⑧ ご主人がいっしょうけんめい
瞼の向こうはまだ暗がり。動物の遠吠えが聞こえる。もうすぐ日の出ね。起きなくては……出勤にふさわしい衣装をアンジュに用意してもらって、そして……
「きゃっ」
隣に寝そべる大きな銀狼! ……もといダインスレイヴ様。
起こしてしまわないように。
音を立てずにベッドを出て、アンジュの元へそそくさと出向いた。
「はいっ。聞いております。学生さんたちに揉まれてもへっちゃらな衣装をご用意させていただきました!」
「ああ、学院の生徒たちが無礼な態度でユニ様を思い煩わせるようなことがあったら……。私もクラス生として潜伏し、目を光らせておきたかったのですが……」
「あなたはもう22歳でしょ、ラス?」
「この年齢が口惜しいっ…」
「生徒たちはみな良家の子女という話だし、品のいい優秀な子揃いなのよ。そんな中で……」
私は教師として認められるかしら。なんて口にしたら、ふたりは一生懸命励ましてくれるから。
こんないじけた私からも、もう、脱却しなくては。
「受け持った子、全員まとめてウルズで大活躍させてみせるわ」
「「……その意気です、ユニ様!」」
ふたりの声援を受け、ラーグルフ様のところに出掛けた。
「ラスさん?」
「今、少しだけ、ユニ様のお顔がほころんで見えた……」
「ラスさんもそう見えました!? ユニ様の笑顔をまた拝める日も近そうですね!」
『おはようございます、ユニヴェール様。……ずいぶんお早いお目覚めですね?』
『おはようございます。教師の朝は早いものではないのですか?』
ラーグルフ様がなんだか呆けた顔をされている。
『そうですが……。まぁいいか。学院は目と鼻の先です。ひとつ重要なことなのですが』
『はい?』
『学院の職員はごく一部を除き、あなた様が王子妃だとは知りません』
『この身分は隠せということですね?』
『学院では生徒職員問わず、礼節を欠く者も現れましょうが……』
『構いません』
『では、職場ではルリ=ジサと名乗るように、とのダインスレイヴ様のお言葉です』
『ルリ?』
『あなたにお似合いの名を、あの方が考えられたのですよ』
私に新しい名? それって。画家なら雅号、文筆家なら筆名、教師なら……なんというかは分からないけれど、私にも職業上の特別な名前!
『気に入られましたか? ……気に入られたようですね』
『はいっ。では、行ってまいります』
私を職場へと案内くださるお迎えの方と退室した。
『さて、
side: ラーグルフ
『おはようございます。ダインスレイヴ様、速やかにお支度を』
『うーん……ユニヴェール……。痛えっ!! おい、もっと優しく起こせ!』
『抱きつかないでください、気色悪い』
朝からこんな大きな男にまとわりつかれるこちらの身にもなっていただきたい。
『昨夜は首尾良く事を進められたのですね?』
『ああ。ユニヴェールは快く受け入れてくれた。張り切って学院に向かっただろう?』
『……まさか、本当に任務を言い渡しただけですか』
『だけとはなんだ。迎える花嫁が退屈な王宮で日々を持て余さぬよう、考えに考え抜いた俺の名案だぞ』
まだ見ぬ伴侶を人間関係の
『実物ユニヴェールはかなり想像通りだった。あの仏頂面はなかなかイイ』
『緊張されていたのか、私には一度も笑顔をお見せくださいませんでした』
『俺にもだが。しかし
あなたも、なかなかに頬が緩んで……ずいぶんご機嫌だな。
『あなたの選択は正解でしたか』
『まだこれからだが、初日の感覚としては大正解だな』
まったく、運に恵まれた方だ。大雑把で勘が鋭く、100通を超える釣書の中から手跡ひとつで、王家の人間である自身の伴侶を決めてしまわれる──大胆な方だ。
さかのぼること三月前。
ヴェルザンティ大陸、第何次かの長期断交が明け。和平会談では、適齢期過ぎにもかかわらず独り身であるこの方の伴侶を、ウルズ国から迎えることで決着した。
────『ウルズからの釣書か……。こんな大量に送られてくるとはな。話が違うではないか』
