第5話
あの日は確か、雪融け前の冬の夕方であっただろうか。
ふと、リオンはリチャードとの初めての邂逅を思い出していた。
──二十年と半年前。
アウストリア帝国北方、ソメイユ王朝のさらに北側にある、大森林。
雪が積もり、辺りは薄暗く獣の気配もしない、そんな森の中。
リオンはいつもと変わらず歩いていた。
「寒いな……」
白い息を吐き出し、周囲を見回しながら新雪を踏みしめる。
自然界には妖精は産まれやすい。なぜなら人里を避けるから。
痛く単純な理由だ。それは一般常識として認識されること。
だから、リオンは各地の森や山や歩き、時には海に潜ることもあった。
鬱蒼とした森を歩くリオンは少しうんざりしていた。
進めど進めど辺りは銀一色。日が明るい時間帯でないのは喜ばしかった。だが、魔物の気配もないのでは無駄足だったのではないか、そう思い始めていた。
近くに人の住む小屋などもなかった。
まるで生物そのものが存在しない森であるかのように。
方角は見失っていない。だがこうまで同じ景色だと自分が同じ場所を歩き回っているようにすら感じる。
それからしばらく歩くと視界の右端に何かが映った。右前方を見ると、
「人……?」
木の側に倒れる少女を見た。
気を失っているのだとしたら危険な状態だった。
故にリオンは少女へ駆け寄る。
距離が縮むにつれ、リオンは気づいた。
彼女は人ではなかった、と。
耳が鋭く尖り、長かった。加えて爪先は青紫色で顔色が悪いというのに、彼女は整った顔立ちであった。
エルフだ。すぐにリオンはわかった。
大荷物を地面へ下ろし、毛布で彼女を包む。
息はあるが状態は酷い。早く火のあるところへ移動させる必要があった。
「何してんだ、お前!」
後ろの方から叫び声が聞こえた。
振り返ると熊の剥製を被り、斧を向ける大男。
この森に熊っていたのか。
リオンはのんきにそう考えていた。
「子供に刃物を向けるなんてどんな教育を受けているんだい?」
「はっ、笑わせるな。子供だろうが大人だろうが関係ない。こそ泥にも子供はいるし、大人でも善人はいる。それより何をしているんだと聞いているんだ!」
「見ればわかるでしょ、死なないように手当てしてるんだよ」
彼女に目を戻して返事をする。
大男がリオンを襲うつもりだったなら、声を出す前に斧を振り下ろしていたはずだ。
だからリオンは対話ができると思った。だが、同様に斧を向ける相手に礼儀の必要があるとは思わなかった。
「奴隷商に売り捌く気だろ! てめえの魂胆は見え見えなんだよ!」
エルフの長耳を見て思ったのか、大男は酷く荒げた声で言った。
「そう思いたいならそう思えば? その代わり君はこの子を助けもしない薄情者のレッテルを貼られるだけだけど」
「ああん? 俺はそもそも──」
「耳障りだ。鼻から助ける気があるのならば、僕を手伝って彼女を介抱すべきなのに、君はそうはしない」
今も刻一刻と擦り減る彼女の命は、無駄な数分で散るかもしれない。それなのに邪魔をする大男にリオンは怒りを抱いていた。
「頭で考えるより先にやることがあるだろ? 背中の薪は飾りか?」
しばらく睨んだあと、唐突に大男は動き出した。
地面の雪を除いて焚き火の準備に取り掛かる。
手慣れた様子で火をつける。だが乾燥が足りないせいか火が弱い。
「これも使って」
リオンが鞄からあるものを取り出して投げ渡す。
「これは?」
「乾き草。小さな水溜りぐらいなら全部の水を吸収できる。枝の水分もそれが抜き取ってくれるはずだ」
簡潔に、そして冷静にリオンは説明した。
「薬草はあるけど食べ物があまりない。何か持ってない?」
「米と熊肉なら」
「病人が熊肉なんて食べられるわけないでしょ。……平常時でも嫌だけど」
最後は聞こえないように尻すぼみする。熊肉は脂と獣臭が酷く、リオンは苦手としていた。
「お米ちょうだい。
栄養が豊富な水で育てられた薬草は質が向上する。
効能が高く、栄養価も高いのは言うまでもなかろう。
一通り作業を終えたところでリオンは話を切り出した。
「僕は旅人のリオン。君は?」
「……俺はリチャードだ」
「貴族の家名みたいな名前だね。出身は?」
「アウストリア帝国のイーストシティだ」
確か知人の一人がそこにいたな、とリオンは思う。
出身があの街ならば貴族ではないのだろう。なぜなら貴族は帝国に現在存在しないからだ。
「うん、ん」
目を覚ますエルフの少女。彼女はエルフ特有の
「おはよう、喋れるか?」
