第16話

「いやぁ、やはり対人戦は面白いな。特に空野さんは筋がいいし、いい対戦相手だよ」

 結局『レース・フォー・ザ・ギャラクシー』に始まり『ゲシェンク』『ペンギンパーティー』『モダン・アート』『バザリ』と聞いたことも見たことも無いようなゲームを立て続けに遊び終えた頃には、すっかり日が暮れていた。

 時間は午後7時を回っている。

 春元会長はゲームを遊び慣れていない僕たちのために、すべてのゲームで丁寧にルール説明をしてくれた。

 おかげで、僕も楽しい時間を過ごせたのは事実だ。

 だけど、やっぱり僕は喉の奥に引っかかった魚の小骨みたいに、神崎さんのことを気にせずにはいられなかった。

「さて、お腹が空いてきたな……。空野さんはおかずも買ってきてくれたのかい?」

「ええ、もちろん。そういう話でしたから」

 元々、二人の間では話が決まっていたのだろう。

 空野さんが間髪入れずに頷いた後、僕に釘を刺すように視線を送ってきた。

「そうか……。ここで皆で飯を食う日が来るなんてなぁ」

 春元会長が表情を緩めてゆっくりと呟いた。

 彼女が寂しさを忘れて喜んでくれるのは、僕としても望んでいた展開だ。

 だけど……。

 そんな幸せそうな春元会長を見れば見るほど、今この瞬間にも泣き崩れて壊れてしまっているかもしれない神崎さんのことが、気になって仕方なかった。

 確かに、春元会長は嬉しそうだし、そんな彼女を見ていると僕も嬉しい。空野さんも、楽しそうにボードゲームをプレイしていた。

 僕が今日ここに来たことで、この展開になったのだとしたら、それは喜ばしいことだ。

 だけど……。

 時間を追うごとに大きくなっていく、この棘のような心の痛みを、僕はそろそろ無視できなくなっていた。

「……春元会長。お手洗いをお借りしてもいいですか?」

「ん? ああ、もちろんだとも。部屋を出て廊下の左手だ」

「……すみません」

 僕の言葉に、春元会長は少しだけ意外そうな顔をした。

 確かに、ここは「すみません」ではなく「ありがとう」の場面だ。

 でも、本当はこの「すみません」だけでは足りない。

 今から、僕は春元会長を悲しませてしまう行動を取ろうとしているのだから。


本当に……すみません!


 リビングの扉を閉めた僕は、静かに廊下の右手、トイレではなく玄関へ向かう。

 そして、自分の靴を履いた後、そのまま外に出て一目散に駆けだした。

「すみません、春元会長……!」

 向かうのは駅方面。

 何度謝罪の言葉を口にしたところで、自己満足にしかならない。

 だけど、やっぱり僕は神崎さんのことを、放っておけなかった。

 だって、僕たちは、いや、僕は神崎さんを壊れさせないことを目的に、この5日間をやり直ししているんだ。

 何度やり直しても佐々木先輩にフラれてしまう神崎さんは、美しい。

 そう感じてしまうのは歪んだ僕の性癖でしかないんだけど、その彼女がフラれる瞬間に、外野面しろっていうのは無茶な要望だった。

 息が上がり、何度も躓きそうになりながら、それでも僕はゾンビのように走り続ける。

 空野さんとあんぱん片手に進んだ歩道は、退勤後のサラリーマンと思しき人々で溢れている。人の流れをかき分けながら、僕は走らねばならなかった。街灯と月光にぼんやりと照らされているが、その歩道は薄暗く、見通しも悪い。

