⑯ だってかわいいんだもの…
校舎を出たところで、ダインスレイヴ様が口火を切った。
『ユニヴェール。任せたクラスは思っていた以上にきな臭い。しばらく邸宅で静観するか?』
すぐ隣で彼は、私の方を見ようとしない。
『初日でクビ、ですか?』
『そういうことではなく……』
ついさっき、気付いたことがある。
私、今日も自分の髪のこと、ちっとも気にしていなかった。それはそう、矢継ぎ早に課題や事件が降り注いできたのだから。
それに、学院では誰も私のことを異端視しなかった。
これもね、私は南から来た人間なのだから、それだけで十分異端だったのよ。私、いったい何に怯えていたんだろう。
こんな、下手したら命を奪われる可能性のある現場が、もしかしたら私に救いの水を恵んでくれる……オアシスのような場所だったりするのかも、なんて。
だから、まだ逃げたくない。
『私に挑戦させてください。もっと、この国に馴染みたいのです』
この宣言に、彼は今までより少し落ち着いた、大人の眼差しで微笑んだ。
『そうか。なら安心しろ。私が必ず君を守る』
学院の裏門と城の南門は目と鼻の先。
『帰ったらゆっくり夕食をとろう』
『はい』
会話を交わしながら、城門をくぐった。
『そしたら、その後は……』
「え……、え!?」
唐突に彼は、時計の針のごとく、まっすぐな体勢で倒れ込み……
「っ! どうしました!?」
まさか、刺客の毒に!!?
『ぐぅ~~……』
「寝てる……」
“王子!?”“王子がお倒れに!”と騒ぎになり、警備兵のみなさんが担架で邸宅まで運んでくれた。彼には食事よりも睡眠が必要。本日もお疲れさまでした。
そういったわけで私は急いで食事をとり、疲労感をおして明日の準備に勤しむ。教科書を監修すると申し出た手前、そこにも取り掛からねば。
まずは今日没収した参考書に目を通して、良解説と認められる部分は積極的に……
「ええぇ……」
本当に2冊とも、例文が女性に対する口説き文句ばっかり!
「この対話例なんて……」
マイケル:「美しいキミ、ぼくの国にきてください」
ベティー:「馬車で10日かかります」
プロポーズの返答が間違ってる! でもカリキュラムには沿っている。
うーん。それほどまでに女性と親密になりたいの?
ああ、まさに言語を習得せんとする原動力がそういうことなのね。思春期の学生を預かる身としては、確かに参考になるわ。これ、取り入れようかしら。ああでも女子生徒もいるのだから。イリーナあたりは憤慨しそう、クラス運営って難しいのね……。
まずは明日の学級会をみんなで盛り上がれるよう、気を配らないと。
今、私にできることは……そうだ。
「ラス、アンジュ。頼みたいことがあるんだけど……今からでもいいかしら?」
「「なんなりと!」」
私たち3人は明日の準備を少しだけ賑やかに楽しんだ。
いつの間にか机で眠ってしまった私は、ラスの手によってベッドに運ばれたようだ。
こんな感じで就任1日目の夜は更けていく────。
2日目の午前。ピリピリとした教室。相変わらずお互いに疑心を募らせ、目を光らせている生徒たちだが──。
『学級会は6限目だから、この3・4限で前準備を行いましょう』
私は昨晩ふたりに用意してもらった、クラスの人数分の白いクッションをみなに配布した。
ダインスレイヴ様は欠席のようね。調査隊の管理にお忙しいものね……。
『先生、これは?』
『みんな激しく椅子に腰を落とすことになるから。クッションがあった方がいいかなって』
『クッションカバーの
『上手でしょう? 私の仲間がチャコペンシルで描いてくれたのよ』
『こちらは虎の絵です』
『“前門の虎、後門の狼”よ』
『先生、今それシャレになりません!』
うん、ここ、殺人未遂犯と共存の密室だったわね……。
『犬と猿にしておけばよかったかしら。でも仕方ない。これを今からみんなで刺繍するの。
