時だった。


「だーめ!おかあさんはいっちゃだーめ!」


 ある程度歩けるようになった頃、ユーリは母親の外出を咎めるようになった。

 成長と共に解禁される記憶は、一歳半のもの。記憶とは関係ないが、これは彼の本能による訴えだった。


「ユーリ。気持ちは分かるが生きていくためなんだ。今度お父さんが一緒に遊んであげるからな!……バーバラ、子供って鋭いって聞いたけど、本当だったな。」


 父はそれとなく母の腹部を見た。すると母は愛おしそうにお腹を擦る。

 彼の弟か妹が出来たのだ。隠しているつもりだったが、子供の勘は侮れない。

 とはいえ、収穫時期だから妻の手を借りなければならない。

 だから、どうにか宥めようとしたら、驚くべき言葉が我が子から発せられた。

 

「ぼくがおかあさんのかわりにはたらく……だから」


 ペチン‼

 大した痛みではなかったが、頬を叩かれたユーリ泣き叫んだ。

そして子供を叩いた母親が、彼を抱きしめる。


「ユーリが怪我をしたらどうするの⁉大丈夫よ。お母さんは強いのよ!」

「……うん。ゴメンなさい、おかあさん」

 

 結局、ユーリは半ば監禁状態にされて、収穫時期に外に出ることはなかった。

 祖父母はおらず、基本的には一人で昼間は過ごす。

 近所のおばあさんが相手をしてくれることもあったが、肝心の母は働きっぱなし。

 

「うー、ジェラおばあちゃん、おとなのちからはひきょうだよ」

「ユーリちゃんは優しいのね。そんなにお母さんが心配?大丈夫よ。今日もあの子は元気いっぱいだったわよ。ユーリちゃんもたくさん食べてもっと大きくならないとだね。」


 どうにか家を出ようとする子供と、簡単に彼を捕縛する老婆。

 そして、老婆ジェラは二歳の子供の発言に、軽く両肩を浮かせた。


「お母さんもしんぱいだけど、がもっとしんぱいなの」

「ん、そうよね。でも、お父さんの後を継いでくれるユーリちゃんがいるから頑張れるのよ。」


 ただ、それだけ。

 弟か妹か、そのどちらかには違いない。

 彼は弟が欲しいからそう言ったのかと思った。


 そして、彼が二歳を迎える前。一家に悲しい出来事が起きた。

 泣き崩れる母と、唇をかみしめる父。それからジュリアおばあさんを含めた女性たちの複雑な顔。


 ユーリの心配はそのまま形となった。

 死産だった。いつそうなったのかは分からない。

 ただ、生まれた時、その男児は息をしていなかった。


「こういうこともある」


 その時、誰かが言ったこと。そして誰もが納得する言葉。

 既に嫡男に恵まれて、母親も無事だったお産は、次の子が死産だったとしても十分にお釣りがくる内容だった。

 それくらい出産とは死と隣り合わせだった。


 そんな中で、少年は肩を震わせていた。

 それから一週間後。


「おとうさん。ぼくもはたらく。ちからしごとはできないけど、できることからやっていきたい」


 あの時は涙を見せなかった息子が、泣きながら父ブランに頭を下げた。

 乳臼歯が生え揃ったばかりの稚児を、父は思い切り抱きしめた。


「分かった。出来る事から始めよう。まずは——」


 育ち盛りの脳神経が少しずつ、あの記憶へと近づいていく。

 とはいえ、それはまだ泡沫の夢の如きもの。

 そんな少年は収穫を終えた麦穂に向かって、指を突き出した。


「これ……、これとこれ……これもこれもこれはちがう」

「うんうん。そうだね。そっちの方が実が大きいね。」


 ユーリは母親譲りの薄い金髪、加えて柔らかくて甘くて良い香りがする。

 愛おしく感じつつも、わしゃわしゃとさせるブラン。

 

「いたいー!おひげいたいー!」

「済まない……。本当に済まない。お父さんがもっとしっかりしなくちゃな」


 嫌がられながらも、彼には息子を抱きしめることしか出来なかった。

 彼が言いたいことは分かる、もっと麦を育てて、もっと豊かになって、バーバラが安心して子供を産めるようにしたいのだ。


 領主様からの命令が無い限り、農奴階級である自分たちには何もできない。

 

