第3章 シノ君は実在しますか?
第11話 シノ君らしきひと
「こんにちは。君、俺の助けが必要だと思うんだけど、合ってる?」
塾を出て駅方向へ少し歩いたところで、ぼくはシノ君らしき人物に声をかけられた。けれど、一昨日に見た彼とは違って髪の色が枯れたススキ色から黒髪に変わっていた。それでもぼくが、一昨日の人物と同一人物であると直感したのは、彼の持つ特徴的な声だ。一度聴いたら忘れられない、心をざわつかせるような美声。
彼を仮称シノ君と呼ぶとして、一体ぼくになんの用だろう。仮称シノ君の助けが必要なことだなんて、思い当たる節が全然ない。ぼくが困った顔で首を傾げていると、仮称シノ君も困ったように眉を寄せて瞬きを繰り返した。
「あれ、
「あの、なんなんですか。助けが必要って……ぼく、別になにも困っていませんけど」
「いや、優しい君はいずれ困ることになる。情報が足りなくて気づいていないだけさ」
仮称シノ君はそう言うと、ニヤリと不敵に笑ってぼくとの距離を一気に詰めた。気づけばぼくは仮称シノ君に肩を組まれていて、くるりと反転させられていた。どうやら仮称シノ君はぼくを連れて行きたいところがあるらしい。体格差と圧倒的な強者のオーラに負けたぼくは、おとなしく仮称シノ君に連れられるがままに一歩踏み出した。
肩を組まれて連行されているせいか、仮称シノ君がまとう香りがぼくの鼻腔くすぐった。とはいっても香水だとか整髪料の香りじゃない。仮称シノ君は直近で髪を黒く染めたらしい。ヘアカラー剤の独特な香りがまだ消しきれなくて、彼が歩くたびにふわりと香るのだ。
ぼくはヘアカラー剤の香りを感じながら、ある噂を思い出していた。
シノ君は、ちょくちょく髪の毛の色を変えてしまう、という噂だ。
やはりこの人は仮称シノ君ではなく、シノ君そのものなのだろうか。ご本人登場なのだろうか。ぼくの頭が勝手にぐるぐる動き出したところで、仮称シノ君がぼくに囁いた。
「君のお友達、今日、塾に来てないだろ。それ、早く見つけ出さないと大変なことになるぞ」
「えっ、頼兼さんが!?」
ぼくは思わず聞き返していた。仮称シノ君に引きずられるようにして歩いていた足も止めた。
早く見つけ出さないと大変なことになる、とは、どういうことだろう。それに、どうして仮称シノ君が、頼兼さんが塾に来ていないことを知っているのか。東城先生と知り合いのようだし、先生から相談されたのだろうか。
それにしても、どうして頼兼さんを気にかけているんだろう。
仮称シノ君が、ぼくらが思うシノ君ご本人だとしたら、ぼくには全く勝ち目がない。そうでなくても、彼は大人で体格もいいし、手足がスラリと長いモデル体型だ。顔立ちだってイケメンの部類だし、なによりその声が、一度聞いたら耳の奥でこだまして虜になってしまうような中毒性を持っている。そんなひとに、ぼくは勝てるだろうか。いや、勝てないだろう。
ぼくの思考を暴走させたのは仮称シノ君の言葉だったけれど、暴走する思考をピタリと止めたのもまた、仮称シノ君の言葉であった。
「頼兼? 頼兼春佳か? いや、違う。俺が言っているのは秋常勇作だ。……とりあえず冬先生に話を聞きに行こう。この時間なら、まだ残っているはずだ」
仮称シノ君は眉を顰めてそういうと、ぼくを引きずるようにして再び歩きはじめた。向かうは学習塾名霧学舎。講師待機室にいる東城先生だ。
けれどぼくはそんなことはどうでもよくて、仮称シノ君が頼兼さんを探しているわけじゃなかったことを知れて、安堵したのである。それが、束の間の安息であったと知るのは、この数分後のことなのだけれど。
仮称シノ君は受付に設置されている専用アプリの顔認証を使ってチェックインを済ませると、一直線に講師待機室へ向かった。肩を組まれたままのぼくも、相変わらず引きずられるようにして連行された。
「あれ、
仮称シノ君が講師待機室の扉をガラリと開けると、彼とぼくを出迎えたのは東城先生だけだった。先生は、一昨日よりも整理整頓された机の上で、講義に使った教材と回収したプリントを整理しているところだった。
塾の受付で、正規の手順でチェックインを果たしたということは、仮称シノ君はこの塾の塾生徒なのだ。けれどぼくは、このひとの顔を見たことがないし、廊下や自習スペースですれ違ったこともない。
もしかして、以前、東城先生が言っていた、塾の生徒であるにも関わらず一度も講義を受けたことがない生徒なのだろうか。それはつまり、東城先生の身内であり、お寺さんの関係者である。そんな細かな情報を拾い上げていくと、ぼくの頭の中でパズルが完成していくような感覚があった。
けれど今ここで結論を出すのは時期尚早だ。ぼくは慎重に仮称シノ君と、彼と会話する東城先生の様子を黙って探ることにした。もっとも、なにが起きているのか、起きようとしているのか、全く把握できていないぼくは、とにもかくにも情報収集に務めることしかできないのだけれど。
