第一章   2周目

第2話

「……くん。……黒田君」

 まず感じたのは冷たいエアコンの風。

「起きなさい、黒田君」

 泥だまりのように暗く深い所から意識が急浮上する。

 僕を呼びかける声に手を伸ばすようにして、僕は勢いよく跳ね起きた。

「うわ、びっくりした」

 身体が急速に酸素を求め、過呼吸する。

 開ける視界。おはよう見慣れた生徒会室。

「大丈夫かしら。かなりうなされてたみたいだけど」

「えっと……」

 先ほどから聞こえてくる落ち着いた女子の声に、僕はようやく顔を向ける。

「伸ばした」というより「伸びた」という印象の腰元まで伸びた長い髪の毛。

 ほっそりというより痩せたという印象の体躯。

 地味な丸眼鏡が無表情をまとったような特徴のない顔。

 僕と同時期……去年の秋から生徒会に入った空野紫咲(そらのむらさき)さんが、生徒会室のソファで腰かける僕を横から覗き込んでいた。

「あ、あれ……?」

 そんな「ありふれた日常の一コマ」みたいな光景を目にして、僕は激しく混乱した。

 僕はこんな所にいるはずがない。

 だって……僕はさっき神崎さんに殺されてしまったのだから。

「どうしたのかしら? まさか『俺の名前を知ってるかい……?』とか言い出すんじゃないわよね」

「いや、僕そんなキャラじゃなかったでしょ」

 怪訝な表情をする空野さんは、僕の言葉に少し安心したのか「そう」と言って離れた。

「春元会長もソファなんて買うんじゃなかったと思ってるに違いないわ。こんなの、あなたじゃなくても座ったら眠くなるわよ」

「はは……」

 すべては夢だった?

 そんな都合のいい考えをしつつ、僕は部屋の中を見渡す。

 いつもと何も変わらない生徒会室。

 だけど、今日の放課後「今日は寒いからね」と言って春元会長が消したはずのエアコンは、元気に稼働している。

「ところで空野さん。今日何日だっけ」

「え? どうしたの急に」

 僕の問いに、空野さんが再び表情を曇らせる。

 僕が薄ら笑いを浮かべてやり過ごすと、空野さんは僕に興味を失ったように背中を向けて言った。

「今日は九月五日木曜日。さ、つまらないこと言ってないでさっさと生徒会選挙の対策考えるわよ」

「え……」

 予想外の答えに、僕は言葉を失う。

 そんな僕にそれ以上興味を示すこともなく、空野さんは書類を持って自分のデスクに座って作業を始めた。


     ◇◇◇


 理屈も理由も分からない。

 だけど、僕はどうやら過去に戻ってしまったらしかった。

「じゃあね、空野さん、黒田君。私は鍵を返してくるから先に帰ってくれたまえ」

 たった今部屋の施錠を終えたばかりの春元会長が、ジャラジャラと鍵を鳴らせながら手を振る。

 長身の春元会長は一つ上の先輩で、女の子だけど「カッコイイ」という表現がよく似合う。

 基本的に仕事はバリバリできる人で頼りになるんだけど、距離を感じさせないどこかお茶目な所もあって、僕たち生徒会メンバーに限らず尊敬する人は多いようだった。

「最近は日が落ちるのも早くなったからな。夜道は危ないし、空野さんは黒田君に守ってもらって帰るんだよ」

「会長、おつかれさまでした」

 春元会長のイジリを華麗にスルーしつつ空野さんがペコリと頭を下げた。

「何ボーっとしてるのかしら。黒田君も帰ったら?」

「あ、あぁ!」

 廊下でぼんやりしていた僕は、空野さんに追い立てられるように帰路につく。

 だけど、気持ちの整理はまだついていない。今日一日で起きたことの情報量が多すぎた。

「…………」

 本当は一人で色々考えたい所なのだけど、何故か今日に限って空野さんが黙々と後ろについてくる。

 え? 僕たち一緒に帰ったことなんてあったっけ……?


