天使の胃袋

草森ゆき

1

 実はまだ童貞なんだよねと言ってみたとして許されるのは何歳までか、彼はよく考える。今は二十六歳。フリーター。そして童貞だ。妙な話だが、女の子に不自由するわけではない。彼女や、友達以上の存在はすぐにできる。いい雰囲気を生み出せるし相手は満更でもない様子で部屋やホテルへとついてくる。だが童貞だ。彼はインポテンツを疑った。ところがいきり立たないわけではない。愚息は張り詰め血が滾る。アマゾンのお口、いや奥地へいざゆかんと奮い立つ。しかしやはり童貞だ。後少しで未知の世界へ、その瞬間彼は必ず嘔吐した。下半身を筆頭に全身の力は抜けていき、まろび出ている両胸の谷間へと盛大にぶちまける。或いは足の間に、柔いへそ周りに、清潔なベッドの上に──相手は胃液に叫び彼の顔を殴り飛ばす。出ていく。孤独が訪れ彼はこうして今の今まで童貞だ。


 直己という友人がいる。直己は所謂ヤリチンで、幾度となく彼に女を斡旋してくれた。ほぼ女衒だ。実態としてはヤリ捨て面倒になったヤリマンをあてがっているのだが、彼にとってはありがたいことこの上なかった。童貞は嫌だった。とにかく女を求めていたのだ。

 彼はやはり吐いたと報告する。そう言われても直己は呆れたりはしない。

「あーマジで? やっぱダメか〜」

 などと軽く笑いながら言い、人生に詰んだ面持ちをぶら下げている彼の背中をバンバン叩く。仕方ねえよ。でもなんでだろうな。お前って抜く時も吐いたりすんの。初めてヤろうとした時もやっぱ吐いたの。直己の質問に彼は答える。なんでかはおれにもわからない。抜く時は吐かない。初めての時は吐いた。

 そう吐いた。高校生の頃を思い出す。張り切って童貞だったあの頃。周りが徐々に皮を破り飛び立って行ったあの時期。彼は同じ委員会になった隣のクラスのあの子に恋した。暗喩や比喩ではなく「あの子」という名前だった。そんなことはどうでもよい。彼はあの子に告白をして、受け入れられて、デートを重ねた。概ね順調だった。胸が青臭く弾んだ。下半身もホップステップ、このままジャンプだと彼は浮き足だっていた。決戦の日のことはよく覚えている。鉄板の今日は親いないんだよねを彼は発した。あの子はついてきた。行こう共に。二人はそぞろ歩き、手を繋ぎ、彼の家の彼の部屋へと雪崩れ込んだ。夕暮れだった。夕焼けの赤色があの子の制服のブラウスに焼き付いていた。是非もなく綺麗だった。伸ばした指は震えており、それでもブラウスについた小さなボタンを一つ、二つ、三つ──夕焼け色になった下着が顕になって柔い膨らみの輪郭が、汗ばんで艶かしく光っていた。目眩のような興奮を彼は覚えた。

 そして吐いた。ベッドに座り込んだあの子のスカートの、ちょうど太腿の間に吐瀉物は溜まった。母親の作った弁当が薄茶色の粘液として糸を引いていた。あの子は叫び、うずくまった彼を殴った。殴られた痛みとまだ続く吐き気と胃腸の痙攣を彼は覚えている、刻み込まれたように思い出せる。吐瀉物の臭いに何度もえずく。

 あの子とは別れた。翌日から顔も合わせてもらえなかった。


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