第10話

 時間にしてみれば僅かな時間。しかし、その時間は覚悟を決めるには十分過ぎるほどの時間だった。

 湿った目蓋を押し上げ、セネカは恥ずかしさを誤魔化すように庭を一周した。


「おじさま、私は……おじさま?」


 先刻まで何事もないような顔つきだったリチャードの表情は、今や青白く息も荒くなっていた。


「急いで部屋の中へ戻らないと──!」

「いや、そんなことは……しなくていい」


 リチャードは上体が呼吸で揺れながらも必死にセネカの言葉に返す。


「無機質な部屋ではなく、お前が育てたこの花畑があるここで死にたい」

「でも……」

「──本人の意志を尊重してあげればいいじゃない」


 蓄音機を手に、サルビアを連れて戻ってきたリオンがそう言った。


「毎日を鮮烈に生きて三十よわいで死ぬ者と、何も成さずに八十まで生きた者とを比較したとき、彼は前者に収まる」


 時間は使いようだ。長く生きれば偉い訳でもないし、短命が必ずしも悲しいものとは限らない。だが少なくとも、残り僅かのこの時間は、鮮烈を生きた彼のものだ。


「セネカ、君の優しさは時に邪魔になることもある。今は命よりも優先すべきものがある、そう思わない?」

「そのの歌がそうだと言いたいんですか?」

「そうだ。いや、そうかもしれない。確証はないが確信はある。僕はサルビアを信じるよ」


 それと、かつてリチャードの耳に残した幻の唄を。


「準備はいいかい、サルビア?」

「うん、大丈夫」


 雰囲気が変わる。遠くを見つめるような視線。その先に何があるかはわからない。


 聖母の慈しみを感じさせるその瞳は、あらゆるものを見透かす千里眼を彷彿させた。


 緩やかな前奏で音楽は始まる。オルガンによる讃歌がゆらりゆらりとレコード盤から聞こえてくる。


 そして、彼女も歌い出した。


 古い言語で母音が少ない歌なため、意味はわからない。だが問題はそこではなかった。


 綺麗な高音はまるで天上の響きのよう。


 音の粒は夜空へ溶けていく。


 背中から広がる両翼は、妖精か天使か区別つかぬほどに美しく。


 胸に手を当て、声を張る姿は暗闇の中でも眩く映る。


 オルガンとの完全なる調和。初めて聞いた彼女の歌はこの世のものとは思えない魅力を秘めていた。


 次第に光虫が集まり、花が色を得る。月光に勝る光の束は、太陽とは異なる類の温かみを感じた。


 冷たい風が花びらを舞い散らせ、歌は最終章へと近づく。


 舞い、舞い、舞う。


 透き通る声が何処までも駆け抜ける。

 今ここに立ち会えたことが何よりも幸せと感じさせるほどの幸福感。

 

 神への賛美が続き、それはやがて祈りへと変わる。

 そして、歌は絶頂ピークを迎える。


 声が天に迫り、祝福が流れ星となって届けられる。


 満たされる、というのはこういうことを言うのだろうか。

 涙など流せないはずがなかろう。涙腺は涙を抑える役目など忘れてしまったようだ。喜びと感謝を胸に、気分は完全に高揚していた。


 魔法だ。彼女の歌には魔性の美がある。それは容易に真似できるものなんかじゃない。歌が終わっても、その余韻はしばらく残り続けた。

 夢中になっていて、周りのことなんて目に入らなかった。

 体が震えていた。寒さではない。武者震いでもない。圧倒されたのだ。彼女の全身全霊の歌に。


「これは夢か……いや、夢であってくれ。この時間が永遠に続いてほしい、そう願っている自分に驚いている」


 唇を噛み締めて感情を抑える────リチャード。

 半ば諦めていたのだろう。赤の他人の、しかも遥か前の歌の、記録にすら残っていない歌の再現など、不可能だと。

 事実、完全に同じものではなかったはずだ。だがそれでも、彼女の歌は聖女の歌に並ぶか、それ以上のものであっただろう。でなければ彼が感嘆するはずがないからだ。


「お嬢ちゃん。素敵な歌をありがとう。リオン、話をしよう。あの日の続きだ。」


 彼の言いたいことはすぐわかった。対話をしたいという気持ちを察し、涙を拭うセネカと、彼女の背中をさするサルビアは小屋へと戻っていった。


「──まずは礼を言う。ありがとう、本当に…………本当に……! 覚えているつもりだった。死ぬまで彼女の歌を。だが、忘れていたのだろう。薄れていたのだろう。彼女の歌に対する感動は。この涙を誘う激情は! 俺は馬鹿だ。なんでこんなことに今まで気づかなかったんだ……! 俺はいつしか彼女の歌を真摯に聞くのを忘れて垂れ流しにしていたんだ! もう、彼女に向き合うことはできない!」