 空野さんや春元会長は、もう僕が家を出ていったことに気付いただろうか。

 それを考えると、やっぱり胸が痛んだ。

 きっと、空野さんは僕の行動に気付いた瞬間、すぐに後を追うだろう。

 空野さんの目的はあくまで今日を生き延びること。

 春元会長のことなんて、本当はあまり重要だと思っていないに違いない。

 だから、ためらいもなく春元会長を一人残して、僕を止めるため家を飛び出すだろう。

 僕がそうしたみたいに。

 結局……僕は今回も神崎さんだけでなく、春元会長のことも満たすことができなかった。

 だから、これは一つの禊だ。

 何回やり直しても、同じように女の子たちを不幸にしてしまう僕の、自己満足でしかない。

「……間に合ってくれ!」

 幸いすぐにやってきた電車に飛び乗り、僕は乱れた息を整える。

 自己満足と分かっていても、今だけは神崎さんの側にいたかった。

 空野さんと共に生き延びることを度外視して、僕は傷心の神崎さんに寄り添いたかった。

 恋に破れる乙女は美しく、儚い。

 たとえ、その先に待つのが破滅だったとしても、僕は神崎さんの恋が破れた先を見届ける必要がある。

 電車が減速し、やがて停車した。

 人の流れに押し出されるように、僕は勢いよく駆け出す。

 もはや、なぜ走っているのかも分からなくなってくる。

 それでも、僕の身体はぐんぐんと学校へと向かって走っていた。

 そして――


「神崎、さん……!」

 夜の帳が落ちたグラウンドの中央で、彼女はたった一人、走っていた。

 すでに下校時刻は過ぎ、グラウンドには僕と神崎さん以外、誰もいない。

 静寂と薄闇の中、彼女はまるで何かを忘れようとするかのように、走り続けていた。

「黒田、君……?」

 グラウンドのフェンス越しに、僕たちの視線が交錯する。

 ジャージ姿の神崎さんは、ゆっくりと減速し、やがてこちらに向けて歩き始めた。

 前回までの記憶が蘇り、僕は本能的に危機を察知する。

 何か、行動をしなければ。

 今までとは違う未来を掴むために。そして、神崎さんへの救いを与えるために。

 ここで空野さんと共に逃げた所で、僕には問題解決になるとは思えない。

 だから……!

「どうして、こんな時間にここに?」

 フェンスを挟んで目と鼻の先。

 神崎さんが穏やかに微笑んだ。

「えっと……」

 前回の記憶が再び脳裏を過ぎる。

 結論を急いで、神崎さんを刺激してはいけない。

 不用意な発言は、ここでは死に直結する。

 だって、目の前にいるのは恋に破れた直後の、美しく儚い負けヒロイン。

 爆発直前の時限爆弾と同じ類の、危うさを含んでいるのだから。

「もしかして、生徒会の仕事帰り?」

 フェンスの向こう側で、神崎さんが足を止めた。

 金網越しに、僕はグラウンドの灯りに照らされた神崎さんを改めて見つめる。

 その表情からは、僕を絞め殺した時の狂気は感じられない。

それどころか、穏やかな表情にすら感じられた。

「……神崎さん、いるかな、と思って」

 僕は神崎さんの質問に答える事なく、口を開く。

 神崎さんは、再び微笑みを浮かべて、生徒会室のある新校舎を見上げた。

「そっか、ここで走ってると、黒田君からは丸見えだったね」

「……今日はずいぶん遅くまで走ってたんだね」

 努めて自然な口調になるよう、僕は言う。

「うん」と短く頷いた神崎さんに、胸が痛むのを感じた。

……本当は、神崎さんが走ってるのなんて見てなかった。

ずっと、僕は神崎さんから逃げるように、空野さんと共に春元会長の家で遊んでいた。

 でも、それは今、重要な事ではないし、口にすべき事でもない。

 秋の訪れを感じさせる涼やかな夜風が、僕たちの間を吹き抜けていった。

「今日はさ、三年生が……佐々木先輩が完全に部からいなくなる日だったんだ」

 穏やかな口調のまま、神崎さんがゆっくりと再び横に歩き出した。

 その視線の先はフェンスの切れ目。

 僕は生唾を呑み、神崎さんの言葉の続きを待つことしかできない。

「だけど……ダメだった」

 どこか他人事のような口調だった。

 彼女はゆっくりとフェンスの切れ目に歩きつつ、その場で立ち尽くす僕を振り返る。

 どうやって、言葉をかければいいのだろう。

「負けヒロイン」が大好きなはずの僕は、あくまで「観察者」でしかない。

 ここで何か気の利いたことを言って、傷ついた神崎さんを元気づける術がないことに、僕は絶望するしかなかった。

「だから……ホッとしたんだ」

 だけど。

 そこで足を止めた神崎さんは、僕を見つめたまま儚く微笑んだ。

「黒田君が、会いに来てくれて。私の事を気にしてくれていて」

「え……?」

 その笑顔は救いを確かに求めていた。

 だけど、同時にその救いをすでに見つけたようにも見えた。

「……私ね、今まで自信がなかった。いつも、欲しいものを手に入れられないんだ。だから、今回もダメだって分かってたの」

 穏やかだった神崎さんの表情が、わずかに崩れる。

「……今日は陸上部の三年生が部活から完全にいなくなる日。佐々木先輩も引き継ぎを終えて、もうここには来なくなる。だから……今日が最後のチャンスだって思ってた。だから、告白しなきゃって焦って……!」

 目じりにたまった神崎さんの涙が、グラウンドの照明を受けてきらりと輝く。

 だけど、神崎さんはそこでもう一度、微笑みを浮かべて、言葉を続けた。

「でも、黒田君が私は輝いてるって言ってくれた。だから……私はまだ諦めないことにしたの。今ここで玉砕するより、もっと先に来るチャンスのために、自分を磨き続けようって」

「え……?」

 僕は呆気にとられて、マヌケな声を発することしかできなかった。

「私、告白はやめたんだ。今日は、まだその時じゃないって」

 美しい笑みに、強い決意が滲んでいた。

 神崎朱莉は、もう僕が知っていた危なっかしい負けヒロインの顔をしていない。

「ありがとう。黒田君。君のおかげで、私は傷つかずに済んだ。君のおかげで未来に繋ぐことができた。きっと、今日焦って佐々木先輩に告白してたら、私は惨めにフラれて、壊れてたから……」

 ゆっくりと、フェンスを回って、神崎さんが僕のいる方へと近づいてくる。

 僕は、逃げることも身構えることもしない。

 きっと、それをする必要は、もうないんだ。

「今日、ここに来てくれたの、とても嬉しかったよ」

 僕たちの距離が一歩、また一歩と狭まっていく。

 僕は、自分が急に恥ずかしくなってきた。

 僕も、空野さんも、自分が生き延びることしか考えてなかった。

 その裏で、どれだけ神崎さんが葛藤し、悩んで、自分の気持ちと向かい合おうと戦っていたかも知らずに。

「神崎さん、僕は――」

「黒田君から離れなさい!」

 いらないことをカミングアウトしようとした僕を遮るように、悲痛な叫びがグラウンドに響いた。

 神崎さんが足を止め、ゆっくりと声の主へと視線を送る。

 僕と神崎さんの間、ちょうど正三角形を描くような位置で、肩を上下させている悲壮な表情の少女、空野さんが立っていた。

「どうしたの、?」

「いいから、黒田君から離れて!」

 まるで前回の神崎さんのような鬼気迫る表情で、空野さんがもう一度叫ぶ。

 そんな空野さんを見て。


「そっか……」

 神崎さんは寂しげに呟いた後、

「え、ちょ、神崎さん……?」

 僕に背中を向けて、そのまま離れて空野さんの方へと歩いていく。

「私にその気はないけど、今回は謝らないから」

 誰に向けたかも分からない言葉を残し、神崎さんはやがてグラウンドを去っていった。


「……帰りましょう、黒田君。きっと、今日はもう大丈夫よ」

 残されたのは、まるで魂が抜けたかのように消耗した表情を浮かべた空野さんだけで。

 僕は、本当に今日の自分の行動が正しかったのか。

 途方に暮れながら、何もそれ以上言わない空野さんと共に、駅まで歩いていくことしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る