第7話

 大分早くなった日暮れを迎えても走り続ける、彼女を眺めていた。

 本来、僕のようにクラスでも存在感のない男子からすると、彼女……神崎朱莉は関わり合いになるだけでおこがましいような明るい人物だ。

 すでに、他の部員たちは帰宅の途についている。

 それでも自分の情熱を燃やし尽くそうとするかのように、走り続ける神崎さん。

 そんな彼女を、薄暗いフェンスの外から僕は眺め続けていた。


 ――部活後、少し時間が欲しい。

 僕は、放課後生徒会に向かう前に、そう神崎さんに伝えていた。

 自分でも、大胆な事をしようとしているのは分かっている。

 少なくとも、こうして一度彼女に殺される前は、こんなこと思いついても実行はできなかったに違いない。

 それでも……。

――私は五回神崎朱莉に殺されているわ。

あっけらかんと言い放った、空野さんの言葉が脳裏を過ぎる。

あの時の空野さんは、何かが欠けているような表情をしていた。

それが諦めから来るものなのか、何度も体験した死の苦痛からくるものなのか、僕には分からない。

でも……本来、普通の高校生活を送る女の子があんな表情をしていいはずがない。

それだけは分かったから、僕は少し無理をすることにした。

「……ごめん、待たせちゃったね、黒田君」

 僕がフェンス際でぼんやりとしていると、いつの間にか練習を終えた神崎さんが、体操着姿のまま僕の隣に立っていた。

「どうしたの? 長くなるなら先着替えてこようか」

「い、いや、大丈夫。その……練習で疲れてるだろうし、手短に済ませるよ」

「そう? ありがとう、黒田君ってこないだ教室でなっちゃんに絡まれた時もそうだったけど、結構気を遣ってくれる人だったんだね」

 湯田さんに神崎さんが可愛いかって絡まれた時の事だろう。

 僕はなんて答えたらいいのか分からなくて、黙り込んだ。

「最近、日が暮れるのも早くなってきたね」

 グラウンドには夕陽の残滓がわずかに残るだけで、ほぼ紺碧の世界が広がっている。

 そういえば、僕が彼女に殺されたのも、こんな状況だったっけ。

 だけど、不思議と隣にいる神崎さんを恐ろしいとは思えなかった。

「……最近といえばさ、ここ数日、いつも遅くまで走ってるね」

「あはは、よく知ってるね。そっか、黒田君も生徒会で遅くまで残ってるんだっけ」

「そちらこそよく知ってるね。僕が生徒会に入ってるって」

「何言ってるの。先週だって他の運動部の視察に来てたでしょ?」

「ん? 僕は金曜、行かなかったけど?」

 僕が運動部棟に視察に行ったのは前の世界線の話だった。

 今回は金曜も、そして恐らく明日の視察も会長一人だ。

 神崎さんは「あれ、そうだっけ?」と首を傾げていた。

「神崎さん、最近どうしてそんなに頑張ってるの?」

 まさかあまり親しくもない僕がいきなり佐々木先輩の名前を出すのもおかしいと思い、探りを入れてみる。

「もうみんな帰っちゃってるし、結構遅いよ?」

「……燃やせるときに燃やしておきたいから、かな」

 僕の隣に立って、フェンス越しにグラウンドを眺めながら、神崎さんはそう言った。

「私はね、人の気持ちって全てつながってるって思っててさ。たとえば私は陸上部で、少しでも速く走りたいって思ってる。でも、それは陸上部の部員としての私の気持ち。普段の私はなっちゃんとか友達と楽しく過ごしたいし、他にも色々な気持ちや欲求を抱えながら生きてる。それは多分、生徒会の黒田君と普段の黒田君が同じことを考えていないのと同じだと思う」