 空野さんは、去年の秋……ちょうど一年前の今頃の時期に、生徒会に入った僕の「同期」だった。

 彼女の印象を一言で言い表すなら「地味」。

 まるで意図して目立たないようにしているんじゃないかってくらいに外見から性格まで地味な印象で、いつも野暮ったい眼鏡をかけて化粧も薄く、髪型も無造作な状態だ。

 だけど、生徒会のメンバーとしてはとても頼りになる有能さん。

 いつも春元会長にも褒められていて、それを誇るでもなく、ただ仕事をこなしていく様子はやはり地味だった。

 せめてもう少し弱みがあればいいんだけどなぁ……。

 負けヒロインを愛好する僕としては、今一つ萌ポイントを見つけるのが難しい女子だ。

 というか、彼女が恋愛とかそういう浮ついた話に絡んでいるのは想像がつかないくらいだ。

 だから僕は彼女にさほどの興味を示すこともなく、今日までずっと「同時期に生徒会に入った同学年の男女」という関係を崩さずに来たのだけど……。


「さて、そろそろいいかしらね」

 あろうことか、僕の家の前までついてきた空野さんは、そこでようやく思い出したように足を止め、口を開いた。

「あの、空野さん、いつもこっちに帰り来てなかったよね?」

「今から重要な話をするわよ、黒田君」

「え、もしかして空野さん、そういう趣味が?」

「一度死んだ感触はどうだったかしら?」

 うわぁ、こっちの話全然聞いてない……。

「……え?」

 思わず脳が理解を拒否したような感覚だったけど、僕は遅れて違和感を抱いた。

「ごめん、今、なんて?」

「はぁ……黒田君。冴えない顔の男子が難聴系やっても今どき流行らないわよ」

 逆に呆れたように溜息を吐かれてしまった。

「……別にいいわ。じゃあね。私、帰るから」

 表情を変えることなく、空野さんは踵を返して元来た道を帰ろうとする。

「待って!」

 どう思われるかなんて考えている余裕がなかった。

 僕はほぼ反射的に空野さんの細い腕を掴んでいる。

「もしかして、本当に僕は死んで……?」

「あぁ……」

 その瞬間、空野さんはいつもの無表情を崩して見たこともない表情を浮かべていた。

「やっぱり、あなたも『二周目』なのね……!」

「え……」

 その表情は世界大会で優勝を果たしたスポーツ選手の会心の笑みのようでもあり。

「良かった……!」

 長年の悲恋を叶えることができた執念深い女の妖艶な笑みにも見えた。

「九月十日火曜日。今日から五日後の夕方、あなたは殺されてしまう」

「ど、どうしてそれを……」

 つい先ほどにも感じられる死の生々しい感触が喉元にフラッシュバックして、僕は思わず息苦しくなる。

「知ってるわ。だって……」

 まさか。

 先ほどの空野さんの言葉を思い浮かべながら、僕はある可能性に思い当たる。

「私はその翌日の九月十一日に死んでいるのだから。それもあなたと同じ、神崎朱莉に殺されてね」

 意識が途切れる直前、眼前に迫った神崎さんの狂気を宿した瞳が脳裏をよぎる。

「あなたも知ってると思うけど、神崎朱莉は失恋のショックで壊れてしまうわ。そしてその失恋の原因を作ってしまったのは、実は私なの」

「……は?」

 微妙につながっていないように感じられる話の流れに、僕は思わず首を傾げたまま固まる。

 すると、空野さんは眼鏡を外して、すっかり暗くなった夜空を見上げた。

「神崎朱莉の片思いの相手は陸上部の佐々木先輩。その佐々木先輩は、明日生徒会監査で陸上部に出向いた私に惚れてしまうのよ」

 自意識過剰にして荒唐無稽。

 普段の空野さんを前にしている状態なら、僕は彼女の言葉を一笑に付しただろう。

 だけど……。

「本当はこうなることが嫌だったから、目立たないようにしてたんだけどね……」

 空に溶けそうな長い髪を夜風にはためかせ、儚く微笑む空野さんを見ていると、妙な説得力があった。

 そして……。

 それは僕が憎むべき「勝ちヒロイン」の笑みであるはずだったのに。

 空野さんの笑みは心の底から寂しそうな笑みに感じられた。

「正直、私のせいであなたを死なせてしまったのも申し訳ないと思うわ。だけど、どうしてか私も黒田君もこうして『やり直し』の機会を得ることができた。だから、お願いよ。明日の監査では佐々木先輩が私に惚れないように、黒田君にも協力してほしいの」

「協力ってどうやって……」

「一番は、私が佐々木先輩と接触する機会を無くすことだと思う。あなたも覚えてると思うけど、明日の監査中に地震が起こるわ」

「ああ、覚えてるよ」

 確か最大深度4とかで、結構体感でも揺れていた。

「そこで私は眼鏡を落としてしまって……それが多分行けなかったと思うんだけど」

「……今さらだけど、眼鏡を外しただけで惚れるって佐々木先輩もちょろすぎない?」

「仕方ないわ。逆に私は自分の美貌を隠すためだけにこの伊達メガネをオーダーメイドしたくらいだもの」

「女子が聞いたらそれこそ何回死んでも足りなさそうだね……」

 僕の皮肉にも空野さんは「そうね」と興味なさそうに頷くだけだった。

「じゃあ、ひとまず明日は春元会長に言って監査変わってもらうのはどうだろう? 僕は会計触ってないから監査しようがないし」

「ダメよ、明日は春元会長が体調不良で休んでしまうのよ」

「ああ……そういやそんなことを言ってたね」

 春元会長の唯一の欠点は、案外身体が弱いのか、定期的に欠席してしまうことだ。

 頭がいいから基本的に成績は良いけど、おかげで時々補習を受けているという話も聞いたことはある。ちなみに僕が死んだ日も、本来は春元会長がクラブルームの点検に行く予定だったのだけど、休んでしまったので僕がたまたま代理で行っていたのだ。