 連座責任が掛かるから、妙な行動をとれば他の村人に報告される。

 村八分になると、全員で所有している牛や馬は使えない。畑の水もままならない。

 お産の時の助けあいさえも失われてしまう。 


 ブランが子供のころからそうだったから、今は仕方がないと思っている。

 だから、今一番辛いのは、こんなにも小さくて勇敢な少年に、いつか話さなくてはならないことだった。


 ——しかし、そこから一年後。


 状況は呆気なく変わっていった。


「これは……どういうことだ?」


 三歳の男児を連れた父と母は、自分たち以外が担当している畑の前で立ち尽くしていた。

 正確には連座制には加わっていない畑だから、家からはかなり遠い場所である。


「今年は寒いから不作って話だったけど……」

「あぁ。ここまでだったとはね。」


 バーバラはお腹を擦りながら、握られた手を強く握り返した。


「みんなで分けっ子しようよ。お父さん、お母さん!」

「あ、あぁ。そうだな。」


 父ブランも握られた手を握り返す。

 去年は運よく豊作だったから、端境期も難なく乗り切れた。

 今度こそ二人目をと考えていたが、そんな時に今年は不作かもしれないという話が出た。

 でも、収穫期手前の自分たちの畑は——


「ユーリ‼お前のお蔭だ。お前の言う通りだった‼」

「あ、トーマスさん。それはメ‼ロリ罪のせくはらだよ‼」

「セクハラって、ユーリは男の子だろ。それに口バッカ達者になりやがって。かわいくない‼」

「でもロリ罪!それにバッチいから手を洗ってよ!」

「分かったよ。相変わらず、潔癖症だな。ブランさん。俺の畑も問題なく穂を実らせてますよ。これで俺達は……」

「トーマスさん。ちゃんと隣村に分けないとダメだよ。情けは人の為ならずって言うでしょ?」


 そう。この時期になるとユーリは少しだけ記憶に触れるようになっていた。真っ先に思い浮かぶのは【ぐらぼ】とかいうよく分からない言葉だが、父親に言われなくとも、領主と領民の関係性も朧気ではあるが気が付いていた。


