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 もう何人目になるかわからない女性に頬を打たれ、彼は今日もラブホテルを後にした。太陽が殺人的な勢いで全身を焼いた。夏だった。容赦なく滲む汗でTシャツが張り付いた。肩口で額を拭うとまだ吐瀉物の臭いがした。

 スマホを開き、あまりない新着のメールに彼は立ち止まった。メッセージアプリではなく直接のメールだった。スマホはずっと変えておらずアドレスも十五年は同じものだ。迷惑メールしか来ないがどうでもよかった。その中に紛れた母親の名前に彼は肩の力が抜けた。あんた今年帰って来るん? それだけの簡素なメール。ああおかん。彼は返信する。帰る、帰らせてくれ。今年は何故だかメトロポリスにいたくない。

 

 お盆休みの新幹線乗り場は人しかおらず、サウナのような気候の中に更なる熱気が立ち込めていた。家族連れが多い。彼はだんだん億劫になってくる。彼女とかどうなん。孫の顔見たいわあ。そんなことを言われれば立ち直れる気がしなかったし下手をすれば実家のリビングに盛大なリバースをしてしまうのではと恐ろしくなる。

「いやでも女とのセックス前でしか吐いたことねーんだろ? じゃあいけるっしょ!」

 直己があっけらかんと太陽のように彼を励ます。彼は頷く。それから本当に来るのかと聞く。立てられた親指に彼はヤリチンの考えることはわからないとひっそり思う。

 お盆どうすんの。女何人か連れて来ようか。そう聞いた直己に実家に帰ると告げた後、何県? と聞かれて正直に滋賀県だと答えたところ、俺行ったことねえや、暇だし行こうかな、琵琶湖ってでかい? と更に問われて彼は懸命に滋賀のアピールを行った。ちなみに琵琶湖のそばに実家はない。もっと山奥。何もない。それでもいいならついてくるといい。大津まで行けば琵琶湖クルーズができたはず。彼が言うと直己はまー行ってから考えるかなと女に貰ったらしいアイコスを弄びながら投げやりに言った。

 それでついてきた。新幹線は指定席をとり、彼は窓から遠ざかる東京の景色をぼうと眺めた。聳えるコンクリートのビルたちは、ずいぶん離れると剣山のようだった。

 友達連れて行ってもええかな。彼が一応母親に送ったメールには、その子がええんやったらええんちゃうと返ってきた。

 東海道新幹線は貫くように走り続けた。

「滋賀って女の子可愛い?」

 直己の問いにあの子を思い出した。彼女は少なくとも可愛かったと彼は思い、自分が汚したのだと続けて思った。でもそれは何かがおかしかった。破瓜させた比喩だとすれば妥当で、だが彼は童貞だ。やったことは嘔吐だけ。呆然と吐瀉物を見下ろして、じわじわと青ざめていったあの子の表情の変化がつぶさに蘇り彼は呻いた。

「お? もしかしてお前、車酔いとかするタイプ?」

 彼は首を振るが気分は悪い。唾を飲み込み記憶を頭から振り払う。その間に直己が手を振った。何をしているのかと思えば新幹線の車内販売を行なっているお姉さんを呼び止めていた。茶色に染めたロングヘアーを一つにまとめ、派手すぎないメイクを丁寧に施した感じのいい女性だった。彼がそう考えていると直己はお姉さん美人だねーと臆面もなく言ってから、水ください、後酔い止めありますか? と続けた。酔い止めはなかったが水はあった。直己はついでのようにスゴイタカイアイスを買って、結露した冷たい水のペットボトルを彼にすっと差し出した。

 受け取り、飲んで、リクライニングを少し倒させて貰った。横目で直己を見る。タカイアイスじゃなくてカタイアイスだと言って備え付けのスプーンをガンガンとアイスの表面に刺していた。彼はふっと笑みを浮かべた。少し眠ることにした。

 

 二十六歳の彼は六歳の夢を見た。彼自体は六歳だと思っていなかったがその記憶は六歳時のものだった。体があまり強くなく、夏は母や父に手を引かれて病院に行くことが多かった。滋賀の田舎の古い病院。真昼に行こうが怖かった。薄暗い廊下に浮かぶ緑の非常灯が亡霊のように思えて彼は病院が嫌いだった。何度も泣いた。でも直己は連れて行かれた。それでいまだに病院は好きじゃないと思ってから自分の夢のはずが直己にすり替わっていると気がついた。幼い直己は泣いていた。しかし直己の子供時代を彼は知らない。だから泣いているのはやはり彼で、緑の非常灯は彼の恐怖で、手を引く母親は。母親は?

 誰の顔もぼんやりとしていて定かではなく、泣いている六歳児が直己だと言うことだけが彼の中に残った。起きると米原駅まで後少しだった。体を起こして隣を見る。トケタアイスと眠る直己がそこにいる。

 まもなく米原、米原です。ここからまだ鈍行で一時間弱走ります。

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