「でも、それだとどうしようもなくない? 当日、監査を行わないようにする、位しか手段はないけど……」

「ええ。その通りよ。でも、それだけじゃ結局変わらないのよ」

「変わらない?」

「そうよ。何せ二回目以降は毎回そうやってうまくやったつもりだったのだから。でも、それでもダメなの。巡り巡って、結局私は神崎朱莉に殺されてしまう」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 僕は思わず空野さんの台詞を遮って素っ頓狂な声を上げてしまった。

「二回目って……まさか、空野さん。君は……」

「ええ。これはすでに六周目の私。あなたが何周目かは分からないけれど、私は五回神崎朱莉に殺されているわ」

「そんな……」

 あまりにあっけらかんと言い放つ空野さんに、僕は恐怖すら感じた。

「一周目と五周目の私は今回のあなたと同じタイミングで殺されたの。あの告白現場に出くわしたら、どうあがいてもダメ。神崎朱莉は身体能力も高くて私じゃ武器を持って抵抗しても勝てないし、逃げようにもやっぱり追いつかれるわ」

 五回目の武器を持って抵抗しようとした辺り、手詰まり感があるな……。

「二回目から四回目はどうしたの……?」

「それはさっきあなたが言った通りよ。監査に訪れた際に佐々木先輩を惚れさせないように最初からコンタクトにしてみたり、監査そのものをなくしたりね。でも、眼鏡を外したら最初から佐々木先輩がグイグイきて、結局私は監査の日の下校時に神崎朱莉の襲撃を受けて死んでしまったわ」

「佐々木先輩プレイボーイかよ……」

「まあ、私の顔が良すぎるのが問題ね。中学の時から苦労してばかりよ」

 負けヒロイン好きの僕としては、絶対に相いれない女だと思った。

「それで、三回目と四回目の監査を無くした場合なんだけどね。これをすると翌週の九月九日月曜日に佐々木先輩がここにきてしまうの。それで結局、一日遅れの九月十日にあの告白が起きて彼女は失恋。その翌日に私も死んでしまうの」

「ん、でも月曜日は地震なんて起きないから、そもそも佐々木先輩が空野さんに惚れる理由もないんじゃないの?」

「それが、佐々木先輩が書類をぶちまけたり飲み物をこぼしたりしてね。どうしても私の眼鏡が外れちゃうのよ。二回試したけど、どっちも原因は違う上に、毎回佐々木先輩の行動パターンも微妙に違ってくる。だから完全な対策はできないし、多分何回やってもこの手段じゃダメなんだって思う」

「そっか……」

 世界戦収束範囲(アトラクタフィールド)理論。

 SF作品なんかを見ているとたまに出てくる言葉で、要は「世界は一つの世界線に収束してしまうため、多少の差異はあれども、結局起きるべきことは起きてしまう」という考え方だ。

「でも、それがたとえ無駄な努力でも、私は死なないために策を講じたい。毎回毎回死ぬのは苦しいし、座して死を待つだけならともかく、これが永遠に続くなんて耐えられないのよ。あなただってまだ二周目だけど、きっと同じだと思うわ」

「そりゃ何度も死ぬのはごめんだな」

 確かに失恋した美しい神崎さんを見れるのは何物にも代えがたい幸せではあるんだけど。

 その結果、彼女に殺されてしまうのでは本末転倒だ。

 何より、選ばれなかった苦しみを背負う神崎さんに、人殺しまでさせてしまうのは忍びない。

「そこで、私は今回思い切ってあなたに声をかけてみた。一周目の時は私も早々に死んでしまったから気付かなかったけど、二周目から四周目までの黒田君は、絶対九月十日あの告白現場で私の代わりに殺されてた。そしてどうやっても私もその前後で死んでたけど、こうして毎回『やり直し』の権利をもらっているの。この『やり直し』がいつまで続くかは分からないけど、私だけでなく、毎回渦中に巻き込まれているあなたも同じ目に遭っているんじゃないかと思って声をかけた。それで……こうなったのよ」

 無表情なはずの空野さんの表情に、珍しく影が差した気がした。

「あなたを巻き込んでしまったのは申し訳ないと思うわ。でも、このままではあなたも私も死に続けることになる。それなら、こうして協力して何とか二人とも生き残る方法を考えたいの。たとえ、何回かかっても……」

 時々俯きながらも話す空野さんからは、悲痛な覚悟が伝わってきた。

 確かに、彼女は僕からしたらただの「生徒会の同僚」でしかない。

 だけど、状況に加えて、自分の近くで女の子が何度も同じ女の子に殺され続けるのは、どうしても止めたかった。

「うん。分かった。何からしたらいいか分からないけど、今日からまずは五日間、全力で神崎さんに殺されないように対策を二人で考えよう」

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