「んで、約束守ってよね!」

「あぁ。それは勿論だ。バーバラさん。今年はゆっくり休んでください。身重で無理をしちゃ駄目ですよ」

「ユーリ?いつの間にそんな約束を……」

「あぁ。秘密だったっけ。いいじゃないっすか。で、やっぱ分けないと駄目?」

「だーめ。土の質も大切なんでしょう?畑ってすごく難しいって……、えとお父さんが言ってた。」

「あ、あぁ。そうだな。土地を休ませるにしても、病が流行ることもあるし、な」


 トーマスはジェラの孫で、ジェラに言われてユーリの面倒を見ていた青年だ。

 祖母に言われた通りに行動した結果が今。


 ——そして三か月後


 そわそわしているブランとユーリの前に老婆ジェラが姿を現した。


「無事に終わったぞい。母子ともに問題ない。」

「おおおお!やったなぁ。よくやったぞ、バーバラ‼」


 その言葉に一番に反応したのは、当然ジョージ。ユーリを抱えて、喜んでいる。

 ユーリも勿論、喜んでいるが……


「ユーリが言った通り、可愛らしい女の子じゃ」

「ん?言った通り……」


 ただ、ジェラがそう言った後、ユーリは頬を引き攣らせた。


「え、いやいや。あれだって。妹が欲しいな……って。」

「そ、そうか。そうだよな。まぁ、父さんは男の子も欲しかったけども」

「うんうん。弟も欲しい‼お父さん、お母さん。また頑張ってね!」

「ちょ!何を言っているのかな?なぁ、母さん。」


 今度こそうまく行った。

 ユーリも歓喜に震えていた。逆に言えば、同じことがあの時出来ていたらとも思ってしまう。


 そして、そんな複雑な表情を、老婆は読み取っていた。

 だから、めでたい場で彼女は言った。


「ジョージ、バーバラ。話がある。勿論、ユーリについてじゃ」


 ユーリの両肩が浮いた。

 ただ、三歳半のユーリはまだ前世の記憶だとか、分かっていない。

 単に少し前からジェラの目が気になっていた程度だった。

 だから、とても悪いことをした気になり、怒られるのではないかと目をぎゅっと瞑って、耳を塞いだ。

 その時はそれで終わりだった。


 それから更に一年と少し。

 ユーリは両親よりも赤子を溺愛している兄になっていた。


「マーガレットは絶対に美人になる。そしてお兄ちゃんと結婚するんだ!」

「うー、ママぁぁ」


 すると半眼でバーバラがユーリを睨みつける。

 ユーリはユーリで、自分の口が妙なことを口走った自覚はある。

 流石に四歳半にもなれば、記憶の中に出てくる言葉を理解し始めていた。

 勿論、深い意味は分からないが、なーんとなくは分かる。


「ぼく、仕事手伝ってくる!約束通り、弟を作ってくれたみたいだし!」

「おとーと?」

「って!ユーリ!早く手伝いに行きなさい。」


 すると、もうすぐ六歳児の彼は急いで家を飛び出していく。

 そこで母バーバラはお腹を擦りながら、一人呟いた。


「……そんなにバレバレかしら。それにしても——」


 今回もうまくやれた、とユーリは父が待つ畑へと向かう。

 結局のところ、人とは食べ物なのだ。それから的確な衛生管理なのだ。

 記憶にはないから、前の人生で兄弟はいなかったのだろう。

 だからこそ嬉しい。だからこそ、少年は楽しかった。そして自分がやっていることの意味を深くは考えなかった。


「税収はきついけど、基本的には今までの査定がそのまま通ってる。改訂があってもそれよりたくさん作ればいいだけだ。これで弟も——」


 そして母のお腹が大きくなったある日のこと。

 六歳半の少年はふいに足を止めた。

 いつもお世話になっている長老兼育てのお婆ちゃんと両親が話し込んでいた。

 悪いことをしている自覚はないが、なんとなく近づけずにいると。


「最近、畑や種もみを見ておるのは知っている。そして腹の中の子も知っている風じゃった。」

「そ、それが何か?自慢の息子です。」

「それはそうじゃろう。何せ、三年も我らの畑に豊作を齎しておる。」

「そ、そうですよ。きっと、幸運の下に生まれた子で……」


 父と母が焦っているのは分かった。でも、何を焦っているのか、ユーリには分からなかった。

 だけど、自分のことを言っているのは分かったし、険しい顔をしているのも見えた。

 ということは、怒られるのだろうと目を閉じたまま聞いた。


「確かに幸運かもしれない。じゃが、ユーリは一度も体調を崩しておらん。そういう体質を持つのが、貴族じゃと聞いておる。」

「ななな、なにを言っているのですか。ユーリはジョージと私の子です。」


 ん、それってつまり?

 ユーリは何とも言えない気分になった。

 それって父、もしくは母が貴族ということ?

 それがどういう意味を持つのか、ほんの僅かだが分かってしまう、ほぼ六歳半の子供。

 「しゅらば」という言葉が、記憶の隅から漏れ出そうになったが、話はもっと奇妙な方向へと進んだ。


「そういうことを言っているのではない。そこにおるのじゃろ、ユーリ。お主は強い魔力を持っておるのじゃろう?貴族は強い魔力を持つ。ワシらもごくわずかじゃが魔力は持っておる。そしてごくわずかな確率じゃが、強い魔力を持つ者が生まれると聞く。」

「ま、ま、ま、魔力⁉」

「そうじゃ。持っておるのじゃろう、ユーリ?」


 この瞬間、ほんの僅かだが記憶が戻った。

 ここは魔法がある世界だったらしい。つまりファンタジー世界‼

 だが‼


「ジェラおばあちゃん。ぼく、魔力なんて持ってないよ?魔力ってどんなの?」


 そんなもの、1mmだって感じたことはない‼

 だが、ここに来てもうすぐ七歳児の発言は余裕でスルーされる。


「ワシらも良く知らぬ。じゃが、その可能性があるものは領主様にお見せしなければならない。これがフォーナー領の決まりじゃ」


 そして、ここからユーリの歩む道は大きく変わっていく。

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