 感情が激流のように押し寄せ、それを一気に放っているのを、共感できずとも、わかってやろうと、眉に力が入る。


「上書きされてしまえば、もうあの歌を思い出すことができなくなってしまったこの老体が憎たらしい! ああっ! 腹が立ってしょうがない! どうして……どうして、こんなんになっちまったんだろうな……」


 最後は弱々しく嘆き、彼の眼差しはとても悲しげで寂しさを残していた。


「リオン。俺は今日ここで死ぬ」


「自分の寿命なんてわかるはずがないだろ」


 馬鹿なことを言う親友にリオンは語気を強めて言う。


「いいや、これは予言じゃねえ。俺の運命さだめだ」

運命さだめだって……? そんなものは存在しないよ。神は居ても、神は人の死を操作したりしない。死は自然のものだ」

「そうじゃねえよ。そうじゃねえ。俺は今日、死ぬんだ」


 理解できない。彼が言いたいこと何一つ理解できない。


「良い人生だった。あの日、聖女ティラに出逢い、俺の人生は始まった。そして、今日その幕を閉じる」


 背もたれに寄りかかる彼の顔は満足げであった。それが彼の運命を示唆しているように見えて、より一層死を連想させた。


「だめだ……! おじさん! だめだ……だめだ……!」


 引き留める言葉は何も出てこなくて。

 何が駄目なのかもわからず、同じ言葉を繰り返していた。


「ありがとうな、老いぼれに何年も付き合わせてよ」

「なに、言ってんだよ……友達だろ? 当たり前じゃないか」

「ああ、俺らは親友だ。だから、最後くらいお前の名前を言ってもいいよな?」


 脳裏を過ぎる二十年前の記憶。契約の第三項。そこに記された内容。無意識に手は彼の口元へ伸びていた。


「■■■■」


 間に合わなかった。彼が今日死ぬという意味をようやく理解した。

 彼の体中から光があふれる。それは契約反故の罰。その罰は死。

 今ほどあの罰にしたことを後悔したことはない。


「なにしてんだよ、バカ野郎!!!」


 悲痛の叫びがリオンの口から零れた。


「死ぬのが怖くないのか! お前は!!」

「怖いに決まってんだろ。だがよ、俺は満足したんだ。満足したんだよ。未練とか後悔とかそういうんじゃねえ。俺の物語は完結したんだよ」

「おじさま!!」


 リオンの叫びを聞いて、家から顔を覗かせたセネカは異常な光を見てそこを飛び出した。


「お前の物語はまだ終わっちゃいないだろ? 天国で見てるぜ」


 足から胴にかけて消えゆく体を見て、セネカは小さな悲鳴を上げる。


「まだ話したいことがあった……行きたいとこがあった……お前がいないと」

「それまで一人でやってきたんだ。お前ならできる」

「おじさま、もう行くのですね」


 今日何度目かわからない大粒の涙を流すセネカ。

 彼女の耳はいつもとは違い、長く、寒さで赤くなった、エルフ特有の長耳となっていた。

 幸せそうに微笑むリチャード。確かに彼はその姿を認識していた。胴は全て消えた。時間はもう残り少ない。


「セネカを頼んだぞ、リオン」

「ああ゛、約束だからな」


 彼の死と同時に契約は失効される。しかし、リオンはこれを約束とした。

 

「俺は確かに聖女を見ていた。だけどな、セネカ。俺はちゃんとお前のことも────」


 すべては光となって消えていく。彼の最後の言葉も光となって消えていく。だが、聞くまでもなく、続きは聞こえた。


『見ていたんだぜ?』


 彼の光は夜空へ溶けていき、星の一つとなる。

 泣き崩れるエルフの少女。前髪で顔を隠すリオン。

 一人の、命が終わりを告げた。

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