リチャードの口調には優しさが含まれていた。
(僕と喋っていたときとは大違いだ)
リオンは心の中でくすりと笑う。
「君は人間の子供は信用しないのに、エルフの少女は信用するんだね」
リオンは皮肉るようにそう言った。
「一人で旅するガキがいるかよ。見た目で判断するな、って親父に教え込まれてんだ。話し方も子供にしては気持ち
リチャードはそう吐き捨てる。それに対してリオンは
「非道い言い草だ」
「だが事実だろ?」
「……そうだけどそんなこと、子供の前で口にしていいの?」
「だからてめえは──」
「僕じゃなくて」
リオンはエルフの少女がリチャードをじっと見つめているところを指差した。
「あ……」
「ま、僕はこの性格だからなんでもいいけど、君は違うんでしょ?」
鼻で笑うリオン。それにやや顔色悪くするリチャード。
何だか可哀想に思えてくるが、リオンはまだ斧を向けたことを許した訳ではなかった。
意外と根に持つ性格である。
「ち、違うんだ、嬢ちゃん。今のは、えっと〜」
「おじさん、怖い」
「あばばばばば」
胸を仰け反らせ、心を抉られているリチャードを見て、リオンは薄く笑う。
「はい、水霊粥ができたよ。食べる?」
グツグツと煮立つ薬草たっぷりの水霊粥。
香りが立ち昇り、星の見えない夜空へ消えていく。
「お兄さんは胡散臭い」
「君は正直だね。その性格は
「あつれき?」
「喧嘩に発展しやすいってこと」
「…………」
「今は体を癒すことを優先した方がいい」
彼女が何故あんな場所に倒れていたかは定かではない。
だが、憶測はできる。大方エルフの村にいて追い出されたとかそんな理由だろう。
大人しく少女は器を受け取った。
一口、二口と食べる速度が徐々に早くなっていく。
飢えていた様子はなかったため、急いで食べても胃に大した負担はかからないだろう。
エルフの少女は疲れた様子だったので、食べ終わるとすぐに眠りについた。
さて、彼女をどうすべきか。リオンは考える。知り合いに預けるか、それとも精霊界へ送るか。
相談するためにまだ項垂れている大男へ声を掛けることにした。
「おっさん、ねえおっさん」
「おっさんはやめろ」
「じゃあおじさん。彼女の面倒は誰が見るべきだと思う?」
「…………」
押し黙り、考え込む様子を見せるリチャード。
普通の孤児ならば孤児院やらに入れれば済むだろう。
しかしながら、彼女に限ってはそれは通用しない。
エルフとは、その美貌ととある技術で栄えてきた種族と認知されている。
すなわち、リチャードが最初に発言したように、エルフらは奴隷として高値で取り引きされる。
簡単に他者に預けることはできないのだ。
「正直、僕は君をあまり信用していない。手を汚さずに彼女を手にしようとしている可能性も拭えないからね」
「はっ、ならてめえはどうなんだよ」
「もちろん、僕も信用するに値しない。だから……」
一瞬の逡巡の後、リオンは横目に言う。
「契約をしよう」
「契約……?」
紙にでも書くのか、とアホ面をする大男に、リオンは真剣な顔つきで首を横に振る。
「魔法の契約だ」
「!! ってことはお前は精霊術師だったのか!」
「そうだ。だから彼女が寝てから言った」
「だがよ、なんで精霊術師ってことを黙ってたんだ?」
「僕は……術師としてはあまりに弱すぎるから。それに隠さなければならない秘密がある」
白い息を吐きながら、リオンは淡々と言った。
「少し話し過ぎた。契約に入ろう」
薬草を刻んだナイフで指を切り、リオンは契約の言葉を紡いだ。
「【来たれ、
風が巻き起こる。冷たい空気に穴が開く。
血文字の契約書を書いていくにつれ、リオンの表情は険しくなっていた。
「署名を」
「……ちょっと待て。これは……どうしてこんな条項を……いや、それにお前はどうして……?」
「教える必要もなければ知る必要もない。君に都合が悪くもなければ良いわけでもない。関係のないことに首を突っ込まないで」
臭いものには蓋をせよ、という格言があるように、秘密は決して漏らさせないし漏らす余地を与えない。
感情の鍋蓋を閉じたまま、リオンは契約完了の祝詞を告げる。
「【
彼と契約した条項には三つの項があった。
一つ目は、エルフの少女の身の安全を確保するもの。
二つ目は、少女を引き取るのはリオン、リチャード双方いずれかでなければならないこと。
そして三つ目は、────。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます