第18話
春元会長が生徒会室を去ってからも、僕は学園祭の準備に関する仕事に追われていた。
受験勉強に本腰を入れなければならない春元会長に頼れないのは仕方ないが、こうなると空野さんの不在が妙に大きく感じる。
空野さん、明日はきてくれるかなぁ……。
彼女の事を考えると、昨日までの出来事がフラッシュバックして、胸が何だかざわざわした。
――キーン、コーン、カーン、コーン……。
重々しいチャイムの音が聞こえて、僕は書類の海から顔を上げた。
空野さんの事を考えている時点で、当に集中力は切れている。窓の外では茜色を通り越して、紫がかった空が広がっていた。
時計を見ると、そろそろ下校時刻だ。僕は伸びをしながら書類を片付けた。
部屋の鍵を閉めて、僕は一人で鍵を返しに職員室へ向かう。
こうして、生徒会室から一人で帰るのも、一週間前までは日常茶飯事だったはず。
だけど、それが今日に限っては妙に寂しく感じられて、自然と足取りも重くなってしまった。
「……いや、一週間ではないのか」
そう言って、僕は一人で苦笑いを浮かべた。
今になって思うと、春元会長がさっき言っていた「もっと距離が近い人間」というのは、空野さんの事なのだろう。
春元会長は知らない話だろうけど、僕と空野さんは、今日を迎えるために、昨日までの一週間を何度もやり直した「相棒」のような存在だった。
まあ、空野さんがどう思っているかは分からないけど……。
せっかく迎えられた今日になって、隣に空野さんがいないのは、確かに残念に感じられる。
「……黒田、くん?」
ぼんやりと職員室前の廊下を歩いていると、控えめに呼びかける声が聞こえてきた。
僕が声のした方を振り向くと、グラウンドに続く通路から、神崎さんが歩いてくる所だった。
「やっぱり黒田君だ。やっほー、今日は一人?」
「ああ、うん……」
神崎さんにその気はないんだろうけど、空野さんがいない事実を再度突き付けられた気がして、なんだか僕は沈んだ気分になってしまう。
そんな僕の気持ちなど知る由もない神崎さんは「そっか、私も練習が今終わったところでさ」と言いながら、クラブルームのものらしい鍵を持って、僕と並んだ。
「良かったら駅まで一緒に帰ろっか」
職員室で僕と一緒に鍵を返した神崎さんは、軽い口調でそう言った。
一週間前までは一緒に帰るどころか、こうして話すこともなかった僕たち。
その急な距離感に戸惑っているのは、この一週間で一週間以上を過ごしているはずの僕の方だった。
「……やっぱり、この時期は遅くまで残ってる人、あまりいないね」
校門を出て駅までの道は、神崎さんの言う通り寂しさすら感じるほどだった。
確かに、うちの学校の運動部はこの時期大会後の引継ぎが中心で、あまり熱心に練習している部活は多くない。
こんな下校時間ギリギリに帰る生徒は、学園祭を前にして張り切る吹奏楽部くらいだろう。
「でも、私はこの下校風景が好きなんだ。自分が人より頑張ったって思えるからさ」
「神崎さんは、いつもこの時間まで走ってるね」
「……うん。昨日は流石に守衛さんに怒られたけどね」
昨日……神崎さんが佐々木先輩へ告白しようとして、やめた日だ。
だけど、そう言って笑う神崎さんに、悲壮感はない。
もう、神崎さんが壊れて僕たちに牙を剥く日はないんじゃないか?
彼女の横顔を見て、僕はそう思った。
「……やっぱり、黒田君には見えてるのかな?」
「え?」
一瞬、その横顔が表情を失った気がした。
それは、普段の神崎さんでも、僕を絞め殺した神崎さんでもない、底の見えない無表情。
「なんだかんだ言って、ずっと二人で生徒会役員してる訳だもんね、紫咲と」
だけど、すぐに穏やかな表情を取り戻した神崎さんは、なんでもないように言葉を続けた。
「だから、やっぱり紫咲の気持ちが見えてて……だから、私が負けることも、分かってる?」
「神崎さん……」
それは、神崎さんの精一杯の強がりにも見えた。
同時に、神崎さんの意地にも見えた。
だけどどちらにせよ、この儚くも美しい表情を浮かべる女の子に、かける事ができる言葉はない。
僕は結局のところ「負けヒロイン」の観測者でしかなかった。
「……もう時効だと思うし言っちゃうけどさ。前にデススで話したでしょ。中学時代の先輩の話。あの時、同じ文芸部で私と三角関係になった女子……それが紫咲。黒田君も知ってる空野紫咲なんだよ」
「あぁ……」
それで話が繋がった気がした。
「あの時、結局私は紫咲を先輩に紹介しなかった。それは、単に自分を振った先輩と自分の友達が仲良くなるのが何となく嫌だったから。でも、後から考えると、私も結構嫌な事してるよね。結局色々タイミングが合わなくて紫咲とその先輩が付き合うことはなかったけど、あの時私が違った選択をしてれば、紫咲も幸せになってたかもしれないし」
「それは……仕方ないと思うよ」
実際、それは難しい仮定だと思う。
神崎さんの言う通り、自分を振った人が友達を紹介してくれ、なんて言ってきて「分かりました」と答える人なんて、そうそういないだろう。
「結局、紫咲の気持ちだけは、最後まで分からなかったんだけどね。あの子はいっつも、自分の気持ちをうまく隠してる。だから……私は紫咲が怖い。もういっそ、すべてを佐々木先輩に打ち明けて楽になりたいとも思うのだけど……。やっぱり、傷つくのは怖いよね」
「そっか……」
僕はただ、頷くことしかできなかった。
「今回」に限っては佐々木先輩と空野さんの接点は薄いみたいだけど、前回までは毎回、佐々木先輩が空野さんに惚れ、神崎さんがそれに耐えられなくなって……というパターンが続いている。
ひょっとしたら、空野さんの動きに関わらず、佐々木先輩の気持ちはすでに固まりつつあるのかもしれない。
だけど、今回に限ってはそのきっかけはまだないはずだ。
となると、佐々木先輩の気持ちはまだ空野さんには傾いていない?
じゃあ、今回の神崎さんが佐々木先輩への気持ちを打ち明ける自信がないのは、神崎さんの空野さんに対する苦手意識が原因というだけだろうか?
「でもね。こういうと黒田君は気を悪くするかもしれないけど、今の私には黒田君がいる。それは、紫咲を意識する上でとても重要なんだよ」
「ぼ、僕が?」
意外な所で名前を出されて、僕は焦る。
だけど、神崎さんは落ち着いた様子で頷いて言った。
「だって、中学時代の紫咲は、よく小学校時代の黒田君の話をしていたもの。そして、今でも紫咲は黒田君の近くにいるでしょ?」
「あ、そうか……」
神崎さんの中学時代の友達が空野さんだった。
ということは、僕は小学校時代にすでに、空野さんと知り合っていたことになる。
「こんなことを頼むのは卑怯なの、分かってるよ。だけどお願い。紫咲の気持ちを教えて。私はあの子にだけはもう負けたくない。そのためだったら、たとえ私が佐々木先輩と付き合えなくなっても構わないから」
「え……?」
それは矛盾している、と言いかけて僕は口を止めた。
「お願い……。紫咲だけはダメ。あの時みたいな、惨めな想いをするのだけは嫌なの!」
その瞳には僕を絞め殺した時と同じかそれ以上の狂気を孕んでいて。
「ただ、私は変わりたいだけなの……」
僕が魅入られた、あの負けヒロインの涙が溢れていたから。
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