第7話
街はてんやわんやと大騒ぎであった。
家に逃げ込む人、わけもわからず叫ぶ人、呆然と氷柱を見上げる人。
そんな喧騒の中、リオンは道の真ん中で立ち止まっていた。
何が起きている。誰がこんなことをしたのか。疑問はつきない。
けれども、確信があった。少なくとも教会への恨みではないと。
ならば何のためにこんなことをしたのだろうか。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
情がないわけじゃない。正義のヒーローぶったことをしたくないからではない。
ただ、迷いがあったのだ。優先すべきものを考えて、あの子が無事ならそれでいいという思考に繋がっていたのだ。
教会にはお世話になったとはいえ、密接な繋がりは皆無だった。
だが、それはただの言い訳だ。本当はどうでも良かったのだ。
だから、災厄は自分が招いたのだということに、終ぞ気づけなかった。
コツコツコツ
「バシレウス様、バシレウス様! ちゃんと防御結界で全員守りましたですよ! 褒めてください! 休みをください!」
「良くやった。さっさと帰るぞ。二日後には休暇は終わるがな」
「そんなあ〜」
前方から明瞭に聞こえる二組の足音と声。小柄な少年が大荷物を背負い、金髪を逆立てた男が風を切るように歩く。
吹き寄せる威圧感を含む強い空気。
緊張で視野は広くなる。
五感は逃げることを勧めていた。
逃げれば他の住民と同じように安全無事が保障されただろう。
許された平穏を得られただろう。
だが動けなかった。少なくとも、彼らから目を離すことはできなかった。
僅か一秒にも満たない時間の中で、リオンは思考が完全に固まってしまった。
距離はますます近くなり、とうとう二人が隣を通り過ぎようとしたとき、ようやくリオンの思考は動き始めた。
心拍は上昇し、早く去ることを祈った。
功を奏して足音は遠ざかっていく。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
立ち止まっていた歩みは少しずつ前へ進んだ。
一刻も早く教会へ。頭の片隅にちらつく二人の影を無視して、時間の経過につれて歩みは早足に、早足は走りに変わる。
「もっと湯を湧かせ! 司教様を助けるんだ!」
近づけば全貌が把握できた。
地上数メートルに下半身を氷漬けにされた、老いた牧師姿の男性。
その周りの氷を溶かすべく、周囲の人々は必死に湯をかけていた。
「司祭様……」
焦燥感と混乱が綯い交ぜになった表情を浮かべる司祭の姿がそこにはあった。
「リオン様……!」
「何があったんです」
「────っ!」
唇を噛み締めて司教は頭を下げる。
「申し訳ございません! 金髪の男が教会に踏み込んできて……」
「サルビアはどこですか」
概ね予想しながらも、一理の望みにかけて司祭に問う。
だが返ってきたのは面白くもない返答だった。
「私たちは成すすべもなく結界に囚われてしまいました。結界は壊すことも不可能で、解けた時にはサルビアさんは連れ去られて」
怒りの矛先は違うとわかっていても、それでも頭に血は上ってしまう。
信頼していた。ただ信用していただけではない。だから彼女を預けられた。それなのに、
「何も上手くいかない……」
人生とは、幸と不幸が入り乱れるものなのだろうが、己の不幸の連続に嘆かざるを得ない。
「まだ間に合うか」
「どこへ行く気ですか?!」
焦ったように司祭はリオンの腕を掴む。
「あの男のところだよ」
「この氷柱が見えないのですか?! 歯向かえば殺される、そんなの目に見えてます! わざわざ無駄死にするつもりですか?」
「司祭様、僕は貴方を勘違いしていた。結界が解けたあと、大した関わりのない司教様を助け、サルビアを追いかけなかった。それは貴方があくまでも他人だからだ。他人の貴方には僕らの絆はわからないでしょう」
一刻毎に際限のない怒りが沸いてくる。
「たとえ、死ぬことになったとしてもですか?」
「もはやサルビアは妹みたいなものだ。兄が妹を命懸けで助ける、それが可笑しいですか?」