仮称シノ君は待機室内に東城先生しか存在しないことを素早く確認すると、ぼくを連れて待機室へずかずか入っていった。そうして先生の前でため息を吐きながら首を横へ振る。
「冬、俺は勉強しに来たんじゃない」
「なによ、またQRコードでも持ってきたの? 付箋にしてもなくしちゃうから、やっぱり栞か絵葉書にしてくれない? 本に挟むのにちょうどいいから」
「今日はその件じゃない。冬、今日塾を欠席した生徒の中に、秋常勇作がいるはずだが、間違いないか?」
「秋常くん? ちょっと待って、調べるから……確かに欠席。それも無断欠席。珍しいわね、秋常くんが欠席なんて。ところで蓮成、あんた秋常くんと知り合いなの?」
「えっ、秋常くんも欠席なんですか!? ……頼兼さんだけじゃなかったんだ」
どうやら秋常くんも欠席したらしい。そして、仮称シノ君が気にかけていたのは頼兼さんではなく、秋常くんであることが判明して、ぼくはどうしようもなくホッとしてしまった。
けれど、と思う。
今日、塾を欠席したのは頼兼さんと秋常くん。昨日、トラブルがあったふたりが示し合わせたかのように欠席しているだなんて。ぼくの脳裏には、昨日のこじか珈琲店でのやり取りが浮かんでいた。
噂の中のシノ君と同じ色をした髪の秋常くん。その秋常くんを見て、急に様子がおかしくなって逃げるように帰っていった頼兼さん。
頼兼さんはあのとき、なにかに気付いたようだった。一体、なにに気付いて顔を青くしたのだろう。なにに怒っていたのだろう。ぼくが考え込んでいると、仮称シノ君が組んでいた肩を解放してぼくの両手首を掴んで揺さぶった。
「君、心当たりがあるんだろ。今は少しでも手がかりが必要なんだ」
真剣な眼差しに見つめられて、ぼくの呼吸が一瞬止まった。もしかしたら状況はぼくが考えているものより深刻で、切羽詰まっているのかもしれない。
ぼくは仮称シノ君の必死さに当てられて、返す言葉を失ってしまった。そんなぼくを助けてくれたのは、東城先生だった。
「ちょっと、蓮成。あんた……私の生徒たちになにやらかしたの」
「俺がやらかしたの前提かよ……。違う、逆だ。俺は被害者、加害者はガキども」
「あんたとひとつしか違わないのに、ガキだなんて。日向くん、蓮成になにしたの。こいつ、凄く面倒臭い男だから早めに謝って関係を立つことをおすすめするわ」
「冬、日向夏樹は無実だ。俺にちょっかいかけてんのは失踪した秋常勇作ともうひとり。頼兼春佳の二人だ。……今のところ、喫緊で対策が必要なのはこの二人」
「えっ、待ってください。秋常くんならともかく、頼兼さんもだなんて!」
どういうことなんだろう。仮称シノ君の言い分は、真実なのだろうか。まさか頼兼さんと秋常くんが、彼に迷惑をかけるようなことをしていたなんて。と思いながらも、ぼくは思い当たる節があった。昨日、頼兼さんも秋常くんも、シノ君のAランク個人情報を得ようとして無茶したことがある、というような話をしていたからだ。
どうしよう、それをこの場で言うべきか。それとも頼兼さんと、ついでに秋常くんの味方をするべきか。ぼくが迷って沈黙していると、仮称シノ君が真面目な顔をしてぼくを見ていた。
「信じられないのも無理はない。だが、誰しも裏の顔っていうのを持ってるものなんだ」
「蓮成、頼兼さんと秋常くんもあんたのストーカーってこと?」
「す、ストーカー!? いや、ちょっと待ってください。確かに蓮成さんは格好いいですけど……ストーカーだなんて。それに、頼兼さんも秋常くんも、学校に塾に……それからシノ君について研究する時間の合間に、蓮成さんとストーカーする時間……あっ、もしかして、ネットストーカーですか?」
ぼくは東城先生の言葉で、完全に混乱していた。これはもう、思い当たる節しかない。
頼兼さんは処理部の部活動で何やら怪しい情報収集をおこなっているようだったし、秋常くんは付箋事件を起こすという前科もあるのだ。これはもう、ふたりを庇いきれない。そして、目の前にいる仮称シノ君が、一体誰なのかということにも、目を背けて誤魔化し続けることはできなかった。認識を改めるときが来たのだ。
「日向くん」
と。仮称シノ君がとてもよく響く声で、ぼくの名前を呼んだ。そして、とても穏やかでにこやかに首を振る。横へではなく、縦へと。それはぼくの予想に対する肯定だった。
「君の予想は正解だ。もう知らないふりをしなくていい」
「……シノ君。あなたが本物の、実在するシノ君なんですね」
「そう。俺は
仮称シノ君改めシノ君こと蓮成さんはそう告げると、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
その笑顔がぼくが思うシノ君とまるで同じで、かえって蓮成さんとシノ君とを切り分けて考えられるほどだった。
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