「そうだね。むしろ生徒会のことは放課後しか考えないかな」

「でしょ? でも、仮に生徒会の事で何か気になることがあったら、どうしてもそれ以外の普段の考え方や気持ちも引きずられて変わっちゃうと思わない?」

「確かに……」

 神崎さんにとっての陸上と、僕にとっての生徒会が同じ比率とは思えないけど、彼女の言いたいことは何となく分かった。

 神崎さんの言う通り、人間一つの気持ちをそう簡単に切り替えられるものではない。

 何か失敗をしてしまったら、別の場所へ移ってもそれを引きずることは多くある。

 同様に、過去の経験一つが、今の自分に大きな影響を与えている、なんてことも実際にあるのだから。

 でも……。

 できるできないは別として、僕は神崎さんのようには考えられない。

 なぜなら、僕は人間、失敗の方が多いと思うし、それなら最初から物事を切り離して、切り替えながら考えた方が合理的だと思うからだ。

「私さ、好きな人がいるんだ」

 再び沈黙を破った神崎さんは、はっきりとした口調でそう言った。

「そして、それとは別に、私は陸上も、走ることも好き。だからさ、私は自分の気持ちを燃やし続けたいんだ。それがいつ消えてしまっても、後悔しないように」

「神崎さん、君は……」

 僕は口の中が渇いていくのを感じた。

 彼女がどれだけ気持ちを燃やそうと、彼女の願いは報われない。

 それは前回の僕や、それまでの空野さんが見てきた通りだ。彼女は失敗する。言い換えれば、彼女は完膚なきまでに「負ける」のだ。

 だけど、いや、だからこそ、か。

 僕には「君はこのままじゃ佐々木先輩にフラれるからもっと頑張って」と言う気持ちにはなれなかった。

「あはは、私ったら何言ってるんだろうね」

 急に恥ずかしくなってきたのか、神崎さんが雑に笑う。

「そういや用があるのは黒田君の方だったよね。何かな、私への用って」

 目の前には、僕が大好きな「報われない想いを抱いた女の子」がいる。

 確かに、僕は空野さんのために神崎さんを「負けヒロイン」の運命から救おうとした。

 だけど……。

 このまま神崎さんが「負け」を回避して僕たちが生き延びたとして……それは本当に正しい運命といえるのか?

 それで神崎さんは幸せになれる?

 あるいは空野さんは安心の将来を手に入れられる?

 どの世界線でも、好きな人にフラれ続ける神崎さんが「勝つ」方法は何だろう?

 どの世界線でも、神崎さんに殺され続ける空野さんにとっての「勝つ」とは何だろう?

「負けヒロイン」と呼ばれるヒロインたちは、必ずその敗因を抱え込んでいる。

 ならば、その原因を根本的に解決しないことには、彼女たちが本当に勝利することはないのではないだろうか。

 それこそ気持ちの「切り替え先」がない限りは。

「……神崎さん。君の恋は、」

 その時、このやり方ではダメなのだと、僕は直感的に悟った。

 きっと、会長を丸め込んで舞台裏に隠れるようなやり方だけでは、本質的に運命は変えられない。そう思ったのだ。

 だけど、もうこの時点まで来た僕に、神崎さんは救えなかった。彼女の恋心との接点をできるだけ排除してきた僕たちに、彼女の恋を強引に導く力などあるはずもなかった。

「君の恋は、絶対に成就しないんだ」

「え……?」

 僕の言葉に虚を突かれたみたいに、神崎さんの表情が固まった。

「君の……佐々木先輩への気持ちは報われない」

 神崎さんだけじゃない。

 空野さんだって、このやり方では報われない。

 たとえ、佐々木先輩と空野さんの接触タイミングを遅らせた所で、佐々木先輩から空野さんを隠し続けるには限度があった。

 そして、どうしたって空野さんに惚れてしまう佐々木先輩が、その時を迎えて彼女に惚れないなんて都合のいい話、ある訳がない。

「……どうして、そんなことを言うのかな」

 やがて聞こえてきた神崎さんの声は、怒っているようにも泣いているようにも聞こえた。

「もし冗談だとしたら悪趣味すぎるし……」

 彼女の声が震えているのは、怒りが理由か悲しみが理由か。

 それを判断するには、僕は無知すぎた。

「本当にそう思って言ってるのだとしたら……」

 僕を見つめた神崎さんの顔は、いつも教室でみんなの中心に立って、華やかな笑顔を浮かべている女の子の顔ではない。

「どうして、あの時……!」

 突然、万力に締め付けられたように身体の自由が効かなくなる。

 少し遅れて、僕は神崎さんに凄まじい力で、フェンスへ押し付けられたのだと理解した。

「私、可愛いって言ってたじゃない!」

 喉が熱い。

思考が焼き切れ、身体中の感覚が意識から離れ始める。

「分かってる……。分かってるわよ……。いつも私はこうなるんだから……」

 そう、これは怒りでも悲しみでもない。

 人が諦めた時に浮かべる、絶望の笑み。

 昔の僕を惑わした、あの笑みだ。

「私はどうせ『負けヒロイン』なの。いつも、いつも……」

 ああ……「負けヒロイン」といえば……。

 会長の誕生日パーティーは、このままではできないな……。

「ちょっとだけ、嬉しかったのに……!」

 そんなことをわずかに考えた時には、すでに闇がほとんど僕の意識を吞み込みかけていた。


 ◆◆◆


 ――これは僕の原点。


 意識が再び形を成した時には、夢で何度も見続けてきた「オリジナル」の姿が、目の前にあった。

「どうして。どうして私じゃダメなのよ……」

 どうして。

 それは常に弱者、もっというと敗者が使う言葉だ。

 目の前でうずくまるのは、一人の少女。

 僕たち男子よりは幾分か早い思春期を迎えて、初めて抱えた気持ちを膨らませた挙句、派手に弾け飛んだ、夢の残骸のような少女。

 その呆けたような暗い笑顔を、あろうことか僕は「美しい」と感じてしまった。

 あの時、僕は彼女に声をかけた。かけてしまった。

 それが……僕が歪み始めた「間違いの始まり」だったのだ。

 勝者が敗者より優れているのは分かり切っている。

 勝って得るものは常に負けて失うことより有意義だ。

 だから……あの時「負けヒロイン」の彼女に声をかけた時点で、僕の間違いは始まっていたのだ。


 ――少女が僕の方を見上げる。

 そういや、僕は何と彼女に声をかけ、彼女はそれになんと応えたっけ……。


 曖昧な記憶を整理するより早く、僕の意識は何度目か分からない浮上を迎え、思考は霧散した。

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