⑮ 旦那さまがいっしょうけんめい
『すべて憶測だ。まだ北からの密偵と決まったわけではない』
ハンマーを振り回しながらダインスレイヴ様は、ふたりを
『えっと……北の軍事力はどれほどなの?』
『僕らは文官の家の者だから、そこまで詳しくはないけれど。でもこれは有名な話、女王アリアドネが強いのです』
『えぇ……?』
どうやらそちらの女王は
『つまり、戦って敵兵に斬られるか、逃げて女王に殴り殺されるか、の2択』
『まさに《前門の虎、後門の狼》ね』
『敵を恐れて逃げた方にも新たな敵が襲い掛かる、という東方のことわざですわね』
『あ、違いますよ。背後にいる女王がまさしく“虎”です』
女王が虎? それはどういう……
『この学院でも語り草になっていることだけど、存分に王者の風格を漂わせる
ものすごい伝承の持ち主ね。
『女性なのに軍人ほどに体格がいいの?』
『見た目の話なら、当時の美術部員が描いた肖像画では、虎というより』
『あれは女豹ですわ』
イリーナが苛立った様子で断言した。……妖艶な美女、なんだろうな。
『学祭の時期に過去の優秀作品も展示されるので、今は美術部の倉庫にありますよ。興味があれば美術部員に聞いてみてください』
女王の見目には興味ないのだけど、この学院、お祭りがあるの?
そういうの私、経験ないから、面白そう……教員も参加できるかしら。
『あの女豹の毒牙にかからなかったダインスレイヴ殿下は見どころのある御仁ですわ。変人王子ともっぱらの噂ですが、王家の中でも、なかなかやる、との呼び声高いです』
『へ、へぇ……』
ちらりと彼の方を見たら、ハンマーで壊した扉の枠をうまく補修している。なかなか、やる。
ここで下校のチャイムが鳴った。そろそろ校門が閉まってしまう。ふたりは帰り支度をさっと済ませ、校舎を出たところに待つ馬車へと向かっていった。
『子女を待つ馬車で校門前はひしめき合っていますね』
夕暮れの教室でダインスレイヴ様と、窓から学生たちを見送っている。校内から人が減っていく、慌ただしくも哀愁ただようこんな景色、私には初めて。
『私たちも帰ろう、ユニヴェール』
力が抜けまっすぐに下ろした私の左手を、彼はぎゅっと握った。
これは、まるで仲良しの子どもがするような……。子どもの頃、同じ年頃の子たちがしてるのを陰から羨ましく見てた、手の繋ぎ方。
『これ、紳士のエスコートとは少し違う気がしますが……』
『さぁ早く、私たちの邸宅へ』
今度は彼の指が、私の指の間をさっとすり抜けて。そして強く握って、この手をがんじがらめにする。これは……
『校内で他の誰かに見つかったら良くない気がします……』
『ここを出たらすぐに日が沈む。誰の目にも留まらない』
『でも……』
『学生は通常、こうやって手を繋いで下校するんだ』
そうなの? 確かに、さっき下校中の生徒の中にいたかもしれない。でも私は教師だし、生徒のひとりを特別扱いしてはいけないから、ここまで距離が近いと……。
「ワタシたちは、カエる、テとテを、ツケます」
「ん?」
ダインスレイヴ様? 何を言ってるの。
かえる? 手と手を付ける? ……あ、もしかして、手を繋ぐって意味で言ったの? じゃあ、
『キスは!?』
『したいのか!?』
『違う!』
『ぐうっ!!』
ダインスレイヴ様の脳天に《違う!》と書かれた矢印が突き刺さった。
『“キス”をウルズ語で言ってください』
彼はバツの悪そうな顔で、記憶を辿り始めた。
「……クチとクチを、ツケます?」
「…………」
この方、今日の慌ただしい1日の間にも、この単語と文法を自習されたのね。
はっ。なんでクラスにいるのかって教室で見つけた時は思ったけど、それほどにウルズ語を学びたいということね!?
つまり、ウルズ国に深い関心をお持ちで、末長い友好を真剣に願っておられるということで……。
嬉しい。
私は正直、愛国心など持ち合わせていない。屋敷の外の世界を知らなかったもの。こんな私が国の文化を教えるなんて、本当におかしなことよね。
でも今、ふしぎな気持ち。
祖国に興味を持ってもらえるって……こんなにも嬉しいなんて。
『では』
『ん?』
「手をつないで、かえりましょう」
私も彼の手を捕まえたこの指に、きゅっと力を入れてみた。
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