第6話

 嗚呼、死神の足音が聴こえる。

 ここから先は瞼を閉じてはいられない。

 指先は徐々に固くなり、動くこともままならない。

 夢ならば覚めてくれ。

 もはや、死神の歩みは止められぬ。

 まだここにいたい、そうは心の底から、深く深く願った。



 ──夜が明けて数時間。日が顔を出すお昼前。

 リオンは週課のリチャード訪問に出かけていた。


「一週間ぶりです、リオンさん」

「一週間ぶり、セネカ」


 定例の会話を済ませ、リオンは奥の寝室へと足を進めた。


「あれ、おじさん寝てるの?」


 いつもの景色と異なるものが、そこには現出されていた。


「……なんだ、寝てるだけか」


 安らかな寝息で安堵の念を覚える。

 ただリチャードは早起きが習慣であった。

 であるからして、この時間に寝ているのは不自然だった。

 きっと夜更かしして読書にでも耽っていたのだろう、とリオンは推測した。


「セネカ、レコードってこれだけしかないの? いくらなんでも聞き飽きてきたよ」

「私もいくつか買ったんですけどおじさまに捨てられてしまいました」

「そろそろ耳がおかしくなりそうだ」

「そう言ってかれこれ三年ほど経ちましたよ」


 呆れる声が耳に入る。しかしリオンは敢えて聞き流した。


「セネカは『終末論』を読んだことある?」

「なんですか、やぶから棒に」


 刺々しい彼女の口調に苦笑いをせざるを得ない。


「書にはこういう一節がある。『命は散り際も美しいが、また生まれた時にも美しい。そのかけがえのない命は死ぬ為に生まれてきたのだ。では、散り得ぬ命は美しくないのだろうか。もし美しくないのであれば、人は醜い生き物であろう。何せ人間とは、不老不死を追い求める種族なのであるから』、と」


 外から風がそよぎ、部屋の温度が僅かに下がる。


「……それはあなたの自己嫌悪ですか?」

「いいや、違う。何せ僕はこの意見に反対だからね」

「永遠の命は美しい、と?」

「それも違う。僕が言いたいのは、死は決して美しいものではないということだ」


 目を閉じて過去へ思いを馳せるリオン。

 

「人が気持ち良く寝てるってのに、隣で気持ち悪いこと騒ぐんじゃねえよ」


 先程まで寝ていたはずのリチャードが、目を閉じたままそう言った。 


「死ぬだの生きるだの、人間はいつか死ぬんだ。今さらだろ」

 

 太い声でハキハキと喋るリチャードの姿は、かつての力溢れる大男の姿を想起させた。

 彼の瞳には、まだ諦められないという意が籠もっていた。聖女の唄をもう一度聞くという願いがそこにはあった。


「人はいつか死ぬ、か……じゃあ老いることのない僕は何なんだ」


 吐き捨てるように窓の外を見ながらリオンは本音を溢した。


「……お前はお前だ。俺の親友で妖精たちを救ってきた英雄だ」

「違う、違うんだよ、リチャード」


 初めて、あの日出会ってから一度も言ったことのない言葉をリオンは口にした。

 普通の人間には理解できることではないんだ、と。

 人は生の道を歩んできた。衛生環境を改善し、医療技術を発達させ、薬の開発に邁進してきた。だが、


「僕はやまいにも、身体が弱ることもない。人とは根本的なつくりが違うんだ。いくら他人を救おうとも、この気味の悪い身体は永遠に動き続ける。僕は……化け物だ」

「それは違う……っ!」


 リチャードは声を荒げる。しかし、リオンの心には響かない。


「違わないよ。君だって僕を親友や英雄とは言っても、人間だとは言わなかったんだから」

「────!」


 気づかなかった。いや、無意識に差別していたのかもしれない。

 そのことに気づかされたことが何よりショックだった。

 言葉を失うリチャード。それでもリオンの顔を晴らしたかった。


「だがお前は変わった。昔のお前はもっと冷たく、人を信用していない目をしていた」

「たとえそうだとしても! 僕の心根は何も変わっちゃいない! 二十年前から一度も!」


 上擦る高い声。今はその声までもが憎らしかった。


 背は伸びなかった。成長しないから。

 喉仏は出なかった。成長しないから。

 顔も子供のまま。


 何も変わらない。変えられない。これは呪いだ。

 エルフのように緩やかな成長を示してくれれば、少しは気が楽になったかもしれない。


「命はいつか消えてなくなる? 一体何人の死を見ればいい? 僕が見てきた死はもはや山のようにうず高い」


 死体の山を頂上から見下ろすのと違い、下から見上げる死体の山は、想像を絶する辛さがあった。

 見ているしかできない。リオンの体のように、何もすることができないのだ。


 見下ろせば楽になるか。

 否。罪となり哀しみを得るだけだ。

 

「心を交わした友が死にゆく姿を黙って見守る、それがどれほどの苦痛か君はわかんないんだろうね」

「なんだとっ?!」

「リオンさん……っ!」


 言い過ぎだと、セネカは声を上げた。


「言わないと……言わないと駄目なんだ。心残りは全部排除しないと」

「何故そんなことをするんですか?!」

「もう時間がないからだよ!!」


 息を切らしながらリオンは叫ぶ。


「精霊がしつこく耳元で囁やき続けているんだ。まもなく裁判が始まるって! あいつがそう言ったときには僕の周りで必ず誰かが死んだ! リチャード、自分の体のことぐらいわかってるだろ?」

「……そうか」


 はっとした。初めて会ったときのあの表情。エルフの少女を慈しむ優しい表情。

 それが幻視できた。


「もう、無理するなリオン。思えばあれから俺は貰ってばかりだったな。一つぐらい返してやらねえとバチが当たりそうなぐらいだ」


 から笑いするリチャードの目には、大した欲は残っていなかった。ただ恩返しがしたいと言うだけだった。


「だから──」


 何か言おうとした時、彼は前のめりになって咳き込んだ。


「おじさん!」

「おじさま!」


 手で制するリチャードだが、咳は止まらず、かえって悪化する。

 手は血に濡れ、布団にも大きな染みを作る。


「駄目だ、まだ死なせないよ」


 リオンは家を飛び出して走り出す。

 まだ間に合うと直感がそう言っていた。

 だから走った。


 もう覚悟はできた。心残りはもうない。

 明日死ぬかもしれない。今日死ぬかもしれない。

 それがどうした。かもという言葉に振り回されるな。

 自分の道を歩け。迷わず、一歩ずつを。


 とはいえ、焦燥感は消えなかった。

 焦る気持ちを沈め、なかなか来ない電車に苛立つ。

 車輪の音がやけに遅く感じる。


 景色は移り変わって電車の中に。

 今更ながらの黄金色の景色は、例年よりも色褪せて見える。


 早く着け。早く着け。早く着け。


 迫りくる街を窓から顔を出して遠目に見た。

 最初に見えたのは街から逃げ出す多くの人々だった。


 何から逃げ出しているのかと視線を上げると、


「何だ、あれは……?」


 困惑と混乱、次いで嫌な感覚。

 何か悪いことが起こっていると直感で気づく。


 変わり果てていた。


 街の中心にそびえ立っていた美しい聖堂が。


 天にも届きそうなほど高く、高く突き出し冬の地獄を生み出す。


 近寄る者を全て凍らせるような、巨大な氷柱へと。


「あの場所には……!」


 人々の祈りの象徴はお隠れになった。


 ああ、また精霊が騒いでいる。

 魂の裁定は終わらない。

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