『それは構いませんが……刺繍なんて僕ら、したことありません』
『ウルズ国の男性はみな裁縫が得意よ。裁縫ひとつできない殿方は、女性に見向きもされないわ』
『『『頑張ります!』』』
嘘も方便ね。
『今は準備の時間だけど、しっかりウルズ語の練習もするわよ。新出単語を覚えましょう。はい、「虎」』
「「「トラ」」」
「狼」
「「「オオカミ」」」
「椅子」や「座る」といった今回の関連語をみんなに復唱してもらった。
『これから授業中はできるだけウルズ語を使用しましょうね。難しくても、ジェスチャーを混ぜて気合で伝えるのよ』
「「「はいっ!」」」
私も初級の語彙で話すことを心がけないと。
準備も着々と進む。さすがに器用な子ばかりだ。男子たちも迅速な手際で、白布に虎、または狼の刺繍が仕上がっていく。とはいえ、全員がそううまくいくわけでもない。
『痛っ!』
甲高い声を上げたのは。
「だいじょうぶ?」
このクラスの最年少、ミカル8歳。どの分野の学問も驚くべき理解力と発想力で飛び級してきた天才少年、との事前情報だ。とはいえ手作業は年相応なのね。
代わりにやってあげたいけど……ひとりだけ特別扱いは良くない。時間かかってでも、自分でできるようにね。
チクチクと彼の小さな手が針を走らせる。
一生懸命な子、かわいいなぁ。ラスたちが私の元にやって来た時も10歳前だった。ふたりのあの頃を思い出してしまう。
そんな思い出が胸を温め始めたこの時、ミカルの小さな鼻からだらーんと……
「ああっ、鼻水がっ」
ティッシュ、ティッシュ。
「はい、ちーんして?」
『先生、「ちーん」って……』
あ、やってしまった。8歳の子に向かって、ずっと幼い子を面倒みるようなつもりで……。この子、頭脳は大人の天才少年なのに。プライドを傷つけてしまったかしら?
「ご、ごめんね、ミカル……」
『先生、「ちーん」ってなんですか?』
え? あっ、そうか。それは通じないわよね。幼児語なんて学習者にとっては、方言と同じく上級ウルズ語じゃないの。
しまった。使ってしまった以上、まだ覚えなくてもいいと流すわけにも。周りの生徒たちの耳目も集めてしまったし、ちゃんと説明しなくては。
『鼻をかむ、という意味よ』
『なんで「ちーん」が鼻をかむ?』
えええ!? なんでだろう? えーと、えーっと。
『鼻をかむ時、「ちーん」という音がするからです』
『しませんよ! 鼻をかんだら「ズビビビビィ!」という音がします!』
『……それは貴族としてやり直しです』
気を取り直して。
「はい、ミカル。使ったティッシュはゴミ箱にポーイしてきてね」
『先生……』
「はい、なんでしょう」
『「ポーイ」ってなんですか?』
あ、あれ?? また幼児語を使ってしまった!
だって小さい子、あまりに可愛くて……私、弟妹とも疎遠だったから、小さい子と触れ合ったこと、あまりなくて、つい……。
『捨てる、という意味よ』
『なんで「ポーイ」が捨てる?』
またそれ!?
『……物を捨てる時、「ポーイ」という音がするからです』
ここで隣の席の生徒が気を利かせて、紙をくしゃくしゃと丸めて投げ捨てた。
『しませんよ?』
私も自分で言ってて、しないなって思ったわ。
『語源は私の宿題にさせてください……』
準備も滞りなく終わった。午後の学級会が楽しみだ。
お腹の虫も騒ぐこの時間帯、学生がわいわいと食堂へ向かう。
そんな中、ひとりの生徒がそーっと私のところに寄ってきた。
『先生、ちょっと聞いていただきたいことがあるのですが』
「あら、ヨルズ。何かしら?」
北寄りの地域の方言を使う、フォーゲン伯爵家の子ね。
『先生にも損のないお話だと思います』
大人びた口調で話す彼女が、あどけなさを残した微笑みを投げかけてきた。
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