第9話

 もうこんな季節か。列車の窓からの景色に思った感想はそれだけだった。

 窓からは稲穂に群がる光虫が見えた。

 黄金色に照らされ草花が光を帯びる。

 それはまるで流し灯籠のようで、何とも悲しい気分にさせられた。


 膝上で眠るサルビアの頭を撫でながら、ふと思う。

 自分の選択は間違っていなかったのかと。

 今まで何度も間違えてきた。

 数え切れないほど間違えた。

 人の死が絡むときもあった。

 その度に罪に苛まれた。

 

 傍らで寄り添う者もおらず、相談に乗ってもらうこともできない。

 この列車のように、止まること知らずに走り続けた。


『どうして妖精を救うんだ?』


 あの言葉が今も頭に残っている。

 反射的に答えたが、本当は少し違った。

 生きるため、というのは死なないための理由に過ぎない。

 死ねない理由は他にある。

 強くなる理由もそこにある。

 だが、その理由は言えなかった。

 言えたはずなのに。恐れていたのだろうか。本音をぶつけることを。

 長い時の中で、自分の考えが何度も変わったことを覚えている。

 心の言葉をそのまま口に出すと、いつも人は離れていった。

 もしそれを言うことがあるのならば、それはきっと、その人との決別を意味するのだろう。

 

 降車駅の知らせを意味する特有の鈴音が聞こえ、花畑広がる野原の一角に降り立つ。

 背中の温かい重みを感じながら静かな駅を見渡す。

 そこはいつもと同じ景色で、僕にはいつもと違う景色だった。


 成り行きの道を進めば見慣れた家がある。

 小屋は明りが灯されておらず、薄暗い印象を受けた。


「セネカ、僕だ」


 戸を開き、内側から顔を出す不安げな顔の女性。目元には泣き跡が見える。セネカはリオンの顔を見るや否や床に座り込んだ。


「大丈夫かい?」


 そうリオンが言うと、彼女は首を振った。


「もうこのまま目を覚まさないかもしれません……」

「君がそんなんでどうするんだよ」

「だって……!」


 サルビアのことにも気づかないようで、憔悴し切っている。


「前に言ったよね。決めつけは良くないって」

「だって……あの魔力の減り方なら明後日の正午には……!」


 命の代わりとも言える魔力、それが完全に体内から消滅した場合、回復できる状態になければ死に至る。

 子供でも知っていることだ。


「目覚めるまで僕の魔力を渡そう。効率は悪いけど命は繋げられる。おじさんが目を覚ますまでに、別れの言葉は考えておきなさい」

「……どうして、どうしてリオンさんはそんなに冷静で居られるんですか?! 初めて出逢ったときのリオンさんみたいな──」

「人はいつか死ぬんだ。わかるだろ?」

「わかりません……! わからないです。わからないんですよ、リオンさん!」


 彼女の言いたいことはわかる。痛いほどよくわかる。だが今はそうこうしている時ではない。


「時間は永遠じゃないんだ。出会いがあるように別れもまたある。生まれた以上は死もある」


 冷静に努める一方、リオンの頭も熱を感じ始めていた。


「この子を別室に寝かせてやってくれ」


 セネカにサルビアを預けると、心でため息をつく。

 また怒ってしまった。人の死に動揺しているのだろうか。

 とっくに人の寿命など超えているというのに、感情は落ち着かない。

 心は変わろうとも、感情の揺れ方は変わらなかった。


 そんなことを死んだように眠る友人の側で考えていた。


「君はどう思う……ねえ、リチャード」


 手に触れると確かな体温が伝わる。魔力を無理矢理抜き出し、自分の魔力と混ぜて送り返す。血液とは違い、魔力は自分の魔力が混ざっていれば取り込める。

 代わりに中身が空っぽの場合にはその芸当はできないが。


 目に見えぬ魔力を流し続けて一刻、魔力としての寿命は数日延びた。


「さっきは悪かったね、セネカ。だけど別れの準備はした方がいい。僕のは延命であって治癒ではないんだから」

「わかりました……今日はもう寝ます。頭が、うまく動かないので」


 そうしてセネカは自室へ消えていった。

 一人残され、静寂がつきまとう。

 自分も準備をしなければならない。

 かつて交わした約束を守るために。



 ──翌日昼過ぎ。


「ん、ん」


 高い少女の声。それはサルビアの目覚めの声だった。


「サルビア、おはよう」

「お兄ちゃん……?」


 寝ぼけ眼で愛好を崩すサルビア。目を擦りながら両腕を伸ばし、気持ち良さそうな声を上げる。


「見たことないけど、ここはどこ?」

「ここは僕の友人の家だ」

 

