ビルの屋上は銀河
西野ゆう
"G"
「貴方がそう言うのならそうでしょうね」
「刺があるな。俺の気のせいか?」
「どうして?」
「俺の言葉を信じているってより、議論しても無駄だと言っているようだ」
バーに隣合って座る男女の前に置いてあるリキュールグラスには、十五分前に置かれたニコラシカがそのままになっている。
グラスの九分目まで注がれたブランデー。そこに蓋をするように置かれた輪切りのレモンの上には砂糖が山のように盛られている。
女がレモンの上で僅かに色付いた砂糖をしばらく見つめ、レモンを手に取った。
頂上でまだ乾燥していた白い砂糖がサラリと女の白い手にかかる。女はそれを気にとめず、レモンと砂糖を口の中に放り込み、ブランデーを口に含んだ。
ニコラシカは口の中で作るカクテルだ。そのカクテルを作る行為を済ませて喉を鳴らす。指に付いた砂糖を舐め取り、女は男を見た。
「私は貴方を諦めていない。議論するのも、手に入れるのも、ね」
「ああそうかい」
男もレモンと砂糖、ブランデーと続けて口に流し込んだ。
「だがこれだけは間違いないさ。昇降機の失われた鍵を使えば、『G』の
この地下都市にある最も巨大で高いビル。その最上部は地下都市の天井に届いている。柱の役目も果たしているビルには失われた技術によって造られた昇降機が遺されていた。
その昇降機の操作盤には鍵穴と釦ひとつ分の空白があり、様々な憶測を呼んでいた。
「鍵は失われたまま。『G』が意味するものも分からない。そもそも昇降機について書かれた書物は、それを見つけた人と共に
「そこまで
「待って」
女は男の襟元を掴み引き寄せると、強引に男の口を塞いだ。男の口の中に新たな甘みと酸味が広がり、顔をしかめている。男の口の動きが止まったのを確認した女は、男の顔に額と鼻同士を付けた状態で小さくゆっくりと言葉を発した。
「その
「そんな嘘はどうでもいい。真新教徒か?」
「それ以上よ」
「真新教皇か」
「それは行き過ぎ」
女はそう言うと苦笑した。
「おや、珍しい所で会いますね」
袖、裾、襟、帯。床ぎりぎりの長さまで全ての部位を垂らした真白い装束。それを着ることを許されているのはこの世に七人しか存在しない。
「まさかとは思いますが、また『外』に関する噂を広げ」
「見回り中なんでしょうけど、楽しく飲んでいるだけの私たちにちょっかいを」
「口ごたえが早いですね」
女と白装束の男は互いに互いの言葉を途中で遮って睨みつけている。だが白装束の男の方の視線には、女を舐めまわすような粘り気を含んでいた。
「その口ごたえの早い口を塞ぎたいって思ってるのが見え見えよ」
女はそう言って立ち上がると、白装束の男の首に腕を回した。
「おい、もう酔っ払ってんのなら俺は帰るぞ」
カウンターの上に皺の寄った札を二枚叩きつけるように置き、それと同時に立ち上がった男が女に向かって目配せをした。
それを見た女は、白装束の男の首に腕を回したまま手のひらを上に向けた。男はその手のひらの上に小さな機械を置いて店を出た。
それからひと月後、女が焚かれているのを男が拳を握りしめ見つめていた。その拳の中には鍵が握られている。
「ニコライ」
話しかけることが憚られる雰囲気に包まれていた男の名を、初老の淑女が躊躇なく呼んだ。
「何でしょうか、局長」
男は姿勢も表情も視線も動かすことなく、返答の為に必要な最小限の部分だけ動かした。
「娘も連れて行って頂戴」
「全部、ですか?」
「残すのはあの娘の身体を引き裂くようで」
淑女も怒りに満ちた視線を炎に送り続けている。
「せめて煙が『外』へ行けたら良いのに」
「その『外』に拘った結果がこれじゃないですか!」
声を荒らげた男に、淑女は柔らかい視線を向けた。
「すみません。局長の方がお辛いのに。ニコールは必ず連れて行きます」
「『G』は
「覚悟はできています」
「覚悟はいらない。用心して。もう哀しみだけを残さないで」
淑女の頬に涙が流れた。女を焚いていた炎が小さくなっている。
翌日、男はひとり昇降機で昇っていた。『G』の釦が不規則に点滅しながら昇る昇降機。地下都市の灯りが小さくなり、やがて天井の内部へと潜った。未知の領域だ。
「最期に一杯やろう」
男は床に
そして、自分とニコールの前にリキュールグラスを置き、お互いの名が由来になったニコラシカを二杯作った。
「外の世界に乾杯だ」
男がレモンを取ったあとにグラスを合わせると、その音と昇降機が到着したベルの音が重なった。
昇降機の扉が開く。男は口の中でニコラシカを完成させながら天井のない天を見上げた。
「ここが、地上」
男の両足は確かに地面を踏んでいた。だが、身体は宙にあった。
「いや、
男はニコールを躊躇なく銀河に散りばめた。自らの生命の雫と共に。
ビルの屋上は銀河 西野ゆう @ukizm
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