書斎でソファに腰を下ろしながら、縁談の当人、ダインスレイヴ殿下は唸った。
『王家の所有するフニトビョルグ鉱山の区画譲渡が、南の諸侯にとって大層魅力的な結納品であるには違いないですが……』
それ以上に、この方の評判がウルズ国の上層に知れ渡った結果だろう。
偵察隊の報告では、ノルンの壁の撤去を、現場において毅然として指揮し、いや、軍を統率したどころか率先して破壊しまわったらしい。
挙句、その雄姿と風格が南の王都方面に広まり、一目見ようとわざわざ国境まで忍んで来た令嬢方もいたとか。
『まぁ、どうせ目を通すのはあなたではないのだから』
『いや、俺が見るぞ。手跡を全部よこせ』
『釣書自体には興味がないのですね』
ウルズ国に求める花嫁候補の釣書に、本人直筆の何らかを添付させるよう言い出したのはこの方だ。しかし《本人直筆》と要望したところで、この話に執心するほど代筆は立てるもの、それが常ではないか。
『どれもこれもウルズ語だな』
『それはそうでしょう。あなたはウルズ文字の良し悪しなど分かるのですか?』
『読めはしないが、なんとなくは……、いや無理だ。隣国とはいえ文字のルーツがてんで違うんだな』
『これでは例え本人が書いていようと、気性、知性を推し量るのは無理でしょう。……おや?』
唯一、スクルド文字で書かれた文書が目に飛び込んできた。
『これは……古語ですが』
『スクルド語の手跡か?』
彼は期待を前面に表し、私の手から取り上げた。
『なんと激しい恋文ではないか!』
『んー……生き別れの家族を想った詩ですよ。バローク時代の抒情詩人ヴェーゼに似た作風かな』
『文字もこれは……健気そうに見せておいて、性根は主張の激しいじゃじゃ馬だな。この娘の釣書は?』
『これですね』
『ユニヴェール・スコル、侯爵家の長女か。……なんだこれ。氏名、家名の他には《図書館の虫》としか書いてないぞ』
年齢も特技も何も記されていない。こんな適当な釣書があったものか。
『同じ侯爵家の娘たちは、個人情報でぎっしり埋められていますが……。本人があまりに乗り気でないのかな』
『勉学の虫でも読書の虫でもなく図書館の虫って、いかにも薄暗い閉所で這ってる虫感あるな!』
あ、興味を隠さない顔だ。
『この文字、俺に向かって叫んでるようだ』
また薄笑いを浮かべて……。
『なんと?』
『うーん……。“私を連れ出して”?』
勝手な思い込みに過ぎないのでは?
『この娘に賭けてみたい』
ひとたび意識が向けば留まることはない、悪いクセだ。
このお歳になるまで浮いた話は一切なく、すべての縁談を断り続けてきたこの方だ。他者とは抜け目なく
しかしその女性に関してはなかなか……。この婚姻で精神的な成長が望めるか。私としても、楽しみではある。────
『それにしても、王子妃が学院の教員とは、いささか
王都にはもう、南への敵対心が残っている者などそういない。だが現状、頭の痛い課題は北海の向こうの、エリヴァーガル国との関係なのだ。
『俺も父兄参観って名目で、ちょくちょく覗きに行くつもりだが? そのために政務を一通り片付けておいたからな』
『北との冷戦がますます熾烈を極める昨今に……。ちょうど城周辺で不穏な気配があると、報告も入ったところですし』
『あ、待てよ? ユニヴェールが担当するクラスって、男子多いのか?』
『男女比ですか? 外交官育成クラスですよ、大多数が男子に決まっているでしょう』
むむ? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をされている。
『ユニヴェールの身が危ない!!』
『は?』
『こうしてはいられない! 支度をする』
『支度?』
『参観程度では彼女を守り切れないからな。俺は15歳に擬態する!』
────はぁ??
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