 そうなんだ、と言ってサルビアは立ち上がる。すると、いつもの音楽が聞こえてくる。


「あれ、この曲って……」


 ピタリと動きが止まる。次第に彼女は震えだす。


「……だ、め……」

「サルビア? 大丈夫?」

「ここにいちゃだめ……!」


 呼吸が激しくなり、息をするのもままならないほどの動揺。

 それを汲み取り、リオンはすかさず抱きしめる。


「落ち着いて、あいつはもういない。サルビアとの契約も解除された。繋がりはもうないんだ」

「だって、どうやって、お兄ちゃんは強くないじゃん!」

「僕は弱いよ。力も、頭脳も大したことない! だけど不屈の精神だけは誰にも負けない」


 ゆっくりと頭を撫でる。涙目で振り返り、自分を安心させるようにサルビアはリオンへ抱きつく。

 すると呼吸も安定していき、元の落ち着きを取り戻す。


(そういえば契約は解除されたはずなのに、どうしてサルビアは精霊界へ戻らないんだ?)


 不思議に思った。と同時に不安もこみ上げる。

 契約は精霊と人との間で交わされる。これは絶対だ。


 バシレウスはサルビアという精霊と契約を交わしたはずで。

 つまり、精霊であるサルビアが何故か現界し、妖精となっていて。

 しかし契約解除で解放されていないというこの状況。


 何かがおかしい。だが、今考えるべきことではないのだろう。

 目前には喫緊の問題がある。



♢♢♢



「全然起きない」

「そうだね……」


 数日が経った。

 無理矢理起こすこともできず、勝手に起きてくれることもない。

 昏睡、とはこのようなことを言うのだろうかと思うばかり。


「お医者様も手の尽くしようがないと仰ってましたし、私達にできることはもうないのではないでしょうか」

「待とう。起きるまで。そして、最高の終わりを見せてあげよう」


 脈拍は弱いが一定で、静かなものだ。

 まるでそれは落ち着き払った聖人のような静けさで。

 静寂の空間で時計の針の音だけが響く。

 もたらされたのは、苦痛という時間の連続だった。


 日は沈み、また昇ってくる。

 夕焼けがやけに目に染みる。


 日が完全に落ちて月の光が差し込む9時頃、弱い吐息とともに老人は目を覚ました。


「ずっと、待ってたのか。リオン」

「ああ、遅い目覚めだったよ」


 二人は視線を交わした。長く心を通わした老夫婦のように、彼らは黙ったままお互いを見る。


「……あの約束、頼んだぞ」

「うん。わかってる」


 車椅子に座らせ、暖かいように毛布を掛ける。

 数年ぶりに触れた彼の身体は予想以上に軽かった。

 脂肪も少なく、骨ばった薄い体。


 外へ出れば、満天の星空と、マーガレットやアネモネが咲き乱れる美しい花畑が見えた。

 冬には少し早いが季節を感じる絶景だった。


「ねえ、おじさん」

「なんだ?」

「寒くなってきたね」

「ああ、そうだな。また一つ歳を取った。相棒の壊れた斧はもう今年で十周忌だ」


 書棚の本も年季が入り、古本屋の匂いを醸し出す。

 そして新たに新書が加わるのだ。


「時間は早いね。僕にはあの邂逅は人にとっての数ヶ月前の出来事のように感じるほどだ」

「ややこしい例えだな。難しい言葉ばかり使うと疲れるぞ?」


 確かに少し疲れた。最近はいろんなことがあり過ぎて気が滅入る。それでもやらなければならないことが多く、ストレスがかさんだ。


「リオンさん、少しよろしいでしょうか」


 後ろの方から声がした。振り返るまでもなく、その声はセネカだった。

 用があるのは自分、ではなくリチャードの方であるとわかった。

 それは長年の付き合いにもよるが、何より時間を大事にしていることが見て取れた。

 最期の最後まで、彼女は彼を見るということを選択したのだ。


「おじさま……」

「どうした?」


 やっぱりリチャードはセネカと僕の扱いを変えているなあ。

 言葉遣いやそれらの節々から感じ取れた。

 後方からの会話を流して、リオンは眠るサルビアの下へ戻っていった。



 ♢♢♢



「二十年……もうそんなに経つのか」

「はい、長いようで短い時間でした」


 人の姿をかたどるセネカが小さく息を吐く。


「悪かったな、俺の我儘に付き合わせて」

「何を仰るんですか。私は貴方と居れて良かったと思っています」


 あの日から悠久と続いた日々は終わりを告げる。それは今日か、明日か、それともそのまた翌日か。誰にもわからない。

 だが、終わり際だからと、特別に振る舞うのは違う気がした。

