第二章   3周目前半

第8話

「……くん。……黒田君」

 まず感じたのは冷たいエアコンの風。

「起きなさい、黒田君」

 泥だまりのように暗く深い所から、意識が急浮上する。

 呼びかける声に応えるようにして、僕はゆっくりと身を起こした。

「……黒田、君」

 身体が急速に酸素を求め、過呼吸する。

 開ける視界。おはよう見慣れた生徒会室。

「大丈夫かしら。かなりうなされていたみたいだけど」

「えっと……」

 先ほどから聞こえてくる聞きなれた女子の声に、僕はようやく顔を向ける。

「伸ばした」というより「伸びた」という印象の腰元まで伸びた長い髪の毛。

 ほっそりというより痩せたという印象の体躯。

 地味な丸眼鏡がまとった無表情は、どこか不安そうに見える。

 そこには、この数日間共に行動することが多かった空野さんの姿が「あの日」と同じくあった。

「……あの後、どうなったの?」

 春元会長が室内にいないことを確認してから、僕は真っすぐに空野さんを見つめる。

「ごめん、結局僕は神崎さんにやられちゃったみたいだ」

「……そう。さすがに寝ぼけている訳ではなさそうね」

 そう言って、空野さんは無表情なまま短く息を吐いた。


「……そっか。それはなんというか……大変だったね」

「ええ、黒田君も災難だったわね」

 お互いに殺人事件に巻き込まれたんだから「大変だった」「災難だった」というのは、少し違う気がしたのだけれど。

 気の利いたセリフを考えるには、今の僕たちはお互いに疲弊しきっていた。

「そういえばさ。僕は前回も今回もここで目覚めてるけどさ。空野さんはどこから『やり直し』が続いてるの?」

「私は今朝家で起きる所からよ」

 ふと浮かんだ疑問に、空野さんはすぐに答えてくれる。

わずかな時差のある開始点。

そこに何か意味があるのかと僕は気になったけど、その時生徒会室の扉が開いて、僕は思考を止めた。

「あ、黒田君。さてはサボっていたな?」

 入ってきたのは案の定春元会長だった。

 短く整えられた髪型は相変わらず凛々しく、自信と余裕を感じさせる穏やかな笑みは、どこまでも曇りが無い。

 僕は春元会長と約束したにもかかわらず、果たせなかった「前回」のやり取りを思い出し、罪悪感に胸が締め付けられた。

「まあ、このソファを買うと言ったのは私だし、強くは言えんがな。休憩は程ほどにして、生徒会選挙の広報なり学園祭の準備なり、いくらでも仕事はあるんだから頼むよ」

「はい、すみません」

 頭を下げつつ、僕は春元会長の様子を伺う。

 春元会長には「前回」の記憶は残っていないのだろうか。

 だとしたら、僕に自らの悩みを話してくれたあの春元会長は、今目の前にいる彼女とは別人ということになるのだろうか……?

「おいおい、どうした黒田君。本当に寝ぼけているんじゃないだろうな」

「あ、いや……」

 気付けば随分と春元会長の方を眺めたままぼんやりとしていたようだ。

「会長、実は黒田君、ちょっと運動部の監査のことで考えていたみたいで……」

 すかさずフォローを入れてくれた空野さんに、春元会長が「そういえば」とばかりに手を叩く。

「明日は運動部の監査があったな。今までは私がすべてやっていたが、どうだ?」

「どうだ、とは?」

 今までにないやり取りに戸惑っていると、春元会長はにやりと笑った。

「私もあと少しで『引退』だ。これからは黒田も監査をできるようになった方がいいと思うんだが、どうだ?」

「会長、まさかそう言って明日サボるつもりでは……」

 前回までの展開を思い出したのか、空野さんがすぐに表情を曇らせるが、僕は春元会長の提案のおかげで、いいアイディアを思いついた。

「分かりました、春元会長。明日の監査は僕がやってみたいと思います」



「……黒田君、まさかこのまま帰るとは言わないわよね?」

 ――前回と同じく施錠を終えた春元会長と別れて帰路についた僕を、空野さんが呼び止める。

 すでに鍵を返しに職員室へ向かった春元会長は近くにおらず、夕陽が差し込む廊下には僕たち二人の影しかなかった。

「前回あれだけ苦労して春元会長を動かしたってのに、今回はえらくあっさりと白旗を上げたわね。どういうつもりかしら?」

「……勝手に話を進めて悪かったね。でも、今回は僕に考えがあるんだ」

 僕は「前回」早朝にあんぱんをかじりながら春元会長の家の隣の公園で、空野さんと二人「張り込み」をしたことを思い出しつつ、苦笑いした。

 つい最近のようにも遠い大昔のようにも感じられる、僕たちの思い出。

 今回の世界ではあの体験をすることもないのか、と考えると少しだけ僕は寂しい気持ちになった。

「結論から言うと、『前回』の僕は神崎さんの行動を変えられなかった。神崎さんの説得をするにはきっと、僕は彼女の気持ちに向き合うことを避け過ぎていたと思うんだ」

「そうかしら。現にあなたは神崎朱莉のフォローをしようとしてたでしょう? 前回のあなたが殺されたのは、その過程での不幸な出来事だったと思っていたのだけれど」

「うん。確かに僕は神崎さんに佐々木先輩への告白をやめさせようとして、説得に失敗した挙句殺された」

 生徒会室のある新校舎を出ると、残暑に満ちた夕闇のむわっとした空気感が僕たちを包み込む。

 空野さんは少しだけ何か言おうと迷った様子で僕に視線を送ったけど、結局沈黙を選んだようだった。

「でも、思うんだよ。普通、今まで大した交流もしてない異性のクラスメイトから、『好きな人への告白を考えてるんだろうけど、失敗するからやめとけ』なんて言われて、『そうなんですね、なら従います』とはならないでしょ?」

「でも、私たちにはそうしなきゃならない事情があるじゃない! これ以上、どうしたらいいのよ……」

 珍しく空野さんは苛立っているみたいだ。

 僕はなるべく、空野さんを刺激しないように静かな口調のまま続けた。

「だけど、まだ時間があるのは確かだ。少なくとも僕が確認できている限り、神崎さんは来週の火曜日までは告白を実行しない。つまり、僕たちには今日と告白当日を入れて6日間、時間が与えられているんだ」

「その6日間なんてすぐに……。いえ、」

 空野さんは僕の目を見て、反論を呑み込んでくれた後頭を振った。

「何か策があるのね。いいわ、話して」

「僕は、この6日間でできるだけ神崎さんと仲良くなろうと思うんだ。多分、今回も神崎さんの告白は失敗する。だけど……その上で、彼女が気持ちを整理できるように、僕も動いてみようと思うんだ」

「神崎朱莉とあなたが仲良くなる? もしかして、そのために明日の監査を引き受けたの?」

「うん。今日一日、付け焼刃だけど春元会長に必要なことは教えてもらったから、明日は少なくとも空野さんがいなくても、僕一人で何とかなると思うよ」

「そう……」

 空野さんは少し考えるそぶりを見せた後、言った。

「分かったわ。今回は黒田君を頼らせて。私は前回から引き続き、佐々木先輩から逃げる事しかできないから……」

 そう口にした空野さんの表情は、どこか疲弊しているように見えた。

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