彼女がどんな業を背負っていようと構わない。過去に何があろうと構わない。
今はただ、助けたい。
司祭の手を振り切り、リオンは脚に力を籠めて走り出した。
体力が残っていない体のエネルギーを振り絞り、加速する。
何度も人にぶつかりながら少しずつ前進を重ねる。
体中から汗が吹き出し、脇腹が痛くなってくる。
それでも走ることを止めない。
いつしか、考えることをやめていた。
脳裏に刻まれた記憶が彼女の正体を唆してこようとも、無理矢理思考を捻じ曲げようとしていた。
だが随分前からわかっていたことだ。
彼女は時々何かに怯えていた。それを見せないために明るく振る舞っていた。
その原因があの男なのだろう。
「──だから逃げるのはもうやめよう」
街から出て草原を駆け抜けた。彼らは当たり前のように悠々と歩いていた。
「誰だ?」
金髪の男が振り向く。
二度目でも慣れなど訪れず、背中を走る冷たさに戦慄する。
あまりのプレッシャーに押し潰されそうになる。
「その鞄の中身を見せてもらいたい」
自信に満ちた男の表情に変化が見られた。
「二度はない。誰だ?」
「質問に答える気はない。鞄の中身は何だと聞いているんだ」
冷たい空気が汗を冷やして肌寒い。手が震える。それでもやらなければならない。
男は無表情で一歩前へ。
リオンも負けじと前へ出る。
「あの小虫に何の用だ」
「小虫? 妖精を虫と表現しているのか?」
「いいや、生物全てだ。当然、貴様もな」
言葉は通じるが、話は通じない。それが一言に凝縮しているような気がした。
「バシレウス様、ここは」
「邪魔をするな」
「はい」
付き人が前に出ようと声を出すが、男はそれを一蹴する。
「俺様のモノに何の用だ」
「彼女を縛るものを、鎖を絶ちに来た」
寒空の下、気温はさらに下回る。マイナスに達すると、吹雪が周囲を取囲み始め、足元に雪が積もった。
時刻は夕暮れ時。西日が右側から二人の影を生み出し、吹き荒れる風が下草を薙ぎ倒し雪に埋もれる。
「氷雪系……」
「弱いな。通常の精霊術師なら既に反撃しているぞ?」
「……どうして僕が精霊術師だと?」
驚きを隠せなかった。だがそれ以上に、男の全てを見透かしたような視線が気に食わなかった。
「丸腰の貧弱な肉体で闘えるのは精霊術師か獣使いしかいない。獣がいないのならば答えは一つだろう?」
「ただの無謀な人間かもしれないよ?」
「それならそれで良い。害がなければ相手する必要すらなし」
駄目だ。僕はこの男に勝てない。なぜなら、あまりにも形が固まり過ぎている。言葉で崩すことができない。
「なるほど、僕と君は正反対に位置しているんだね」
「何……?」
「君は人殺しの目をしていない。君は人を人とも思っていないから。幾千幾万の人を無造作に殺してきたんだろう。君の足元には死体の山が築かれている」
「ふむ。面白い表現だ。続けろ」
上から目線でリオンを見下す。リオンは不快さを露わにしながら男を見上げる。
「僕は幾千もの命を看取ってきた。その中には滅ぼされた街、殺された人々もいる。僕の目の前には横たわる人はいない。積み重なる死体の山が築かれた」
辛かった。言葉を交わして死んだ人々は三桁を超える。中には悲惨な最期を遂げた者もいた。彼らは皆泣いていた。
守れなかった。叶えられなかった。彼らの怨恨が手に取るようにわかり、リオンは真の悲しみを知った。
「僕は死を理解した。君は死を理解していない。僕は最弱だ。君は最強かもしれない。そして、君は僕を殺せない」
呆気にとられた様子で男は言葉を理解しようとする。しかし、理解できなかった。道端の虫に煽られている、その事象があまりにも突飛なことで笑いすら起こらない。
「ならば死ね」
舞い散る雪は凝固し、氷と化す。
数十の氷槍が男の背後に浮かび上がり、リオンに放たれる。
そしてリオンの心臓は呆気なく貫かれた。
急速に縮むリオンの寿命。冷たくなる指先。
精霊がまた囁いた。
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