 だからいつものように接することにした。


「今日は星が綺麗だ」

「星よりも綺麗なものがありますよ」

「ははは、それもそうだな」


 俺が笑うとセネカは少し不貞腐れたように口を尖らせる。


「冗談だ。お前は綺麗だよ」

「……! ですよね! そうだと思いましたよ」


 訂正すると、彼女は途端に笑みを浮かべた。ころころと表情が変わるのは見ていて面白いものだ。


「ああ、そうだ。美しさは年々増している。街に行けば誰もが振り返りお前を見ることだろう」

「ちょ、ちょっ……!」

「その美貌は世界に轟き、家庭のお茶の間にもその話題は上がるかもしれない」

「もうっ……! それぐらいにしてください。恥ずかしい」


 寒さで赤くなった頬をさらに上気させ、彼女は両手で顔を隠す。


「くくっ、あははは、あははははっ!」

「おじさま」


 低いトーンで少々怒っているのか、彼女は車椅子の取っ手に力を籠める。


「悪い。でも良いだろ、最後くらい冗談言っても」

「…………」


 哀愁漂う弱々しい背中で、彼女は沈黙する。

 いつものように接すると決めたばかりなのに、湿った空気になってしまった。意識していても無意識に口に出てしまう。

 俺は昔から頭が悪かった。それは語彙力がないだとか、そういうことじゃない。

 体が先に動いてしまうということだ。頭で考える暇をくれないほどに、俺の体は感覚的に、直感的に動いた。

 難しくないはずだった。あの日も状況を掴むよりも先に斧の先をあいつに向けていた。

 良く言えば行動力があると言えるかもしれない。だが、悪く言えば喧嘩っ早いと言えるだろう。


「何か言いたいこと、あるだろ?」

「…………私は、おじさまを尊敬しています」


 そんな大層な人間じゃない、なんて口に出すことははばかられる。

 今話しているのはセネカだ。自分を否定するのはセネカを否定することだ。


「私はおじさまを実の父親のようにお慕いしています。愛しています」


 驚いた。ただ純粋に。セネカがそこまで深く考えていると思わなかった。俺はただ彼女を──。


「最初に会ったときは正直少し怖く、熊のような人だと思いました」


 今でも鮮明に思い出せる。どれだけ時が経とうと、あの歌とあの日だけは絶対に忘れなかった。


「十年ほどいろんな国を渡り、たくさんの人と出会いました。優しそうな見た目で騙そうとしてきた老人。大海原で海の怪物と共に闘った漁師」


 それも覚えてる。手を離したすきに迷子になり、厄介な老人に唆されて売り飛ばされそうになったセネカを助けた。離島に住む歌姫に会いに海を越えようとして世話になった良い笑顔をした青年の漁師。

 あの頃は年甲斐もなく無茶をしたものだ。ちょっとした大冒険をした。


「それでも、彼らは所詮、赤の他人でした。上着を着せてくれたのは貴方とリオンさんだけでした。私が泣いていたときに傍にいてくれたのはいつも貴方でした。何度ミスをしても、理不尽な怒りをぶつけても、私を受け止めてくれた……!」


 溢れ出す思い出を語る彼女の目からは涙が零れていた。


「セネカ……」

「どうして、私を置いていくんですか……! どうして、一緒に居てくれないんですか……! どうして、私を心から見てくれないんですか!」


 最後の言葉は心に刺さった。それが彼女の本心であり、核心なのだと気づいた。

 俺はずっとあの神々しい姿を追いかけていた。そして、セネカを守るのは契約によるものだと、心の片隅で考えてしまっていた。

 一度も彼女に向き合ってやれなかった。優しくしていたのも契約によるものにしていた。


 頼りない背に寄りかかる彼女は、様々な感情がない交ぜになり、それらすべてが涙に表れていた。


「答えてください、おじさま!!」


 彼女は赤子のように泣きじゃくる。俺はただ、返す言葉が見つからなかった。だから、いつものように考えるより先に、その手が伸びていた。


「なんですか、それ……」


 頭をゆっくりと撫でる。それだけ。今の俺にできることはこれしかなかった。許してほしいなどとは思わない。だが、せめて育て親として、責任を果たすべきだと体が思った。


「私は、もうそんな歳じゃないですよ……」


 口ではそう言っても、彼女はその手を振り払えない。いつまでも子どものようにされるがままだ。


 泣き止むなど不可能で、彼女は枯れるまで泣き続けた。

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